【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ

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第5話 遅すぎる謝罪

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辺境の屋敷を訪れた男は、かつて“王太子”と呼ばれていた存在だった。

埃一つないはずの外套は、どこかくたびれて見える。仕立ての良さは変わらない。それでも、身にまとう空気は明らかに違っていた。背筋は正している。だが、その背中にあったはずの自信は、もう感じられない。

それは、長い間、誰かに支えられてきた人間が、初めて自分の足で立たされ、その重さに耐えきれなくなった者の姿だった。

「……エリシア」

名を呼ぶ声には、はっきりとしたためらいが滲んでいる。その名を呼ぶことすら、今の自分には許されない行為なのではないか
そんな迷いが、声の端に残っていた。

扉の内側から現れた彼女は、かつて王宮で見ていた姿と変わらない――
いや、確かに違っていた。

豪奢なドレスも、王太子妃候補としての装いもない。宝石も、紋章も、権威を示すものは何一つ身につけていない。

それでも、立ち姿には迷いがなく、その視線は、誰かの判断を仰ぐ必要のない人間のものだった。

王宮で見ていた頃の彼女は、常に一歩引いた場所に立ち、決して前に出ようとしなかった。

だが今、目の前にいる彼女は違う。
下がっていない。
誰の影にも入っていない。

「エリシア嬢。時間を割いてくれてありがとう。本当に……すまなかった」

王太子はそう言って、深く頭を下げた。

それは、かつて彼が誰かに見せたことのない姿だった。王宮では、常に見下ろす側にいた。頭を下げるのは、周囲の人間の方だった。

形式ばった言葉。
過剰なほどの礼。
そして、隠しきれない目の下の濃い隈。

それだけで、彼がどれほど追い詰められているのかは、十分に伝わってくる。王宮では、連日のように問題が起きていた。

外交は滞り、隣国からの書簡は返事を待たされたまま山のように積み上がり、その内容を正確に読み解き、判断できる者はいなかった。

貴族たちは互いに責任を押し付け合い、

「それは自分の管轄ではない」
「前例がない」

そんな言葉ばかりが飛び交う。

災害対応は遅れ、被害の報告は日に日に深刻さを増していった。本来なら、被害が広がる前に手を打つべきだった。だが、その判断は下されなかった。

――いや、正確には。

かつては、すでに下されていた。

誰かが、水面下で。誰にも気づかれないように。誰からも評価されないまま。

王太子は、その事実を、彼女がいなくなってから初めて知った。

「なぜ、事前に対応できなかったのか」
「なぜ、判断が遅れたのか」

そう責められるたびに、彼の脳裏には、同じ答えが浮かぶ。

――以前は、問題にならなかった。

それは、問題が起きていなかったのではない。起きる前に、処理されていたのだ。

「ご用件は?」

エリシアは、感情を一切乗せずに尋ねた。
まるで、初めて会う来客を迎えるかのように。その距離感に、王太子の胸が、静かに締めつけられた。

「……誤解だった」

彼は、言葉を選ぶように続ける。

「君の件は、調査の結果、完全に――」

「誤解、ですか」

エリシアは、その言葉を静かに遮った。

声を荒げることも、
責め立てることもない。

それが、かえって彼の胸を締めつけた。

「では、あの場で私を信じなかった理由は、何だったのでしょう」

問いは、静かだった。だが、逃げ場はなかった。王太子は、唇を噛みしめる。

あの断罪の場。
集まった貴族たちの視線。
もっともらしく語られた告発。

――そして、
“波風を立てない判断”という名の、
最も安易な選択。

「……周囲が、そう言っていた」

絞り出すような声だった。

「皆が、君を疑っていた。だから……」

「だから、私も疑った。そう仰りたいのですね」

エリシアは、淡々と受け取った。

裏を取ることもなく、
話を聞くこともなく、
一方的に切り捨てた。

その行為が、どれほど取り返しのつかないものだったのか。王太子は、今になって理解していた。

「戻ってきてほしい」

沈黙に耐えきれず、彼は言った。

「君が必要なんだ。王宮には、君の代わりがいない」

それは、懇願に近い声だった。事実、そうだった。エリシアがいなくなって初めて、彼は知ったのだ。

どれほど多くの調整が、どれほど多くの判断が、どれほど多くの“面倒な仕事”が、
彼女の手によって静かに処理されていたかを。誰も気づかないように。誰にも恩を着せることなく。

「それは」

エリシアは、ほんの一瞬だけ視線を落とし、すぐに彼を見据えた。

「“私”が必要なのですか。それとも、“私の代わり”が見つからないだけですか」

沈黙。

風が庭の木々を揺らす音だけが、二人の間を流れる。王太子は、答えられなかった。

答えが出ないのではない。出してしまえば、自分がどれほど浅はかだったかを、認めることになると分かっていたからだ。

「……分かりました」

エリシアは、静かに息を吐いた。

「私はもう、私を信じなかった場所へ戻るつもりはありません」

その声には、怒りも、悲しみもなかった。

「私は、あの場所で、何度も黙って働いてきました」

淡々と、言葉を重ねる。

「評価されなくても、必要だと思ったからです」

一歩、距離を置くように続ける。

「けれど、信じてもらえなかった。それだけで、十分でした」

王太子は、何も言えなかった。

「どうか、これ以上」

エリシアは、穏やかに、しかし確かに告げる。

「私の人生に、関わらないでください」

それは拒絶だった。
だが、同時に――
最後の情けでもあった。

王太子は、最後まで顔を上げることができなかった。彼が失ったのは、婚約者ではない。信頼と、判断の機会そのものだった。

ーーそしてそれは、二度と取り戻せない。
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