【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ

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第36話  エレノア、離縁届に署名する直前の静寂

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執務室は、静かだった。

窓は閉められ、外の音も、屋敷の気配も、
すべてが一枚の硝子の向こうにあるようだった。

机の上には、きちんと揃えられた書類。

離縁届。添付された条件文書。財産分与と、権限移譲の確認。どれも、冷静に整えられている。

――整えたのは、自分だ。



エレノアは、椅子に腰かけたまま、ペンを取らずにいた。迷っているわけではない。
感情が揺れているわけでもない。

ただ、一つの区切りが来たという事実が、
静かに、重く、そこにあった。


(……不思議ですね)

心の中で、誰にともなく呟く。涙は、出ない。胸も、痛まない。怒りも、恨みも、もう残っていない。それが、何よりの証拠だった。


かつて、この屋敷で待っていた日々。

彼が戻らない夜。
返事のない朝。
説明されない判断。

その一つ一つを、「仕方がない」と飲み込んできた。

正妻として。
伯爵夫人として。
“理解ある妻”として。


だが、理解していたのは、彼の事情ではない。自分が消える速度だった。

どこまで黙れば、
どこまで引けば、
どこまで削れば、
争わずに済むのか。

それを、身体が覚えてしまっていた。


王城での授業。
第三王女の声。
絵本をめくる、小さな指。

「待ってくれる人」がいる場所で、エレノアは初めて知った。

――私は、誰かを安心させながら、
  自分も壊れずにいられるのだと。



ペンの横に、もう一枚、紙が置かれている。もしもの時の指示書。自分が戻らなかった場合の、執務と判断の引き継ぎ。

あらかじめ、整えられていた。

彼の手で。



(……戻れない可能性を、理解しているのですね)

それを、評価する気にはならなかった。

遅いからでもない。
足りないからでもない。

それは、彼の責任であって、私の判断理由ではないからだ。


彼が変わったことは、分かっている。

環境を動かしたことも。
言葉を使わなかったことも。
踏み込まなかったことも。

すべて、理解している。

だからこそ――

(……ここで、それを理由にしてはいけない)

それを選べば、また同じ構図になる。

「彼がこうしたから」
「彼が変わったから」

――その瞬間、自分の選択は、再び誰かの行動に紐づく。

それだけは、許せなかった。


エレノアは、静かにペンを取る。紙に触れる指先は、震えていない。

名前を書く。
一文字ずつ。
丁寧に。

それは、拒絶ではない。

復讐でもない。

“戻らないかもしれない未来”を、自分で引き受ける署名だった。


ふと、第三王女の声が脳裏をよぎる。

「先生は、待ってくれるのに」

その言葉は、選択を急がせるものではなかった。

ただ、選ばれても壊れない関係があるという事実を、そっと置いていっただけだ。


署名は、もうすぐ終わる。

この先、何が待っているかは分からない。

戻るかもしれない。
戻らないかもしれない。

だが、どちらでもいい。



エレノアは、静かに思う。

(これは、別れではない)

(……自分を、取り戻すだけだ)

ペン先が、最後の線を引く。

室内は、相変わらず静かだった。

だがその静寂は、かつての「待つ沈黙」ではない。

選び終えた者だけが持つ、深く、揺るがない静けさだった。




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