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第12話 ディーテリヒ視点 名も知らない恐れ
しおりを挟むその名を聞いたのは、翌朝のことだった。
王城から届いた報告書の中に、何気ない補足として添えられていた。
――リーヴェルト侯爵家次女、マリアージュ。
ディートリヒは、
その名を目にした瞬間、手を止めた。
「……妹、か」
エレノアの妹。
かつて、彼女の婚約者を奪った女。
王城の文官は、事務的な口調で続ける。
「現在は社交界でも評判がよく、
第三王女殿下の件についても、
『姉は昔から要領がよくなくて』
と話していたそうです」
――要領がよくない。
その言葉が、
胸の奥で鈍く響いた。
……ああ、そうか。
理解が、
ようやく一つにつながる。
結婚前。
自分が耳にしていた評は、
いつも似たものだった。
『控えめな令嬢』
『波風を立てない』
『扱いやすい』
それらはすべて、
誰の口から出た言葉だったか。
考えるまでもない。
妹だ。
そして、妹の周囲にいた人間たち。
社交に長け、
笑顔で場を回し、
都合のいい物語を語る者たち。
エレノアは、
その輪の外にいた。
否定もしない。
弁解もしない。
ただ、沈黙を選んだ。
その沈黙を、
周囲は勝手に解釈した。
――感情が薄い。
――誇り高い。
――鼻にかけている。
本当は、
語ることすら許されなかっただけなのに。
ディートリヒは、椅子に深く腰を下ろす。
なぜ、気づかなかった。
……いや、違う。
気づこうとしなかった。
政略結婚。
必要なのは感情ではなく、安定。
そう割り切ったつもりで、
人の評価を鵜呑みにし、
本人を見ることを怠った。
「……愚かだな」
自嘲が漏れる。
妹の言葉は、
常に明るく、常に分かりやすかった。
それに比べ、
エレノアは静かだった。
だから――
声の大きい方を、
“真実”だと錯覚した。
昨夜の姿が、脳裏に浮かぶ。
整えられた屋敷。
落ち着いた所作。
迷いのない判断。
そして、
「選択肢として考えています」
と告げた声。
……あれが、
要領の悪い女の姿か。
違う。
彼女は、
誰よりも冷静で、誰よりも賢かった。
ただ、争わなかっただけだ。
奪われても、
叫ばず、恨まず、
静かに距離を取った。
それを弱さだと決めつけたのは、
周囲であり――自分だ。
ディートリヒは、
机の上の報告書を閉じる。
そして、はっきりと悟った。
自分がエレノアを理解できなかった理由は、
彼女が分かりにくかったからではない。
――分かろうとしなかったからだ。
妹の影に隠れていたのではない。
周囲の声に、
自分の目を閉ざしていただけだ。
「……遅すぎる」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
だがこの夜、
ディートリヒの中で一つの認識が、
取り返しのつかない形で確定した。
エレノアは、
最初から“選ばれなかった女”ではない。
――選ばなかった女だったのだ。
そして今、
彼女は再び自分で道を選ぼうとしている。
その先に、
自分がいるとは限らない。
その事実が、
初めて恐怖として胸を満たした。
その感覚は、
怒りでも、焦りでもなかった。
――不安。
それも、
戦場では一度も覚えたことのない種類のものだった。
ディートリヒは、
自室の窓辺に立ち、
手入れの行き届いた邸の庭を見下ろしていた。
屋敷は静かだ。
昨夜と同じ、整いきった静けさ。
だが今は、
その静けさがひどく落ち着かない。
「……選択肢、か」
エレノアの声が、
鮮明に脳裏に蘇る。
――選択肢として、考えています。
それは、
許可を求める言葉ではなかった。
報告でも、相談でもない。
宣言だった。
これまで、
「失う」という発想はなかった。
彼女は妻で、
屋敷にいて、
役目を果たす存在。
そういうものだと、疑いもしなかった。
王城の話が出るまでは。
第三王女。
家庭教師。
王妃の信任。
それらはすべて、
エレノアが
この屋敷の外に
居場所を得られるという現実を突きつけていた。
――彼女は、
ここに留まらなくてもいい。
その事実が、
初めて胸を締めつける。
思い返せば、
彼女は一度も
「そばにいてほしい」と言わなかった。
戻りを待つとも、
寂しいとも、
不満を口にしたことすらない。
ただ、
役目を果たし、
淡々と日々を積み上げてきただけだ。
それを、
当たり前だと思っていた。
……違う。
今になって、ようやく分かる。
彼女は、
「待っていた」のではない。
自分で立っていた。
もし、王城の誘いを受けたら。
もし、この屋敷を出ることを選んだら。
自分は、何を失うのか。
名か。
体面か。
伯爵家の都合か。
……違う。
失うのは、
もう二度と取り戻せない時間だ。
声をかけなかった夜。
話を聞かなかった朝。
理解しようとしなかった日々。
そのすべてが、
一つの答えとして
返ってこようとしている。
「……遅い」
それは、
言い訳にもならない言葉だった。
扉の向こうから、
微かな物音がする。
朝の支度だろう。
彼女は今日も、
何事もなかったかのように
一日を始める。
この屋敷は、
彼女を中心に回っている。
それなのに――
その中心が、
静かに外へ動き出している。
「……待て」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からない。
引き止める資格がないことも、
分かっている。
それでも、
胸の奥で
はっきりとした感情が生まれていた。
――失いたくない。
それは、
これまで一度も
彼女に向けて
抱いたことのない感情だった。
ディートリヒは深く息を吸い、
拳を握りしめる。
今さら、
愛しているなどとは言えない。
だが、
このまま黙っていれば、
彼女は本当に
自分の前から消える。
その可能性が、
現実として目の前に現れた。
それが、
初めて彼に
「恐怖」という名の痛みを教えた。
この夜。
ディートリヒは、ようやく理解した。
――彼女は、
自分の所有物ではない。
そして同時に、
自分が失う立場に立たされた
ということを。
遅すぎる自覚だった。
だが、
この恐怖だけは、
もう誤魔化せなかった。
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