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二章:冷たい鳥籠(雛子過去編)
35:二つ目の金平糖*
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七月の猛暑日、外では陽射しが相変わらずビームの強さで地上に降り注ぐ。
居間の仏壇に供えた向日葵はまだ元気でも、庭に残った方の花は重い頭を項垂れて枯れ掛け。
「……ぁ……ッ」
障子の向こうに陽光を感じつつも、クーラーを効かせた寝室で雛子は布団に横たわっていた。
下腹部に伸びた指先で忙しなく蜜の水音を奏でながら。
邪魔な下着を脱ぎ捨ててシャツ一枚、布の内側に湿度の高い熱がこもる。
雄を求めて泥濘んだ傷口は乾かない。
鷹人とほぼ毎日していた性行為を急に止めたのだ。
そう簡単に切り替え出来るものでなく、行き場を失った情欲が溢れて堪らなかった。
来島家でこういうことをするのは抵抗があったのに、それすら背徳感となって加速させる。
引っ越しの時からほとんど開けてない鞄、ここにはまだ仄かにサンダルウッドの香りが眠っていた。
特に布製品は落ち難いのだが洗濯機に入れることを躊躇って、タオルに鼻先を押し付けては熱が蘇る。
嗅覚に纏わる記憶は深く、まるで呪いの強さ。
もう何でも好きな物を選べるのに。
髪や肌のケアでラベンダーのアロマミストを使うようになっても、別れた男の欠片を求めている。
「鷹……ッ……」
唇から零れ落ちそうになった名前。
舌先を離れる前に呑み込むと、酷く苦くて顔を歪める。
自分で決めたことなのに。
最上家に居た頃、自分に選択肢が無いことを恨めしく思っていた。
全てが勝手に決められて雛子の意思は通らない。
若い男との接触を断つ当主も大概だったが、鷹人は鎖で繋いで雛子を所有物扱いときた。
婚約者として駆け落ち以降は優しくなった、心に触れ合った、それでも最後まで信頼は出来なかった結果。
愛の有無はこちらからすればあまり意味なし。
鎖なんて所詮は指先で留め金が外れる物。
あちらとこちら、繋ぐ糸の儚さを雛子は理解していた。
鷹人に好意はあっても、それすらただの勘違いだと思うので未来が見えない。
飽きられることを恐れて神経を擦り減らしながら傍に居るなんて無理な話、いつか縋ることになるくらいなら切ってしまうことを選んだ。
しかし性に合わない反面、何も考えずに従っていれば済むので楽でもあった。
選択するということには自己責任が伴う。
もう誰の所為にも出来ない。
満たされない熱が憂鬱にすり替わり、少しずつ思考が藍色に沈んでいく中でのこと。
不意に、インターホンの音が平屋に鳴り響く。
訪問者は来島家の誰か。
玄関のガラス戸がスライドして、廊下に一歩踏み出した音も耳に届いた。
「ン……っ、うぅ……」
花弁から指を引き抜いた瞬間、濡れた声は思いのほか大きく溢れてしまう。
聴こえただろうか。
羞恥よりも一匙の気まずさが舌に広がる。
それは向こうも同じだろうか、襖を軽く叩かれた。
「……誰?」
「いや、あの、俺だけど……出掛けるからお前も誘おうかと思ったんだけどよ、都合悪いみたいなら……」
返ってきたのは鳳一郎の声。
動揺混じりで上擦っていて、それもそう。
「聴かなかったことにする」という意味か。
このまま黙って帰したら一抹の居心地悪さを抱えつつも、きっとまた元通り。
それは分かっていることだったが。
確かな意志を持って、雛子の手は襖を開けた。
「鳳一郎、触ってほしいの……こっちで誰ともしてないから、そろそろ一人じゃ限界……」
それに鳳一郎なら嫌なことはしないという確信があった。
情欲の熱は判断力を鈍らせて行動を起こさせる。
振られる可能性こそあれど、ここは賭けに出る時。
そうして男の手は伸ばされた。
「悪ィ、やっぱり嫌だったか?」
「違う、から……や、やめないで……」
初めて鳳一郎と唇を重ねた時、知らぬ間に溜まって閉じ込めていたものが涙として流出してきた。
ぐちゃぐちゃに噛み砕いた欲望の口移し。
そういうキスしか知らなかったのに、あんまり優しくて胸が痛い。
鳳一郎は触れるにも一つ一つ許可を求めてくる。
匂いも味も唇も手も、この身体に残された男の跡とは全然違っていた。
何もかもずっと大きくて温かくて、包まれると酷く安心する。
本当に触れてほしい奥は女の指で届かない。
達せない以上、このままで終われず苦しさが続く。
少し激しめにする時もあれど、鳳一郎の指は決して乱暴なことをせず労わるように埋めてくる。
それでもまだ繋がることだけはしてなかった。
受け入れる側は負担が大きい。
飽くまでも鳳一郎の方が挿入に重きを置かないと言うが、体格の差を考慮しての気遣いである。
今のままで満足しているから気にするな、と踏み込まずにいた。
早く上書きして忘れさせてほしいのに。
夏の間ずっと大きく感じていた太陽も、向日葵が枯れるように少しずつ弱まっていく。
今はもう日向の縁側で昼寝するにも肌寒い季節。
あれから半年、クリスマスに正月に鳳一郎の誕生日にと恋人らしいイベント事を一つずつ過ごしながら肌だけでなく共に時間を重ねていった。
こちらで寝泊まりする日も増えて半同棲、すっかり家族らしくはなったけれど。
「……行ったか」
夜中、目を覚ますと鳳一郎が居ないことがある。
トイレかと思いきや靴も消えていて、どうやら母屋にも居ない。
かと思えば朝になると戻っており何も言わず、雛子の方も何も訊けず。
他に男が居て、そちらへ通っているのかもしれない。
ついそんな妄想を抱いてしまう。
もし正解だとしても、雛子は咎めることなど出来なかった。
本当なら鳳一郎は男の方が好きらしい。
交際を申し出てきたのはあちらだったが、あれは関係を持ってしまった義理だとしたら。
何より、雛子の方こそ疚しさは隠し持っている。
慰み者だったこと自体は明かしたが、本当なら何をされていたのか鳳一郎に話すべきか。
彼なら過去がどうあれ受け止めてくれる確信もあった。
とはいえそこに信用があろうと無かろうと、秘密というものは必ずしも全て曝け出す必要もあらず。
加えて問題は肉体的なことだけでもない。
別れ際、鷹人の泣き顔と最後のキスだけがまだ雛子の中に焼き付いていた。
まるで消えない火傷の跡のようだ。
こうして今更、あれは初恋だったと思い知らされる。
気付きたくなんてなかったのに。
もし鳳一郎のことを利用しているのかと問われたら、否定より前に考え込んでしまう。
そんなつもりなくても結果的にそうであれば同じことなのだ。
一糸纏わず腕に抱かれているのに、合わさった胸にちくちくした存在を感じる。
覚えがある、鷹人と過ごしていた時もそうだった。
これも金平糖だったら舌で転がしているうち簡単に溶けてしまうもの。
しかし噛み砕くのを躊躇っては、いつまで経っても鈍い棘が痛む。
だから、堂々と恋人同士だと名乗ることが出来ない。
お互いにまだ試練が残っていた。
前触れもなしに、それは一人の男の形で現れる。
居間の仏壇に供えた向日葵はまだ元気でも、庭に残った方の花は重い頭を項垂れて枯れ掛け。
「……ぁ……ッ」
障子の向こうに陽光を感じつつも、クーラーを効かせた寝室で雛子は布団に横たわっていた。
下腹部に伸びた指先で忙しなく蜜の水音を奏でながら。
邪魔な下着を脱ぎ捨ててシャツ一枚、布の内側に湿度の高い熱がこもる。
雄を求めて泥濘んだ傷口は乾かない。
鷹人とほぼ毎日していた性行為を急に止めたのだ。
そう簡単に切り替え出来るものでなく、行き場を失った情欲が溢れて堪らなかった。
来島家でこういうことをするのは抵抗があったのに、それすら背徳感となって加速させる。
引っ越しの時からほとんど開けてない鞄、ここにはまだ仄かにサンダルウッドの香りが眠っていた。
特に布製品は落ち難いのだが洗濯機に入れることを躊躇って、タオルに鼻先を押し付けては熱が蘇る。
嗅覚に纏わる記憶は深く、まるで呪いの強さ。
もう何でも好きな物を選べるのに。
髪や肌のケアでラベンダーのアロマミストを使うようになっても、別れた男の欠片を求めている。
「鷹……ッ……」
唇から零れ落ちそうになった名前。
舌先を離れる前に呑み込むと、酷く苦くて顔を歪める。
自分で決めたことなのに。
最上家に居た頃、自分に選択肢が無いことを恨めしく思っていた。
全てが勝手に決められて雛子の意思は通らない。
若い男との接触を断つ当主も大概だったが、鷹人は鎖で繋いで雛子を所有物扱いときた。
婚約者として駆け落ち以降は優しくなった、心に触れ合った、それでも最後まで信頼は出来なかった結果。
愛の有無はこちらからすればあまり意味なし。
鎖なんて所詮は指先で留め金が外れる物。
あちらとこちら、繋ぐ糸の儚さを雛子は理解していた。
鷹人に好意はあっても、それすらただの勘違いだと思うので未来が見えない。
飽きられることを恐れて神経を擦り減らしながら傍に居るなんて無理な話、いつか縋ることになるくらいなら切ってしまうことを選んだ。
しかし性に合わない反面、何も考えずに従っていれば済むので楽でもあった。
選択するということには自己責任が伴う。
もう誰の所為にも出来ない。
満たされない熱が憂鬱にすり替わり、少しずつ思考が藍色に沈んでいく中でのこと。
不意に、インターホンの音が平屋に鳴り響く。
訪問者は来島家の誰か。
玄関のガラス戸がスライドして、廊下に一歩踏み出した音も耳に届いた。
「ン……っ、うぅ……」
花弁から指を引き抜いた瞬間、濡れた声は思いのほか大きく溢れてしまう。
聴こえただろうか。
羞恥よりも一匙の気まずさが舌に広がる。
それは向こうも同じだろうか、襖を軽く叩かれた。
「……誰?」
「いや、あの、俺だけど……出掛けるからお前も誘おうかと思ったんだけどよ、都合悪いみたいなら……」
返ってきたのは鳳一郎の声。
動揺混じりで上擦っていて、それもそう。
「聴かなかったことにする」という意味か。
このまま黙って帰したら一抹の居心地悪さを抱えつつも、きっとまた元通り。
それは分かっていることだったが。
確かな意志を持って、雛子の手は襖を開けた。
「鳳一郎、触ってほしいの……こっちで誰ともしてないから、そろそろ一人じゃ限界……」
それに鳳一郎なら嫌なことはしないという確信があった。
情欲の熱は判断力を鈍らせて行動を起こさせる。
振られる可能性こそあれど、ここは賭けに出る時。
そうして男の手は伸ばされた。
「悪ィ、やっぱり嫌だったか?」
「違う、から……や、やめないで……」
初めて鳳一郎と唇を重ねた時、知らぬ間に溜まって閉じ込めていたものが涙として流出してきた。
ぐちゃぐちゃに噛み砕いた欲望の口移し。
そういうキスしか知らなかったのに、あんまり優しくて胸が痛い。
鳳一郎は触れるにも一つ一つ許可を求めてくる。
匂いも味も唇も手も、この身体に残された男の跡とは全然違っていた。
何もかもずっと大きくて温かくて、包まれると酷く安心する。
本当に触れてほしい奥は女の指で届かない。
達せない以上、このままで終われず苦しさが続く。
少し激しめにする時もあれど、鳳一郎の指は決して乱暴なことをせず労わるように埋めてくる。
それでもまだ繋がることだけはしてなかった。
受け入れる側は負担が大きい。
飽くまでも鳳一郎の方が挿入に重きを置かないと言うが、体格の差を考慮しての気遣いである。
今のままで満足しているから気にするな、と踏み込まずにいた。
早く上書きして忘れさせてほしいのに。
夏の間ずっと大きく感じていた太陽も、向日葵が枯れるように少しずつ弱まっていく。
今はもう日向の縁側で昼寝するにも肌寒い季節。
あれから半年、クリスマスに正月に鳳一郎の誕生日にと恋人らしいイベント事を一つずつ過ごしながら肌だけでなく共に時間を重ねていった。
こちらで寝泊まりする日も増えて半同棲、すっかり家族らしくはなったけれど。
「……行ったか」
夜中、目を覚ますと鳳一郎が居ないことがある。
トイレかと思いきや靴も消えていて、どうやら母屋にも居ない。
かと思えば朝になると戻っており何も言わず、雛子の方も何も訊けず。
他に男が居て、そちらへ通っているのかもしれない。
ついそんな妄想を抱いてしまう。
もし正解だとしても、雛子は咎めることなど出来なかった。
本当なら鳳一郎は男の方が好きらしい。
交際を申し出てきたのはあちらだったが、あれは関係を持ってしまった義理だとしたら。
何より、雛子の方こそ疚しさは隠し持っている。
慰み者だったこと自体は明かしたが、本当なら何をされていたのか鳳一郎に話すべきか。
彼なら過去がどうあれ受け止めてくれる確信もあった。
とはいえそこに信用があろうと無かろうと、秘密というものは必ずしも全て曝け出す必要もあらず。
加えて問題は肉体的なことだけでもない。
別れ際、鷹人の泣き顔と最後のキスだけがまだ雛子の中に焼き付いていた。
まるで消えない火傷の跡のようだ。
こうして今更、あれは初恋だったと思い知らされる。
気付きたくなんてなかったのに。
もし鳳一郎のことを利用しているのかと問われたら、否定より前に考え込んでしまう。
そんなつもりなくても結果的にそうであれば同じことなのだ。
一糸纏わず腕に抱かれているのに、合わさった胸にちくちくした存在を感じる。
覚えがある、鷹人と過ごしていた時もそうだった。
これも金平糖だったら舌で転がしているうち簡単に溶けてしまうもの。
しかし噛み砕くのを躊躇っては、いつまで経っても鈍い棘が痛む。
だから、堂々と恋人同士だと名乗ることが出来ない。
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