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第九章 最期の一枚
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あの日以来、月岑が度々、吾柳庵を訪ねて来るようになった。写楽の話を聞くのが、余程に楽しいようだ。長喜にしても、鉄蔵や馬琴には、かえってできない話ができて、楽しく感じていた。
初めて会った日こそ、写楽の正体に拘っていた月岑だったが、今は何も聞いてこない。部屋に掛けてある肉筆画の美人が関わっていると、おそらく気付いているのだろう。だが、触れてはこなかった。
じわりと暑さが滲む文政四年皐月朔日(一八二一年五月三十一日)。
長喜は、平素のように文机を庭に向けて置き、絵を描いていた。
文机の上に鏡を置き、自分の顔を識認する。
不意に、庭に目を向けた。
「そういやぁ、お喜乃が初めて耕書堂に来たのも、こんぐれぇの時季だったなぁ」
何気なく呟く。
獣のような眼をした美しい娘との出会いが、総ての始まりだった。
外で草を踏む音がした。足音が近付き、庵の戸が開いた。
「翁、いますかぇ? 今日は土産を持って来ましたぜ。暑くなってきたが、水は飲んでいますかね? 飯を食うのは忘れていねぇでしょうね? 昨晩は、ちゃんと寝ましたかね?」
月岑が、入ってくるなり世話を焼き始めた。
「飲んでいるし、食っているし、寝ているよ。月岑よ、その扱いは爺じゃぁなく、子供のそれだぜ。俺ぁ、そねぇに、しだらねぇ暮らしは、しちゃぁいねぇぞ」
見上げると、月岑がにっかりと笑っていた。
「長喜翁は絵を描き始めると、他は何にもしなくなるでしょうが。絵師ってぇ人間は、皆、そうなので? この前、北斎先生の所に行ったら、部屋の中が驚くほど散らかっていやしたぜ。飲み食いも忘れて、絵に熱中していやしたよ」
鉄蔵の部屋を想像して、得心する。
「あの鉄蔵と、一緒にするねぇ。あいつぁ、昔っから片付けができねぇんだ。蔦重さんの所に居住している時から、部屋の中が汚くってなぁ。伝蔵によく揶揄われていたよ」
月岑が茶を淹れて、握飯を持って来た。
「鉄蔵に伝蔵ってぇのは、北斎先生と京伝先生ですけぇ? 名士ばかりが住んでいたんですねぇ。馬琴先生とも仲が良いし、長喜翁は顔が広いや。で? 今は、何を描いているんです?」
月岑が描きかけの絵を覘き込む。
「手前ぇの絵だよ。美人だ、役者だ、風景だと色々描いてきたが、自分の顔は描いた例がねぇからな。そろそろ描いてもいい頃合いかと、思ったんだよ」
月岑が、吹き出した。
「何だって今更、自分の顔なんです? 肖像を描くのも、練習になるんですけぇ? 自分の顔を描く絵師も多いですよねぇ」
鏡で口の形を確かめながら、応える。
「なるっちゃぁ、なるだろうなぁ。顔の形を探るのに、他人様の顔をじろじろ眺めるよりゃぁ、手前ぇの顔を眺めるほうが、面倒がねぇしな。そんで、月岑。今日は、何しに来たんだ」
鏡から顔を上げると、月岑が困った顔をしていた。
「食べるもんを手土産に持って来たんですよ。どうせ、ろくなもんを食っちゃぁ、いねぇんだろうし。ついでに、生きているか確かめに、ね」
長喜は、乾いた声で笑った。
「詰まらねぇ皮肉を言いやがるなぁ。けどまぁ、そろそろお迎えが来る頃合いだろうからな。間違っちゃぁいねぇや。一先ず、今は生きているぜ」
月岑が小さく息を吐いた。
「やめてくだせぇよ。明日も明後日も生きていてもらわにゃぁ。俺ぁ、翁から、もっと話を聞きてぇんだ。今日は、ちぃと忙しくって、これで帰りますがね。また明日、来ますよ。明日は居座るから、そのつもりで、絵を仕上げといてくだせぇよ」
機嫌よく、月岑が手を振る。
「すまねぇなぁ、月岑。明日は、会えそうもねぇ。人生の最期に色々と話せて、俺ぁ、楽しかったぜ。有難うな」
月岑が真顔になった。だがすぐに、クックと笑う。
「まぁた、同じ話をしていらぁ。前にも、そう話した次の日に、ぴんしゃんして絵を描いていたでしょうに。詰まらねぇ冗談は、翁のほうだ」
決が悪くなり、頭を掻いた。
「あらぁ、絵を描き損じただけでな。虚言を吐いた訳じゃぁねぇんだよ。今日のは本当だな」
「へぃへぃ、わかりやしたよ。それじゃぁ、明日、また来ますよ。絵を描くのもいいが、ちゃぁんと飯を食ってくだせぇよ」
月岑が背を向けて、庵を出ていく。
「本当に、有難うな。浮世絵類考の、それ以外にも、東洲斎写楽の件を、宜しく頼むぜ」
月岑が振り返った。
長喜の顔を眺めていた目が、笑みを消した。
「その件に付いちゃぁ、勿論、心得ていますぜ。俺ぁ、翁の友人だ。約束は、何があっても違えやせんよ。翁、俺ぁ、明日も来るからな」
月岑の念押しに、長喜は頷いた。
戸が閉まり、月岑が帰って行った。
長喜は、また絵に向き合った。
懐から一枚の絵を取り出す。喜乃が最期に描いた、長喜の姿絵だ。
「これに比べりゃぁ、巧くは描けねぇかなぁ。今より、ずっと若ぇしな。ま、爺の今と比べるのも一興、ってな」
小さく零して、長喜は筆を執った。書き残していた口元と体を描き込む。座した姿は、今の歳相応に落ち着いて描けた。
息を吐いて、筆を置く。
自分で描いた絵の隣に、喜乃の絵を並べた。
「やっぱり、歳をとったなぁ。お喜乃が描いてくれた絵の歳から、二十五年も経っているんだ。当然だよな」
ふわり、と背後から柔らかな風が吹いた。
「そうね。長喜兄さん、とてもお爺さんになったわ。けど、あんまり変わっていないと思う」
振り返ると、喜乃が立っていた。
壁に掛けてある肉筆画から、人の姿が抜けている。
「よぉ、お喜乃。久しいなぁ。あの絵は依代になったけぇ? よく描けているだろう」
喜乃が自分の姿を眺めて、頷いた。
「とても綺麗に描いてもらえて、嬉しいよ。他にも、たくさんの私を描いてくれて、ありがとう。長喜兄さん、ようやく自分の絵が描けたのね。これなら、道標になるね。やっと迎えに来られたわ」
喜乃が部屋の中から庭を見回した。
「吾柳庵、懐かしいな。ここで暮らした日々は、幸せだったもの。私がいなくなっても、兄さんは吾柳庵に住み続けてくれたのね。約束通り、長生きもしてくれた。私がいない二十五年は、楽しかった?」
喜乃が長喜の隣に座す。
「そうだなぁ。それなりに楽しかったよ。ずっと、ここに住んでいた訳じゃぁなくってな。伝馬町で家主なんかもしていたんだぜ。けど結局、戻ってきて、ここで絵を描いていた。吾柳庵が、一番落ち着いて絵を描ける。ここが俺の居所なんだろうぜ」
喜乃が笑みを湛えて頷く。
「お嫁さんは貰わなかったの? ずっと一人だったの? もしかして、私に気を遣った?」
長喜は、ぽりぽりと頭を掻いた。
「いいや、一人、貰ったよ。けど、流行病で一年も一緒にいられなかった。蔦重さんや歌麿兄ぃや伝蔵、それに十郎兵衛様も、先に逝っちまった。悲しくって寂しかったよ」
喜乃が安堵の表情をした。
「良かった。長喜兄さん、私に気を遣って、ずっと一人でいたら、どうしようかと思っていたの。けど、先に逝ってしまったのは、辛かったね」
喜乃が悲しそうに眼を伏せる。
「嬉しい話も、たくさんあるぜ。鉄蔵が挿絵から大成してよ。今や、北斎大先生だ。馬琴なんざ、寵子の作家だぜ。南総里見八犬伝てぇ大作を書き続けていてよ。あの姫様は、お喜乃を想定して書いている気ぃがするなぁ」
長喜の横顔を眺めていた喜乃が、微笑む。
「皆、自分の道を切り開いたのね。長喜兄さんは? 絵は、悔いなく描けた? 楽しく、描けた?」
長喜は、しばし考えた。
「楽しかったが、苦しかったなぁ。けど、やっぱり、描くのを止められなかったよ。悔いは、ねぇとも言い切れねぇが。続きは黄泉で、お喜乃と描きてぇな。お喜乃がいねぇ二十五年より、お喜乃と過ごした十二年間のほうが、俺にとっちゃぁ、濃くって鮮やかで、輝いて感じたよ。あの十二年は、別格だった」
喜乃が、にっこりと笑う。立ち上がると、手を差し出した。
「もう、逝ける? 心残りは、ない?」
喜乃の手に、手を伸ばす。
「最後の気掛かりは、月岑が引き受けてくれた。俺の、この世での務めは、終わりだ。心残りは、ねぇよ。お喜乃が迎えに来てくれたしな」
喜乃の手を、しっかりと握る。
立ち上がり、喜乃と向かい合う。額を合わせて、二人で笑った。
長喜の描いた自分の肖像が、舞い上がる。青い灯になり、道を示した。
二人の体が、浮かび上がる。
「逝こう、長喜兄さん。黄泉で師匠とたくさん絵の練習をしたのよ。歌麿兄さんとは、絵の勝負ばっかりしているわ。今でも、私の絵に文句を付けるのよ。私は兄さんのようには描きません、って喧嘩しているわ」
長喜は、クックと笑った。
「何でぇ、やっぱり喧嘩しているのけぇ。兄ぃは、お喜乃に噛み付いてほしかったんだ。きっと喜んで、勝負に挑んでいるぜ」
足下に自分の体が見えた。座したまま、眠るように目を閉じている。
「俺ぁ、死んだんだなぁ。現を写すのは、楽しかったな。黄泉でも楽しく、絵を描けるといいなぁ。一緒に描こうな、お喜乃」
喜乃の手を強く握り、顔を上げる。青い灯を見失わないように、追いかけた。
目の前に薄い白が広がっていく。まるで、何も描かれていない真っ白な紙のようだった。
次第に意識が白む。長喜は安堵した心持で、空に吸い込まれていった。
【あとがき】
長喜と喜乃の物語、お楽しみいただけましたでしょうか。
別の物語を描くために調べていた写楽をこういう形で物語に出来るとは思っていませんでした。自分なりに納得のいく仕上がりになったなと思っています。
最期に長喜を迎えに来たお喜乃が本当にお喜乃だったのか、長喜の願望が形になった夢だったのか。黄泉で石燕師匠や月沙や石鳥や歌麿兄ぃと楽しく絵を描く長喜と喜乃を思い浮かべると泣きそうです。
読んでくださった皆様の心にも何かが残ってくれたらいいなと思います。
長喜の最期までお付き合いいただき、ありがとうございました。
初めて会った日こそ、写楽の正体に拘っていた月岑だったが、今は何も聞いてこない。部屋に掛けてある肉筆画の美人が関わっていると、おそらく気付いているのだろう。だが、触れてはこなかった。
じわりと暑さが滲む文政四年皐月朔日(一八二一年五月三十一日)。
長喜は、平素のように文机を庭に向けて置き、絵を描いていた。
文机の上に鏡を置き、自分の顔を識認する。
不意に、庭に目を向けた。
「そういやぁ、お喜乃が初めて耕書堂に来たのも、こんぐれぇの時季だったなぁ」
何気なく呟く。
獣のような眼をした美しい娘との出会いが、総ての始まりだった。
外で草を踏む音がした。足音が近付き、庵の戸が開いた。
「翁、いますかぇ? 今日は土産を持って来ましたぜ。暑くなってきたが、水は飲んでいますかね? 飯を食うのは忘れていねぇでしょうね? 昨晩は、ちゃんと寝ましたかね?」
月岑が、入ってくるなり世話を焼き始めた。
「飲んでいるし、食っているし、寝ているよ。月岑よ、その扱いは爺じゃぁなく、子供のそれだぜ。俺ぁ、そねぇに、しだらねぇ暮らしは、しちゃぁいねぇぞ」
見上げると、月岑がにっかりと笑っていた。
「長喜翁は絵を描き始めると、他は何にもしなくなるでしょうが。絵師ってぇ人間は、皆、そうなので? この前、北斎先生の所に行ったら、部屋の中が驚くほど散らかっていやしたぜ。飲み食いも忘れて、絵に熱中していやしたよ」
鉄蔵の部屋を想像して、得心する。
「あの鉄蔵と、一緒にするねぇ。あいつぁ、昔っから片付けができねぇんだ。蔦重さんの所に居住している時から、部屋の中が汚くってなぁ。伝蔵によく揶揄われていたよ」
月岑が茶を淹れて、握飯を持って来た。
「鉄蔵に伝蔵ってぇのは、北斎先生と京伝先生ですけぇ? 名士ばかりが住んでいたんですねぇ。馬琴先生とも仲が良いし、長喜翁は顔が広いや。で? 今は、何を描いているんです?」
月岑が描きかけの絵を覘き込む。
「手前ぇの絵だよ。美人だ、役者だ、風景だと色々描いてきたが、自分の顔は描いた例がねぇからな。そろそろ描いてもいい頃合いかと、思ったんだよ」
月岑が、吹き出した。
「何だって今更、自分の顔なんです? 肖像を描くのも、練習になるんですけぇ? 自分の顔を描く絵師も多いですよねぇ」
鏡で口の形を確かめながら、応える。
「なるっちゃぁ、なるだろうなぁ。顔の形を探るのに、他人様の顔をじろじろ眺めるよりゃぁ、手前ぇの顔を眺めるほうが、面倒がねぇしな。そんで、月岑。今日は、何しに来たんだ」
鏡から顔を上げると、月岑が困った顔をしていた。
「食べるもんを手土産に持って来たんですよ。どうせ、ろくなもんを食っちゃぁ、いねぇんだろうし。ついでに、生きているか確かめに、ね」
長喜は、乾いた声で笑った。
「詰まらねぇ皮肉を言いやがるなぁ。けどまぁ、そろそろお迎えが来る頃合いだろうからな。間違っちゃぁいねぇや。一先ず、今は生きているぜ」
月岑が小さく息を吐いた。
「やめてくだせぇよ。明日も明後日も生きていてもらわにゃぁ。俺ぁ、翁から、もっと話を聞きてぇんだ。今日は、ちぃと忙しくって、これで帰りますがね。また明日、来ますよ。明日は居座るから、そのつもりで、絵を仕上げといてくだせぇよ」
機嫌よく、月岑が手を振る。
「すまねぇなぁ、月岑。明日は、会えそうもねぇ。人生の最期に色々と話せて、俺ぁ、楽しかったぜ。有難うな」
月岑が真顔になった。だがすぐに、クックと笑う。
「まぁた、同じ話をしていらぁ。前にも、そう話した次の日に、ぴんしゃんして絵を描いていたでしょうに。詰まらねぇ冗談は、翁のほうだ」
決が悪くなり、頭を掻いた。
「あらぁ、絵を描き損じただけでな。虚言を吐いた訳じゃぁねぇんだよ。今日のは本当だな」
「へぃへぃ、わかりやしたよ。それじゃぁ、明日、また来ますよ。絵を描くのもいいが、ちゃぁんと飯を食ってくだせぇよ」
月岑が背を向けて、庵を出ていく。
「本当に、有難うな。浮世絵類考の、それ以外にも、東洲斎写楽の件を、宜しく頼むぜ」
月岑が振り返った。
長喜の顔を眺めていた目が、笑みを消した。
「その件に付いちゃぁ、勿論、心得ていますぜ。俺ぁ、翁の友人だ。約束は、何があっても違えやせんよ。翁、俺ぁ、明日も来るからな」
月岑の念押しに、長喜は頷いた。
戸が閉まり、月岑が帰って行った。
長喜は、また絵に向き合った。
懐から一枚の絵を取り出す。喜乃が最期に描いた、長喜の姿絵だ。
「これに比べりゃぁ、巧くは描けねぇかなぁ。今より、ずっと若ぇしな。ま、爺の今と比べるのも一興、ってな」
小さく零して、長喜は筆を執った。書き残していた口元と体を描き込む。座した姿は、今の歳相応に落ち着いて描けた。
息を吐いて、筆を置く。
自分で描いた絵の隣に、喜乃の絵を並べた。
「やっぱり、歳をとったなぁ。お喜乃が描いてくれた絵の歳から、二十五年も経っているんだ。当然だよな」
ふわり、と背後から柔らかな風が吹いた。
「そうね。長喜兄さん、とてもお爺さんになったわ。けど、あんまり変わっていないと思う」
振り返ると、喜乃が立っていた。
壁に掛けてある肉筆画から、人の姿が抜けている。
「よぉ、お喜乃。久しいなぁ。あの絵は依代になったけぇ? よく描けているだろう」
喜乃が自分の姿を眺めて、頷いた。
「とても綺麗に描いてもらえて、嬉しいよ。他にも、たくさんの私を描いてくれて、ありがとう。長喜兄さん、ようやく自分の絵が描けたのね。これなら、道標になるね。やっと迎えに来られたわ」
喜乃が部屋の中から庭を見回した。
「吾柳庵、懐かしいな。ここで暮らした日々は、幸せだったもの。私がいなくなっても、兄さんは吾柳庵に住み続けてくれたのね。約束通り、長生きもしてくれた。私がいない二十五年は、楽しかった?」
喜乃が長喜の隣に座す。
「そうだなぁ。それなりに楽しかったよ。ずっと、ここに住んでいた訳じゃぁなくってな。伝馬町で家主なんかもしていたんだぜ。けど結局、戻ってきて、ここで絵を描いていた。吾柳庵が、一番落ち着いて絵を描ける。ここが俺の居所なんだろうぜ」
喜乃が笑みを湛えて頷く。
「お嫁さんは貰わなかったの? ずっと一人だったの? もしかして、私に気を遣った?」
長喜は、ぽりぽりと頭を掻いた。
「いいや、一人、貰ったよ。けど、流行病で一年も一緒にいられなかった。蔦重さんや歌麿兄ぃや伝蔵、それに十郎兵衛様も、先に逝っちまった。悲しくって寂しかったよ」
喜乃が安堵の表情をした。
「良かった。長喜兄さん、私に気を遣って、ずっと一人でいたら、どうしようかと思っていたの。けど、先に逝ってしまったのは、辛かったね」
喜乃が悲しそうに眼を伏せる。
「嬉しい話も、たくさんあるぜ。鉄蔵が挿絵から大成してよ。今や、北斎大先生だ。馬琴なんざ、寵子の作家だぜ。南総里見八犬伝てぇ大作を書き続けていてよ。あの姫様は、お喜乃を想定して書いている気ぃがするなぁ」
長喜の横顔を眺めていた喜乃が、微笑む。
「皆、自分の道を切り開いたのね。長喜兄さんは? 絵は、悔いなく描けた? 楽しく、描けた?」
長喜は、しばし考えた。
「楽しかったが、苦しかったなぁ。けど、やっぱり、描くのを止められなかったよ。悔いは、ねぇとも言い切れねぇが。続きは黄泉で、お喜乃と描きてぇな。お喜乃がいねぇ二十五年より、お喜乃と過ごした十二年間のほうが、俺にとっちゃぁ、濃くって鮮やかで、輝いて感じたよ。あの十二年は、別格だった」
喜乃が、にっこりと笑う。立ち上がると、手を差し出した。
「もう、逝ける? 心残りは、ない?」
喜乃の手に、手を伸ばす。
「最後の気掛かりは、月岑が引き受けてくれた。俺の、この世での務めは、終わりだ。心残りは、ねぇよ。お喜乃が迎えに来てくれたしな」
喜乃の手を、しっかりと握る。
立ち上がり、喜乃と向かい合う。額を合わせて、二人で笑った。
長喜の描いた自分の肖像が、舞い上がる。青い灯になり、道を示した。
二人の体が、浮かび上がる。
「逝こう、長喜兄さん。黄泉で師匠とたくさん絵の練習をしたのよ。歌麿兄さんとは、絵の勝負ばっかりしているわ。今でも、私の絵に文句を付けるのよ。私は兄さんのようには描きません、って喧嘩しているわ」
長喜は、クックと笑った。
「何でぇ、やっぱり喧嘩しているのけぇ。兄ぃは、お喜乃に噛み付いてほしかったんだ。きっと喜んで、勝負に挑んでいるぜ」
足下に自分の体が見えた。座したまま、眠るように目を閉じている。
「俺ぁ、死んだんだなぁ。現を写すのは、楽しかったな。黄泉でも楽しく、絵を描けるといいなぁ。一緒に描こうな、お喜乃」
喜乃の手を強く握り、顔を上げる。青い灯を見失わないように、追いかけた。
目の前に薄い白が広がっていく。まるで、何も描かれていない真っ白な紙のようだった。
次第に意識が白む。長喜は安堵した心持で、空に吸い込まれていった。
【あとがき】
長喜と喜乃の物語、お楽しみいただけましたでしょうか。
別の物語を描くために調べていた写楽をこういう形で物語に出来るとは思っていませんでした。自分なりに納得のいく仕上がりになったなと思っています。
最期に長喜を迎えに来たお喜乃が本当にお喜乃だったのか、長喜の願望が形になった夢だったのか。黄泉で石燕師匠や月沙や石鳥や歌麿兄ぃと楽しく絵を描く長喜と喜乃を思い浮かべると泣きそうです。
読んでくださった皆様の心にも何かが残ってくれたらいいなと思います。
長喜の最期までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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