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第11話 静まり返った屋敷で
しおりを挟む屋敷へ戻ったのは、深夜だった。
馬車を降りた瞬間、ディートリヒは、はっきりとした違和感を覚えた。
――整っている。
それは、単に掃除が行き届いているという意味ではない。人の動線、灯りの配置、空気の流れ。まるで、屋敷そのものが落ち着いた呼吸をしているようだった。
以前は違った。戻るたび、どこか張り詰めた空気が残り、使用人たちも必要以上に身構えていた。
だが今は、静かで、過不足がない。
言葉にできないまま、廊下を進む。
壁に掛けられた絵画の位置。
花の香りの強さ。
季節に合わせた敷物。
どれも目立たない。だが確実に、誰かの意図で整えられている。
――誰が、ここまで。
考えるまでもなかった。
執務室の前に、灯りがあった。
ノックする前、ディートリヒはなぜか一拍置く。中から聞こえた声は、以前と変わらぬ、静かな声だった。
「……どうぞ」
扉を開ける。
机に向かうエレノアの姿を見た瞬間、無意識に足が止まった。
――変わった。
派手な変化ではない。
背筋の伸び方。視線の置き方。書類をまとめる指先の動き。以前の彼女は、「伯爵夫人として正しくあろう」としていた。
今は違う。
そこにあるのは、役割を理解し、それを自然に果たす者の所作だった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
声も、表情も、変わらない。
だが、その落ち着きが、妙に胸に刺さる。
「……戻った」
視線が机の上に並ぶ書類へ向く。
王都の封蝋。商会の契約書。領地報告。
「……これは」
「屋敷と領地に関するものです。不在が続いておりましたので、判断が必要な分だけ整理しておりました」
淡々とした報告。そこに“あなたの代わりに”という言葉はない。それが、逆に突き刺さった。
「問題はなかったか」
口をついて出た問いに、自分で驚く。
「特に。王都側への文面も、誤解の生じないよう整えております」
完璧だった。
――結婚前。
ふと、昔の噂が脳裏をよぎる。
『地味な令嬢だ』
『感情が薄い』
『社交では目立たない』
そう評されていた女。
だが、その噂には、決定的に歪められた前提があった。
リーヴェルト家には、彼女よりもはるかに派手で、人目を引く妹がいた。
艶やかな髪、無邪気に笑えば誰もが目を奪われる容姿。社交の場で光を集めることに長けた美貌。
だが――だからといって、姉であるエレノアが美しくなかったわけではない。
整った顔立ち。知性を宿した瞳。派手さはないが、視線を向ければ自然と引き込まれる静かな美貌。
本来なら、かなりの美人と評されても何ら不思議ではなかった。ただ、妹があまりにも目立ちすぎただけだ。
さらに――彼女は学園でも特別だった。貴族令嬢が通う学園で、常に首席。
努力を怠らず、要領で誤魔化すこともなく、ただ黙々と結果を積み上げる。
だがそれは、賞賛だけを生むものではなかった。
『どうせ、できて当たり前』
『あの顔で首席だなんて、鼻にかけているに違いない』
そんな声が、陰で囁かれた。
本人は一度も誇らなかった。成績を話題にすることも、誰かを見下すこともなかった。
それでも、美しく、優秀で、感情を表に出さない彼女は、いつしか「近寄りがたい女」
「鼻にかけた令嬢」として語られるようになった。
そして、妹という“わかりやすい光”が、
その評価を決定づけた。
婚約者さえも、妹を選んだ。
残された姉は、声を上げなかった。
その沈黙が、「嫉妬深い」「感情を溜め込む女」という、的外れな噂を生んだ。
本当は――感情を出すことを、許されない立場に置かれていただけなのに。
政略結婚の条件として、彼女はこう評された。
――“扱いやすい女”。
自分も、そういうものだと思っていた。だが今、目の前にいる彼女は、
静かで、穏やかで、しかし確実に、屋敷を掌握している。
「……王城からの書簡か」
視線を落とすと、彼女は一拍置いて頷いた。
「はい。子女教育について、一度お話を、とのことでした」
子女教育。
――第三王女。
――優しいお姉さま。
将校たちの声が、鮮明に蘇る。
「……引き受けるつもりか」
声が、わずかに硬くなる。
「まだ、決めておりません」
だが、目は逸らさない。
「ですが――選択肢として、考えてはおります」
選択肢。
その言葉に、胸がざわつく。
彼女はもう、ここに縛られる妻ではない。
自分が不在の間に、彼女は自分の居場所を築いていた。
「……そうか」
それ以上、言葉が出なかった。
「お疲れでしょう。お部屋は整えてあります」
配慮であり、距離でもある言葉。
ディートリヒは扉へ向かい、足を止める。
「……エレノア」
名を呼ぶ。
噂だけで判断した自分。
理解しようとしなかった自分。
すべてが、今になって重くのしかかる。
だが――言葉は出ない。
扉を閉めた瞬間、屋敷の静けさが胸に染み込んだ。
――遅かった。その事実だけが、はっきりと分かる。
この屋敷で、彼女はもう“待つ妻”ではない。
そして自分は、初めてそのことを恐れている。
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