【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

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第10話  初めて耳にした妻の名

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その噂を耳にしたのは、軍議が終わったあとの、ほんのわずかな休憩時間だった。

重厚な扉の向こう、将校たちが鎧を外しながら交わす、気の抜けた会話の中に混じっていた。

「……聞いたか?例の茶会で、迷子の令嬢を助けたのがアイゼンヴァルト伯爵夫人だったそうだ」

ディートリヒは、書類をまとめる手を止めなかった。

自分の妻の名が出たことに、
最初は気づかなかったのだ。

「しかも、文字まで教えたらしい」
「相手は、ただの貴族令嬢じゃない。
第三王女殿下だったそうだ」

――第三王女。

その言葉に、ディートリヒの指が、わずかに止まる。

「……何の話だ」

低く、抑えた声だった。

将校の一人が、少し驚いたように振り返る。

「おや、団長はご存じないのですか」

「簡潔に話せ」

促すと、男は肩をすくめた。

「夜会で迷子になった第三王女を、奥方が落ち着かせたそうです。言葉遣いも、教え方も、とても丁寧だったと」

別の将校が、軽い調子で続ける。

「王城では、『武の女神より、よほど女神らしい』なんて言われていますよ」

一瞬、空気が止まった。

ディートリヒの胸の奥で、何かが、わずかに引っかかる。

――武の女神。

それは、彼がよく知る名だった。

戦場で剣を振るい、
男たちの中でも一歩も引かぬ腕を持つ令嬢。勝利の象徴として持ち上げられ、強さと美しさを兼ね備えた存在として、人々の称賛を集めている女。

その勇姿を前にすれば、誰もが喝采を送る。

だが――その名は、あくまで「戦う姿」に与えられた称号だった。

今、その“女神”と、妻が並べて語られている。

しかも、比較の結果として。

「……馬鹿馬鹿しい」

そう切り捨てたはずなのに、その声には、
いつもの確信がなかった。

「団長、王城文官局も動いているそうですよ」

「何?」

「家庭教師として、正式に話を聞きたいとか。子女教育の件で」

家庭教師。

その言葉が、意外なほど重く落ちた。

ディートリヒは、無意識に拳を握りしめていた。

――知らない。

妻が、そんな評価を受けていることも。

第三王女と関わったことも。王城が動いていることも。

自分は、何一つ、知らされていない。

「……以上か」

短く告げ、ディートリヒは席を立つ。

将校たちは、それ以上何も言わなかった。



執務室へ戻ったあと。

ディートリヒは、一人で書類を前にしながらも、まったく内容が頭に入らなかった。

静かな声。
落ち着いた所作。
子どもに向ける、
丁寧で、押しつけのない教え方。

――そんな姿を、自分は想像したことすらなかった。

「……エレノア」

その名を口にしたのは、いつぶりだろう。

胸の奥で、言葉にできない感情が、
わずかに形を持ち始める。

それは、嫉妬でも、怒りでもない。

――違和感だった。

自分が知っているはずの妻が、知らない場所で、知らない価値を認められている。

その事実が、初めて彼の心に影を落とした。

ディートリヒは、ゆっくりと背もたれに体を預ける。

そして、気づいてしまった。

自分は、妻を「理解していなかった」のではない。

――最初から、知ろうとすらしていなかったのだ。

その夜、彼は初めて、屋敷に戻る日程を確認した。
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