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第24話 何もしないという選択
しおりを挟む何もしない――
それは、ディートリヒにとって最も困難な命令だった。命令が下れば動く。問題があれば切り込む。遅れがあれば立て直す。それが、これまでの彼の生き方だった。だが今、彼は“動かない”ことを選んでいる。
朝。屋敷の廊下に、柔らかな足音が響く。
エレノアが、王城へ向かう支度をしている時間だ。
以前なら――彼は声をかけていた。
「今日は何時に戻る」
「授業はどうだった」
「無理はするな」
どれも、“善意”のつもりだった言葉。
今は、違う。
ディートリヒは扉の前で立ち止まり、
――そして、何も言わずに踵を返した。
胸の奥が、ざわつく。
(……言わなくていい)
自分に言い聞かせる。
(彼女の時間だ)
それに気づいたのは、使用人たちだった。
「……最近、旦那様が静かすぎませんか」
小声で交わされる囁き。
「お声がけもなさらないし」
「奥様のご予定にも口を出されない」
「……喧嘩でも?」
いや、違う。
喧嘩なら、まだ分かりやすかった。
今のディートリヒは、“何も起こさない”という異常事態そのものだった。
執事は、主人の異変を最も早く察していた。
書類を受け取る際も、必要以上の指示はない。
「この件は?」
と聞けば、
「……奥様の判断に任せている」
それだけ。
「こちらは?」
「急ぎでなければ、待て」
待つ。
その言葉が、どれほどこの男に似合わないか、執事は誰よりも知っていた。
昼。
王城からの連絡が届く。第三王女の授業は、順調。次回は絵本の続きを用いる予定。
以前なら、ディートリヒは確認していた。
内容は?進度は?王妃の反応は?
だが今は、
「……承知した」
それだけで、書類を閉じる。胸の内では、
不安が渦を巻いている。
(半年だ)
(彼女が選ぶ時間は、刻一刻と減っている)
だが――それでも、彼は動かない。
周囲が、焦り始める。
「このままで、よろしいのでしょうか」
「王城との関係もございますし」
「奥様が、もし……」
その言葉の続きを、誰も口にしない。
だが、皆が同じ未来を思い描いている。
――奥様が、去る。
「……」
ディートリヒは、その不安を、すべて飲み込む。
(それでも、俺は口を出さない)
(選ぶのは、彼女だ)
夜。
廊下の先で、エレノアが執務を終え、灯りを落とす。
すれ違う瞬間。
彼女は、いつも通り立ち止まり、一礼する。
「お疲れさまでございます」
声は、丁寧で、静か。
そこに、期待も、拒絶もない。以前なら、
その距離が耐えられなかった。
今は――ディートリヒは、深く息を吸い、
同じように一礼した。
「……お疲れさま」
それ以上、何も言わない。
背を向けて歩きながら、彼は理解していた。
これは、“何もしない”のではない。
「自分の不安を、相手に渡さない」
という選択だ。
声をかけたい。
確認したい。
安心したい。
――全部、自分のためだ。
それを、
彼女の世界に持ち込まない。
それが、今の自分にできる唯一の誠意だと。
だが――
夜更け、一人になった部屋で、ディートリヒは拳を握る。胸の奥が、焼けるように痛む。
(……苦しいな)
変わるとは、強くなることだと思っていた。だが今は違う。
耐えることの方が、よほど強さを要する。
彼は、ようやく分かっていた。
これは、評価されるための変化ではない。
報われる保証もない。
それでも――彼女の人生を奪わないために、自分が選んだ立ち位置だ。
その選択が、正しいかどうかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ。
ディートリヒは、初めて“相手を中心にした距離”に、自分を置いた。
それだけが、確かな事実だった。
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