14 / 40
第14話 静かな申し出
しおりを挟むその夜、
エレノアは執務を早めに切り上げていた。
机の上には、すでに整理された書類の束。
明日の指示書も、必要な分だけ揃えてある。
――これで、困ることはない。
それを確認してから、彼女はゆっくりと立ち上がった。廊下を進み、ディートリヒの執務室の前に立つ。
ノックは、二度。
「……どうぞ」
低い声。
扉を開けると、ディートリヒは書類から顔を上げた。
「何か用か」
「少し、お時間をいただけますでしょうか」
声は穏やかだった。いつもと変わらない。
「……構わない」
彼が頷くのを待ってから、エレノアは一歩、室内へ入る。
扉は閉めない距離も詰めない。
その立ち位置が、すでに“話の性質”を示していた。
「本日は、ご相談がございます」
「相談?」
「はい」
エレノアは、一呼吸置いた。
「――離縁についてです」
空気が、止まった。
ディートリヒの指が、書類の端を強く押さえる。
「……何だと」
声は低い。だが、怒気はない。
「理由を、伺っても?」
そう問う彼の視線を、エレノアは逸らさなかった。
「特別な理由はございません」
淡々とした返答。
「これまでの生活を振り返り、今後を考えた結果です」
「……それだけか」
「はい」
あまりにも静かで、
あまりにも簡潔だった。
ディートリヒは、言葉を探すように沈黙する。
「不自由は、なかったはずだ」
「ええ。生活面では」
「不足も?」
「ございません」
一つ一つ、丁寧に否定される。
責められているわけではない。だが、どこにも“引き止められる余地”がない。
「では、なぜだ」
その問いには、わずかに力がこもった。
エレノアは、少しだけ考えるように視線を落とし、そして答える。
「……このままでは、私がここにいる意味がなくなってしまうからです」
「意味?」
「はい」
声は揺れない。
「伯爵夫人としての役目は、果たしてまいりました」
事実だった。
屋敷は整い、領地も回り、問題は起きていない。
「ですが――それ以上を求められることも、
それ以上を望まれることも、ございませんでした」
ディートリヒの胸が、鈍く締めつけられる。
「私は、誰かの妨げにも、足枷にもなりたくありません」
「……足枷など」
言いかけて、言葉が止まる。彼女は、一度も足枷になったことなどない。それを、今さら否定しても遅い。
「離縁後のことは、すでに考えております」
その一言で、彼の中の何かが崩れた。
――考えている。
つまり、衝動ではない。
「ご迷惑はおかけしません」
「……エレノア」
名を呼ぶ。
だが、それ以上、続かない。
彼女は、“情に訴える余地”を最初から用意していなかった。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ございません」
深く、丁寧に頭を下げる。
「正式な書面は、改めて整えます」
それは、すでに決まった事柄としての言葉だった。
「……待て」
思わず、声が出る。
エレノアは、立ち止まるが、振り返らない。
「今すぐ、答えを求めているわけではありません」
穏やかな声。
「ですが、この件については、近いうちにご判断をお願いいたします」
そう言って、彼女は静かに廊下へ戻っていった。扉が閉まる音は、驚くほど小さかった。
だが――その音は、ディートリヒの中で、
はっきりと“終わりの合図”として響いた。
彼女は泣かなかった。責めなかった。条件も、見返りも求めなかった。
だからこそ。この申し出は、撤回されない。
ディートリヒは、初めて理解する。
これは、交渉ではない。
――通告だ。
2,256
あなたにおすすめの小説
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません
鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。
「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」
そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。
——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。
「最近、おまえが気になるんだ」
「もっと夫婦としての時間を持たないか?」
今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。
愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。
わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。
政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ
“白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!
私の人生に、おかえりなさい。――都合のいい「お姉ちゃん」は、もうどこにもいません
しょくぱん
恋愛
「お姉ちゃんなんだから」
――それは私を縛る呪いの言葉だった。
家族の醜い穢れを一身に吸い込み、妹の美しさの「身代わり」として生きてきた私。
痛みで感覚を失った手も、鏡に映らない存在も、全ては家族のためだと信じていた。
でも、、そんな私、私じゃない!!
―― 私は、もう逃げない。 失われた人生を取り戻した今、私は、私に告げるだろう。
「私の人生に、おかえりなさい。」
白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』
鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」
公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。
だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。
――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの?
何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。
しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。
それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。
そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。
温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。
そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。
「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」
「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」
離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。
そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。
【完結】そんなに好きなら、そっちへ行けば?
雨雲レーダー
恋愛
侯爵令嬢クラリスは、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を告げられる。
理由は、平民の美少女リナリアに心を奪われたから。
クラリスはただ微笑み、こう返す。
「そんなに好きなら、そっちへ行けば?」
そうして物語は終わる……はずだった。
けれど、ここからすべてが狂い始める。
*完結まで予約投稿済みです。
*1日3回更新(7時・12時・18時)
「君は大丈夫だろ?」と可哀想な元恋人を選択した夫。~今さら復縁を迫っても、愛は既に錆び付いています~
水上
恋愛
夫と白い結婚をして、傾いた領地を努力と苦労の末に立て直した伯爵令嬢ヴィクトリア。
夫との関係も良好……、のように見えていた。
だが夫は「君は強いから」と、めそめそ泣く元恋人を優先し、ヴィクトリアの献身を踏みにじった。
その瞬間、彼女の恋心は錆び付き始めた。
「私が去ったら、この領地は終わりですが?」
愛想を尽かした彼女は、完璧な微笑みの裏で淡々と離縁の準備を始める。
これは、有能な妻が去り、無能な夫が泥沼に沈むまでを描く、冷徹な断罪劇。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる