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第16話 王の言葉は退路を断つ
しおりを挟む王から呼び出しを受けたのは、午後の軍務が一段落した頃だった。謁見というほど仰々しいものではない。だが、私的でもない。
――その曖昧さが、すでに不穏だった。
通されたのは、王の執務室。高い窓から差し込む午後の光が、机に積まれた書類の縁を白く縁取っている。王は机に向かったまま、ディートリヒが入室しても、すぐには顔を上げなかった。
「……忙しいところ、呼び立ててすまないな」
「いえ」
短く答える。
沈黙。
それは叱責の前の沈黙ではない。すでに結論を出した者が、言葉を選ぶために置く沈黙だ。王はようやく視線を上げ、淡々と告げた。
「第三王女の件だ」
背筋が、無意識に強張る。
「お前の妻が、王城にて家庭教師として“試用”に入る」
命令ではない。
相談でもない。
――事実の通知だ。
「……承知しております」
嘘ではない。だが、すべてを知っているわけでもなかった。王は、その温度差を見逃さなかった。
「王妃が、非常に高く評価している」
淡々とした声で、続ける。
「“教える技量”ではない。“子を壊さぬ力を持つ女”だとな」
胸の奥に、重いものが落ちた。
「……それは」
言いかけて、言葉が途切れる。
王は、視線を外さない。
「お前は、その価値を知っていたか?」
問いではない。
確認でもない。
――断罪だった。
「……いいえ」
否定は、逃げずに選んだ答えだった。王は小さく息を吐く。
「だろうな」
責める調子ではない。だからこそ、重い。
「王妃はこう言っていた」
王は、記憶をなぞるように言葉を選ぶ。
「"彼女は、夫に評価されるために生きてきた女ではない"」
喉が、わずかに鳴る。
「そして、続けてこうだ」
王は、一拍置いて告げた。
「"彼女の夫は、
彼女を試す資格を失っている"」
沈黙。
言い返す言葉は、どこにもない。
「だがな」
王は、視線を逸らさずに続けた。
「王妃は、一つだけ道を残した」
ディートリヒは、息を詰めたまま聞いている。
「"彼女が、彼を試すことは許す"と」
試す。
その一語で、立場は完全に逆転した。
「半年だ」
王は告げる。
「その間に、彼女が何を選ぶかは、誰にも分からん」
王自身も、干渉する気はない。
「ただ一つ、覚えておけ」
王は、最後にこう言った。
「彼女が去るとき、それは政治ではない」
「――個人の選択だ」
逃げ道は、完全に塞がれた。
王は、机の上に置かれていた別の書類を指先で押す。
「もう一つ、確認しておこう」
淡々とした声だった。
「アイゼンヴァルト伯爵領の件だ」
無意識に背筋が伸びる。
「最近、税の滞りも、商会との軋轢も、領地からの訴えも減っている」
それは、軍務に集中していたディートリヒ自身が“楽になった”と感じていた事実でもあった。
「……はい」
王は視線を上げる。
「誰が、領地を回していた?」
問いは短い。だが、逃げ場はない。
「……妻です」
王は、まるで知っていたかのように頷いた。
「そうだな」
責めるでもなく、誇るでもなく。
「書類の整理、商会との再交渉、役人への指示」
「すべて、お前の妻の判断で動いていた」
一拍置いて、王は続ける。
「――しかも、お前の名を盾にせずにな」
その一言が、深く刺さる。
「伯爵としての権威を振りかざさず、女主人として出しゃばることもなく、ただ“機能させていた”」
それは、最も難しいやり方だった。
「お前は、その間、何をしていた?」
責めているわけではない。事実を並べているだけだ。
「軍務に専念していた、……つもりだったのだろう」
何も言えなかった。
王は、最後に締めくくる。
「領地が回っていたのは、“お前が優秀だったから”ではない」
「――彼女が、黙って支えていたからだ」
沈黙。
それ以上の説明は、不要だった。
「忘れるな、ディートリヒ」
王は淡々と告げる。
「彼女は、夫が不在でも成り立つ女だ」
「だからこそ――去ることも、できる」
それは、宣告だった。
執務室を出たあと、ディートリヒはしばらくその場を動けずにいた。
王妃の評価。
半年という期限。
そして――
試されるのは、自分だけ。
誰も、助けない。権力も、軍功も、肩書きも通じない。
「……当然だ」
低く呟く。これまで、自分が彼女にしてきたことを思えば。王は、最後まで言わなかった。だが、はっきりと伝わっている。
――彼女が選ばなければ、それで終わりだ。
馬車に乗り込み、王城の門を出たところで、ディートリヒは一度だけ目を閉じた。
逃げることは、できた。軍務を理由に、距離を置くこともできた。
だが――
それを選んだ瞬間、
本当に終わる。
「……帰る」
誰に言うでもなく、そう告げる。
屋敷へ。
彼女が整え、
彼女が支え、
彼女が“待たずに立っている”場所へ。
王の言葉は、命令ではない。だがそれは、
どんな命令よりも重かった。
彼は今、選ぶ側ではない。
――選ばれるかどうかを、正面から受け止める側に立ったのだ。
逃げずに。
言い訳もせずに。
その夜、ディートリヒは屋敷の門をくぐる。
それが、初めて自分の意思で「妻のいる場所へ戻る」選択だった。
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