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第10章 夏の日差しと傷痕

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 海の家はとても賑やかだった。
 天気もよく、海水浴には絶好の機会だ。
 今日集まったのは海岸警備のアルバイトに申し込んだメンバーだけで、海開き自体は明日から。ひと通り今日みんなで点検を行って、問題なければ明日から一般公開される予定だ。

 俺たちアルバイト組は、仕事を終わらせれば一足先に海水浴を楽しんで良いとの許可が海の家の主人から出ている。主人は中肉中背の中年男性で、非常に気さくな人だった。この辺りの土地は、彼が所有している土地らしい。

 アルバイトを請け負った隊員たちのほとんどは、ウエットスーツやら水着やらを着用しているが、俺とルーテル、他数名は制服のまま海岸に危険なものが落ちていないかなどを点検して回っていた。
 制服と言ってもさすがに冬用のものではない。前回のインダストリア邸での事件に巻き込まれたことに対してのせめてもの労いなのか、俺とルーテルは無料で夏服を支給してもらえたのだった。

 俺は黒のズボンに白い半袖シャツ。ルーテルは黒い膝丈スカートに白い半袖シャツだが、シャツには青い縁取りが施されている。
 生地も冬のものより薄く、通気性の優れたものに変わった。これでだいぶ快適に仕事ができるだろう。

 2人で点検を進めていると、ルーテルは海を眺めて立ち止まった。
 隊員たちの中には、浅瀬の方の点検と称して、絶対泳ぐのを楽しんでいるなと思う者もいる。ルーテルにつられるように、俺も足を止めた。

「私のことはいいから、ファスは皆と泳いでくればいいのに」

 どうしたのかと思えば、俺がルーテルに気を遣っているのだと思われていたらしい。

「別に俺は泳ぎたくて参加したんじゃなくて、買い物代稼ぎが目的だからな」

 これは本音だ。別に泳ぐことは考えていなかったし、元々それほど泳ぎが上手いわけでもない。
 だから彼女がどうというわけではなかったのだが、彼女が泳げないからそれに合わせているのだと思ったのだろう。
 陸系のハーフマーメイドは、歩くことができる代わりに、泳ぐ能力を失っている。

「泳げたら気持ちいいんだろうね」
「泳ぎが上手ければ、そうかもな。正直、俺はあんまり得意じゃない」
「練習したら?」
「まぁ、時間があればな」

 泳げなくとも、彼女は海が好きだ。きっと、泳いでみたいと思ったことも一度や二度ではないのだろう。
 しかし、寂しそうな表情から一転、太陽のようににこりと笑って俺を見る。

「私は一生泳げないけど、陸系のハーフマーメイドで良かったと思ってるよ。そうじゃなかったら、ファスとは会えなかったし」

 彼女にとって、そこに込められた意味合いは幼なじみへ向けられる友情に近いものだと分かってはいる。しかし、それ以外の感情を抱いている俺にとっては心臓に悪い。
 何と答えて良いものかと迷ったが、軽く返事をするだけに留めた。

****

 午前中はあっという間に過ぎ、サナキは任務へと旅立っていった。それを見送り、海岸へと帰ってきたエイドの肩を誰かが叩く。
 振り返ったエイドは、その顔を確認して目を丸くし、驚きの声をあげた。

「デモリス隊長! お久しぶりです」

「ああ、久しぶりだな、エイド」

 そこにいたのは、戦闘部隊隊長にして組織最強を謳われるエルフの男、デモリス・バスターだった。
 睨まれれば誰もが畏れるであろう赤い切れ長の目は、今は僅かに目尻を下げて優しさを帯びている。

 黒いことに変わりはないが、いつものように全身を包む制服から、少し軽装へと変わっていた。肘のやや下まで捲られた袖からは、鍛えられた腕が覗いている。
 背には、彼が愛用しているバスタードソードが携えられており、任務に行く途中か帰還するところだったのだろう。

「どうしてこちらに?」
「帰還する途中でお前を見つけたので寄ってみた。聞きたいこともあったからな」

 デモリスの視線は、海岸をルーテルと共に歩くファスに向けられていた。

「ファスとはまだ同じ任務についたことはないが、将来が楽しみだと教官たちの間では噂されているようだな。私が彼の戦う姿を見たのは、個別で行われた入隊試験の時が最後だ。あれからどう成長したのだろうな」

 彼にしてみれば、自分の隊の後輩にあたる。しかも、デモリスもファスと同じように入隊後3年を待たずして戦闘任務に参加していた。
 同じような道を進んできたからこそ、その危険も分かっている。ファスのことを、デモリスは日頃から気にしていた。しかし、忙しい身の上であるために、なかなかその様子を直接確認できないでいた。

「色々事情があると聞いたが、今は上手くやれているのだろう?」

 皆に溶け込んで生活しているファスを見て、デモリスはエイドに尋ねる。
 しかし、エイドは軽く頭を横に振った。

「何度か危ないときはあったみたいですが、俺や事情を知ってる仲間たちが対処しました」
「そうか……まだ目は離せないのだな」

 気を抜けば、ファスとアンヴェールが入れ替わってしまう。その体質は、デモリスも聞かされている。
 しかし、それを直接見たわけではないので、あの大人しそうな少年が豹変する姿を想像するのは難しかった。

 しばらくファスの近況などを聞いていたデモリスだったが、ふと気になっていたことを口にする。

「それにしても、暑くはないのか?」

 そう眉をひそめたのはエイドの格好だった。上着は脱いでいるし、袖も肘上まで捲っているが、襟に関しては律儀に第一ボタンまでして首回りを覆っている。
 任務中であれば、夏であっても身体の保護目的で長袖を着用することも珍しくはない。
 しかし、第一ボタンまで留めるというのは通常時であればなおさら目にするものではなかった。

「慣れれば平気ですよ」

 無意識に、エイドの左手が左の首もとを抑える。目ざとくそれを見つけたデモリスは、首を傾げた。

「首……どうかしたのか?」
「いえ、もうどうってことないんですけどね。ただ、見るとファスが苦しそうな顔するので……」

 そう言って第一ボタンを外すと、もう塞がってはいるものの、傷となって残る痕が左首から斜め下にかけて入っているのが見えた。

「それは?」
「昔、弟から受けた傷です」

 その傷は、魔法でつけられたものだった。属性は闇。アンヴェールからの攻撃だった。

「初めて家に来た時、あいつは怯えていたんです。そこに俺が不用意に近づいたのが原因だったんですけどね」

 怯えるファスの姿を見たとき、ここは安全だと伝えようと何も考えずに近づいたことが、余計に恐怖を煽ってしまった。知らない人が近づけば、幼い子供なら尚更警戒するだろう。
 その時、ふっとファスの身体から力が抜けたと思うと、いきなり闇魔法が飛んできたのだった。
 人格の入れ替わり。組織への入隊を考え、戦闘への心得が少しなりともあったエイドだったからこそ致命傷には至らなかったものの、病院に連れて行かれるくらいの怪我は負った。

 それでもファスが彼の家に引き取られることになったのは、エイドの強い希望によるものだった。
 エイドは弟のしたことを責めず、代わりに驚かせてしまったことを謝った。それ以来、多少は気にしているのかアンヴェールがエイドに大きな怪我をさせたことはない。

「俺が驚かせたのが悪かったのに、あいつは凄く気にしていて……」

 アンヴェールは当時のことをそこまで深刻に捉えてはいないようだが、ファスは今でもそれを引きずっている。
 長年経った今でも、オプセルヴェ一家とどこか距離を置いているように見えるのは、その時の影響だろう。

 そんな昔話を聞いていたデモリスは、懐かしむように、しかしどこか悲しげに目を細めた。

「大切に想う者からつけられた傷という点では、私も同じようなものかもしれないな。お前のように見える場所ではないが、私にもこの辺りに傷がある」

 そう右手の拳で叩いたのは、自らの左胸の辺りだった。

「だが、この傷を嫌だとは思わない。むしろ、消えて欲しくなかったから、ちょうど良かったのかもしれないな」

 デモリスは、大切に想う者からつけられた傷だと言った。その傷の位置からして、その誰かはデモリスを殺めようとしていた可能性が高い。
 しかし、それを嫌だと思わないというのは、それほど大切な相手だったからなのか、それだけでなく他に深い理由があったのか。
 その真意を探ることは躊躇われ、エイドは黙ってその話に耳を傾ける。

「傷が本当に痛むのは、その傷を付けた者がいなくなってからだ」

 デモリスは静かに目を閉じる。

「たとえ、傷をつけた者がいなくなっても、消えない傷を見るたびに思い出す。私にとってこの傷痕は、過去の自分の弱さの象徴であり、二度と弱さのために失うことのないようにという戒めだ」

 最強の男が語る、過去の自分の弱さ。
 彼の経歴を考えれば、誰も彼が弱かったなどとは言わないだろう。
 一体、彼の過去に何があったのだろうか。それを尋ねることは結局できないまま、デモリスは本部へと帰還した。
 しかし、その言葉の重みを、エイドは強く感じていた。
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