【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

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第15話 すがる想い

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エレノアが執務室を去ってから、どれほどの時間が過ぎただろうか。ディートリヒは、机に残された書類を見つめたまま、一文字も読めずにいた。

――離縁。

その言葉が、何度も胸の内で反響する。

通告だった。交渉ではない。

分かっている。分かっているのに――
そのまま受け入れるには、あまりにも遅く、そして急だった。

「……待て」

誰もいない室内で、小さく呟く。そして、自分でも驚くほど衝動的に立ち上がった。廊下の先。エレノアの私室の前。ノックは一度だけ。

「……どうぞ」

中から返ってきた声は、少しも乱れていなかった。部屋に入ると、彼女は机の前に座り、書類を整えていた。離縁の話をした直後とは思えないほど、落ち着いている。

その事実が、胸に刺さる。

「話がある」

「はい」

立ち上がりもしない。身構えもしない。
その態度が、すでに距離を示していた。
ディートリヒは、一歩だけ近づき、しかしそれ以上は踏み込まなかった。

「……離縁の件だ」

「先ほどお伝えしたとおりです」

即答。感情の揺れは、どこにもない。

「王城の件」

その言葉に、エレノアの手が、ほんの一瞬止まった。だが、振り返らない。

「家庭教師の話だな」

「……はい」

「それを、止めるつもりはない」

その言葉に、彼女がゆっくりとこちらを向いた。わずかな驚き。だが、期待ではない。

「王城に出ることも、教えることも、お前の選択だ」

エレノアは黙って聞いている。

「……それは、構いません」

「だが」

そこで、言葉が詰まる。軍でも、会議でも、迷ったことなどなかった男が、今は言葉を選んでいる。

「その間でいい」

低く、はっきりとした声。

「――俺にも、やり直す時間をくれ」

沈黙。

エレノアの瞳が、静かにディートリヒを映す。

「離縁を、今すぐとは言わないでほしい」

命令ではない。条件提示でもない。

――願いだった。

「……勝手なことを言っているのは分かっている」

自嘲が混じる。

「これまで、何もしなかったのは俺だ」

「今さら、信用しろとは言えない」

エレノアは、ゆっくりと息を吐いた。

「……では、何をお望みですか」

問いは、冷静だった。

責めるでも、突き放すでもない。

ディートリヒは、正直に答える。

「機会だ」

短く。

「教師をするのは構わない。王城に行くのも止めない」

「だが――その間、俺がお前と向き合う機会をくれ」

言い換えれば、それしか言えなかった。愛しているとも、離れないとも、まだ言えない。

ただ、

「失う前に、遅れた分を取り戻す機会が欲しい」

それが、彼の精一杯だった。

エレノアは、しばらく何も言わなかった。
考えているのではない。量っている。

――この言葉が、どれほどの重さを持つのかを。

「……期限を」

静かな声。

「期限?」

「はい」

彼女は、はっきりと言った。

「いつまでも、曖昧なままではいられません」

「教師としての話がどうなるか、ではありません。私が、あなたを夫として見直せるかどうか。その判断に必要な期間として、半年をください」

それは、譲歩だった。だが、条件付きの。

「その間に、何も変わらなければ」

エレノアは、まっすぐに彼を見た。

「そのときは、迷いなく離縁いたします」

逃げ道は、ない。

ディートリヒは、ゆっくりと頷いた。

「……分かった」

それ以上、求めない。求められる立場ではないと、理解している。

「ありがとう」

その言葉は初めて、夫としてではなく、一人の男として絞り出したものだった。

エレノアは、小さく頭を下げる。

「では、私は失礼いたします」

それだけ言って、彼女は話を終えた。残されたのは、短い猶予と、重すぎる時間。ディートリヒは、ようやく悟る。

これは、最後の機会だ。

彼女が与えたのではない。

――彼女が、奪わなかっただけの時間だということを。




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