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第37話 第9章 遅すぎた再会⑥

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「黒羽殿。こちらへ」
 キースに促され、黒羽はその場を離れるが、何かトラブルにならないだろうか、と不安な気持ちに後ろ髪を引かれた。
「大丈夫ですよ」
 表情に出ていたのだろう。キースがにこやかな顔で階段を降りていく。
「大丈夫って、どちらにとっても複雑な気持ちを抱かせる相手でしょう。何もなければ良いんですが」
「……私はね、誠殿からよく奥様のお話を聞かされていました。その時の誠殿とくれば、実に幸せそうな顔でしてな。きっと良い奥方なのだろうと思ってました。あの方が愛したご婦人であれば大丈夫。何も心配なさることはありません。それよりも私は」
 一度言葉を切り、キースは心配そうな顔で黒羽を見る。
「あなたのご様子が気がかりです」
「……僕の心配は無用です。大人なんですから、辛さと向き合う術くらい知っています」
「ふ、ご冗談を。術をいくら知ろうが、心は無限に傷に耐えられるようにできていない。辛いことは、いくつになっても辛いものです」
「……バレましたか。まあ、強がりなことを言ってないと、心がとても持ちそうにない。人間の心とは、なんでこう、見えないのに有限なんでしょうね」
 キースは息を大きく吸い吐き出した。
「分かりません。ただ、有限だからいいのではないですか。限られているからこそ、価値がある。私はこの国と女王という、限りある命を守るために戦っています。あなたも、そうでしょう。人は脆くて限りあるからこそ、笑顔を届けるお店を経営しているのでは」
 風が吹く。頬を撫でるその風には、美味しそうな食事の匂いが混じっていた。この匂いは、大通りで見かけた軽食屋のものに違いない。
「そうです。限りある命だからこそ、僕は人々に笑っていて欲しいと願う。……僕はオール帝国のあり方が許せない。
 僕は料理人だ。食材となった命を使って料理を提供している。でも、だからこそ敬意をもって食材には接しています。だが、彼らは憎しみで虫けらの如く命を屠っている。その在り方は、命の尊さを知る身として、とても許容できない。僕はそんな場所に、彼女を見送ってしまった。……キースさん、僕はね。僕の弱さが一番許せないんだ」
 キースは、ジッと黒羽を見つめていた。その瞳には、同情もなければ見下した色もない。ただ、暖かさが宿っていた。
「もう戻りましょう。ああ、そうだ。黒羽殿、これだけは忘れないでください」
 キースは、ポンと黒羽の肩に手を置いた。
「私も陛下も、あなた方の味方です。一人ではない。何でもいい、力が必要な時は声をかけてください。あなたは弱さを許せないと言うが、私は、自分自身の弱さと向き合えるあなたが弱いとは思えない。友として、あなたの強さを誇りに思う」
 それだけ言い残すと、キースは階段を上っていく。黒羽は、僅かに微笑み後を追った。
 ※
 階段を上っていくと、門の前から楽しそうな笑い声が聞こえた。
「あ、黒羽さん」
「梅子さん。楽しそうですね」
「ええ、黒羽様。梅子さんったら、面白いことをおっしゃるのよ。お店にいらっしゃったお客様との会話が、もう」
 ソフィアと梅子は、声を上げて笑う。出会ったばかりとは思えないほどの打ち解けように、黒羽は安心した。
「梅子さん、城の屋上へぜひいらしてください」
「屋上へ?」
「はい。誠のお墓がありますの」
 梅子は笑みを消し、固い表情で頷く。
「お願いします」
 ※
 ソフィアの案内で、黒羽達はウトバルク城の屋上へと到着する。
 青い空から白い雲が落ちてきたように、屋上は真っ白だった。ただ一つ、白の石碑に刻まれた黒い文字だけが、「忘れるな」と問いかけているように目立っている。
「ウトバルクでは、各家庭に一つお墓を持っていて、火葬後はそのお墓に埋葬することになっていますの。
 でも、今回亡くなった方々の中には、身寄りがない者やウトバルク外から訪れた者もおりましたので、こちらでまとめて埋葬しました。誠もここに眠っていますわ。どうぞ」
 ソフィアの手を引かれ、梅子は石碑の前まで歩く。彼女はなぞるように石碑を眺め、ピタリと一点に目を止めた。
「あ、ああ。誠さん」
 梅子は俯くと、涙を零した。ソフィアは梅子を抱きしめると、一緒に涙を流す。
「ごめんなさい。私を庇って誠は」
「い、いいえ。あの人らしい。さすが私が愛した旦那です。……でも、一目で良いから会いたかった」
 黒羽は歯を食いしばり、身体の隅々まで行き渡る苦い苦しさに耐えた。頭に思い浮かぶ死の光景が、自身の無力さを嫌というほど伝えてきて、たまったものではない。
「……私、決めました」
「梅子さん?」
「ソフィア女王。私を、誠さんの代わりに城の料理人として雇ってはくれませんか?」
「梅子さん、それは!」
 驚いた黒羽は、思わず駆け寄った。この世界は、自分達の世界とは違った法則で動いている。生活に馴染むのに、大変な苦労を要するのは想像に難くない。
「簡単でないことは承知しています。でもね、黒羽さん。あの人が過ごしたこの世界にいたいんです。誠さんが、娘のように接したソフィア女王は、私にとっても娘のよう。力になりたいんですよ。もちろん、料理の腕前は、誠さんには及ばないでしょうけど、熱意なら負けない。ね、ソフィア女王、どうかしら」
 ソフィアは、俯くと肩が震えだした。どうしたのだろう、と思い近寄った黒羽は、暖かな感覚が体に満ちていくのを感じた。ソフィアは、嬉しそうに笑っている。
「本当によろしんですの。ワタクシ、ワタクシは」
「ソフィア女王。詳しくは分からないけど、きっと重荷を背負っているんでしょう。でも、大丈夫。私が支えになります。こんなオバサンに言われても、嬉しくないかもしれないけど」
 ソフィアは首を振った。
「とんでもないですわ。ワタクシ、身が破裂しそうなほど嬉しいです。どうか、一緒にいてくださいな」
 梅子は、ソフィアを抱きしめた。その抱擁は、親子そのもので、柔らかく暖かかった。
「……そうだよな」
 黒羽は小さな声で呟いた。失くしたものと、後悔だけを感じていた。けれども、人生はそこで終わるものじゃない。
 生きる限り、失っても得るものがある。ソフィアの嬉しそうな顔が、そう物語っているじゃないか。そうさ、だったら、俺が取るべき行動は……。
 黒羽は、鉄のように強固な意志が胸に宿るのを自覚した。
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