【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

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第17話 初めての授業

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静かな授業

王城の小さな学習室は、
いつもより窓が開け放たれていた。

朝の光が、白いカーテンを柔らかく揺らし、
机の上に置かれた紙と羽根ペンを照らしている。

第三王女リリアは、
椅子に浅く腰かけ、足を揺らしていた。

緊張しているというより、
構えている――そんな様子だった。

「……今日は、何をするの?」

先に口を開いたのは、王女のほうだった。
その声は小さいが、試すような色を帯びている。

エレノアは、すぐには答えなかった。

「まずは、座り方を変えてもいいですか?」

そう言って、
彼女は王女の正面ではなく、隣の椅子に腰を下ろした。

それだけで、
室内の空気が、わずかに変わる。

王女は一瞬、目を瞬かせた。

「……先生、そこなの?」

「はい。
向かい合うと、緊張してしまいますから」

王女は言葉に詰まり、
それから、ほんの少し肩の力を抜いた。



机の上には、
分厚い教材も、課題表もない。

白い紙が数枚と、色鉛筆。
そして――
ひとつの布包み。

エレノアは、その包みをほどいた。

現れたのは、
厚紙で作られた一冊の本だった。

「……なに、それ」

王女が、思わず身を乗り出す。

それは王城の書庫にあるどの本とも違う。
手描きの絵。
大きく、少ない文字。
余白の多いページ。

「絵本です」

「えほん?」

「はい。
この国には、子どもが“読むためだけ”の本がありませんから」

それは事実だった。
書物は学問か、宗教か、政治のためのもの。
子どもが“楽しいから読む”本は存在しない。

「……だから、作りました」

淡々とした声だった。

少し離れた場所で、
王妃の視線が鋭くなる。

――自作。
それが意味する時間と労力を、王妃は理解していた。



エレノアは、絵本を開く。

最初のページには、
丸い動物の絵と、たった一行。

『これは ねこ』

「……ねこ」

リリアが、小さく声に出す。

「今、読みましたね」

「え?
よめてないよ。だって、わかんない」

「声に出せました。
“分からない”と“読めない”は、違います」

次のページをめくる。

『ねこは あるく』

薔薇園を歩く猫の絵。

「……つづき?」

「はい。物語です」

王女の目が、絵本に吸い寄せられる。

「さいご、どうなるの?」

エレノアは、答えなかった。

「続きを知りたければ、
一緒に読みましょう」

教えない。
与えない。
“読みたい”という気持ちを、先に生む。



しばらくして。

リリアは、
絵本を膝に抱え、指で文字をなぞっていた。

「……これ、なんてよむの?」

「どう思いますか?」

「……ねこ、が……とぶ?」

絵は、木から飛び降りる猫だった。

「いいですね」

否定しない。

「正解かどうかは、
続きを読めば分かります」

王女の口元が、わずかに緩む。



少し離れた場所で、
王妃は黙って見守っていた。

――叱らない。
――導かない。
――評価しない。

ただ、
学びたくなる場所を整えているだけ。

侍女ナディアが、思わず息を吐く。

「……殿下、
自分から文字を追っています」

王妃は、小さく頷いた。

「ええ」

――この教師は、
文字を教えているのではない。
物語へ連れて行っている。



授業の終わり。

エレノアが立ち上がると、
リリアは絵本をぎゅっと抱えた。

「……つぎ、いつ?」

「いつがいいですか?」

「……あした!」

即答だった。

そして、
少し間を置いてから、小さく言う。

「……このほん、
よめるように、なりたい」

それは、
“学ぶ理由”として、これ以上ない言葉だった。

エレノアは、静かに頷く。

「では、続きを作ってきます」

「つづき……?」

「はい。
リリア様が読める速さで」

王女の顔が、ぱっと輝いた。



王妃は、何も言わなかった。

だが、視線だけで十分だった。

――答えは、出ている。

この教師は、
娘に「勉強」をさせていない。

娘が、自分から学びたくなる世界を、差し出した。

それが、
何よりも雄弁だった。
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