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第35話 王妃がディートリヒに与える
しおりを挟む王妃に呼ばれたのは、夕刻だった。謁見ではない。かといって、私的とも言えない。
第三王女の学習室とは反対側――
王妃の私的応接室。
窓辺には、沈みかけた陽光が差し込み、
室内の輪郭をやわらかく曖昧にしている。
王妃は、すでに席に着いていた。ディートリヒが一礼すると、彼女は軽く手を上げただけで応じた。
「……座りなさい」
声は穏やかだ。だが、感情は含まれていない。
「第三王女の件で呼んだのではありません」
王妃は、先にそう言った。
「あなたの“妻”の件です」
ディートリヒの喉が、わずかに鳴る。
「……はい」
王妃は、紅茶に口をつけ、しばらく沈黙した。その沈黙は、様子を見るためのものではない。
――言うべきことが、すでに決まっている者の沈黙だ。
「あなたは、よくやっています」
唐突な言葉だった。
ディートリヒは、思わず顔を上げる。
王妃は、視線を合わせないまま続ける。
「噂を消そうとしなかった。説明もしなかった。ただ、記録を残し、功績を彼女の名で積み上げた」
「……それは」
「褒めているのではありません」
王妃は、即座に遮った。
「“遅れて当然のことをした”それだけです」
ディートリヒは、何も言えなかった。
王妃は、ようやく彼を見た。その視線は、母のものではない。
――王の伴侶として、
多くの別れと選択を見てきた女の目だ。
「あなたは、勘違いしている」
静かな声。
「彼女が離縁を選ぶのは、あなたを罰するためではない」
「……分かっています」
「いいえ。分かっていません」
王妃は、はっきりと言った。
「彼女は、あなたから自由になるために離縁するのです」
その言葉は、鋭かった。
「守られるためでもない。評価されるためでもない」
「“正妻であること”から降りるためです」
ディートリヒは、拳を握りしめた。
「……それでも」
「それでも、私は彼女を愛している」
言葉にした瞬間、それが遅すぎることは、
自分でも分かっていた。
王妃は、微かに息を吐いた。
「だから、最後の助言をあげましょう」
「追いかけてはいけません」
はっきりと、迷いなく。
「説得もしない。約束もしない。“変わった自分”を見せようともしない」
「それは、すべて彼女の決断を無効にしようとする行為です」
「では、何をすれば……」
絞り出すような声。
王妃は、わずかに首を傾けた。
「何もしなさい」
「……?」
「正確には――何も“求めない”ことです」
「彼女が去るなら、去らせなさい」
「彼女が残るなら、理由を求めてはいけない」
「あなたの後悔も、願いも、愛情も」
「彼女にとっては、判断材料ではない」
ディートリヒは、目を伏せた。それが、
一番つらい答えだった。
王妃は、最後にこう言った。
「彼女があなたを選ぶとしたら」
一拍。
「それは、あなたが“変わったから”ではありません」
「変わろうとするあなたを、必要としなかったとしても尊重されたからです」
「それができないなら」
王妃の声は、冷たくも、厳しくもない。ただ、事実だった。
「あなたは、彼女を愛しているのではない」
「“失いたくない自分”を愛しているだけです」
沈黙。
逃げ道は、もうなかった。
「これが、最後の助言です」
王妃は立ち上がる。
「彼女は、もう十分、“待った”のです」
「次は――あなたが、何も求めずに待てるかどうか」
扉が開かれる。
それは、追い出す仕草ではない。
――選択を、彼に返しただけだ。
ディートリヒは、深く一礼した。救われたとは、思わなかった。
だが――
何をしてはいけないかだけは、はっきり分かった。
それだけで、十分だった。
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