【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ

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第17話 エリシアから溢れた本音

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――名を知っていて、名を使わなかった再会

タペストリア帝国の夏祭りは、昼から夜へと溶けるように続く。王都ハリーベアの中心広場。昼間は交易と行列で埋まる場所が、今は灯りと音に満たされていた。

布張りの屋台。香辛料の匂い。弦楽器と太鼓の、少し不揃いな音。

格式も、序列もない。今夜だけは、誰もが「ただの人」だった。

「……賑やかですね」

エリシアは、少しだけ目を見開いていた。
こういう場所に来るのは、初めてだった。
見る余裕がなかった、が正しい。

「帝国の祭りは、“参加しないと損”らしいです」

隣でロザリーが笑う。

「見るだけ、は想定してない」

その言葉通り、人々は立ち止まらない。
歌い、飲み、踊り、笑う。

その輪の中で――
エリシアは、ふと足を止めた。

広場の中央。

火の明かりに照らされて、一人の青年が立っていた。

黒髪。
飾らない服装。
だが、視線を向けた瞬間、分かる。

(……あ)

同時に、彼も気づいた。ほんの一瞬。それだけで、十分だった。

「こんばんは」

アレクシスは、今日も名を使わなかった。

「……こんばんは」

エリシアも、同じだった。

周囲の音が、一段遠のく。

「今日は、判断はお休みですか」

「ええ。期限も、ありません」

「それは貴重だ」

彼は、冗談めかして言う。

太鼓の音が、強くなる。人の輪が、自然と広がる。

踊りが始まった。決まりはない。型もない。知っている者が、知っている分だけ動く。

「……踊らないんですか」

エリシアが、ぽつりと尋ねる。

「誘われたことがない」

「今、誘いました」


一瞬の沈黙。

それから、アレクシスは、素直に手を差し出した。

「では」

エリシアは、その手を取った。驚くほど、自然だった。動きはぎこちない。歩幅も合っていない。それでも、不思議と笑ってしまう。

「……難しいですね」

「判断が多すぎる」

「仕事の癖です」

「同感です」

二人は、少しずつ力を抜いていく。

正解を探さない。
相手を測らない。

ただ、音に合わせる。火の粉が舞う。笑い声が混じる。

「……楽しい、です」

エリシアが言った。その言葉に、自分で驚いた顔をする。

「それは、初めて聞いた」

アレクシスは、静かに答える。

「判断ではなく?」

「感想です」

その後、二人は屋台を回った。

甘い菓子を半分ずつ。香辛料の強い酒を一口だけ。

「強いですね」

「帝国基準です」

「……仕事向きではありません」

「今日は、向いてなくていい」

広場の端に腰を下ろす。

喧騒の中なのに、二人の間だけ、妙に静かだった。

「……明日になれば」

エリシアが、空を見上げて言う。

「また、戻りますね」

「ええ」

アレクシスも、同じ方向を見る。

「それでも」

少し間を置いて。

「今夜は、残ります」

エリシアは、頷いた。

「……はい」

その夜、二人は名を呼ばなかった。

肩書きも、役割も、使わなかった。

ただ――
同じ音を聞き、
同じ灯りを見て、
同じ時間を過ごした。

それだけだった。夜風は涼しく、祭りの熱だけが、まだ街に残っていた。

広場の喧騒から少し離れた石段に、エリシアとアレクシスは並んで腰を下ろしている。

エリシアの手には、空になりかけた木杯。

「……これ、甘いですね」

「帝国の祭り用です。酔わせるほど強くはない」

「……安心です」

そう言った直後、彼女は少しだけ首を傾げた。視線が定まらないわけではない。
ただ――判断が、少し遅れている。

「……あ」

アレクシスは気づいたが、何も言わなかった。問い詰める必要はない。エリシアは、石段を見つめたまま、ぽつりと言う。

「……私」

一拍。

「私、ずっと……」

言葉を選ぶ癖が、ここで崩れた。

「ずっと、“正しいかどうか”しか、考えてなかったんです」

アレクシスは、ただ聞く。けして遮らない。

「間違えたら、誰かが困るって思ってて。
 だから……楽しいとか、嫌だとか、後回しにして」

小さく笑う。

「後回し、じゃなくて。無いものとして扱ってました」

風が、彼女の髪を揺らす。

「……王国では」

声が、少しだけ低くなる。

「ちゃんとやっても、“出しゃばるな”って言われて」

指先が、膝の上で絡む。

「隠れると、“役に立たない”って言われて」

一息。

「……どこにいても、正解が、私じゃなかった」

アレクシスは、そこで初めて口を開く。

「それでも、進んだ」

「……はい」

エリシアは頷く。

「止まる方が、怖かったから」

少し間が空く。それから、彼女は小さく続けた。

「……今日」

夜空を見上げる。

「踊ってて。変でした」

「変?」

「頭で考える前に、笑ってました」

自分でも信じられない、という顔で。

「……あれ、危ないですね」

アレクシスは、思わず微笑んだ。

「帝国では、それを“生きている”と言います」

エリシアは、目を瞬いた。

「……ずるい言い方です」

「誉め言葉です」

しばらく、沈黙。

エリシアは、ふっと息を吐いた。

「……私、愚痴ってますね」

「ええ」

「止めないんですか」

「今日は、判断は休みだと言った」

その言葉に、エリシアの肩から力が抜けた。

「……ありがとうございます」

それは、命令でも、契約でもない。

ただの礼だった。

彼女は、少しだけ杯を傾け――
もう中身がないことに気づいて、困ったように笑う。

「……酔ってますね」

「少し」

「……じゃあ」

彼女は、ゆっくり立ち上がり、また座り直した。

「今日は、ここまでにします」

「賢明だ」

「……はい。明日はまた、ちゃんとしますから」

アレクシスは、静かに答える。

「今夜も、十分ちゃんとしている」

エリシアは、その言葉の意味を考えようとして――やめた。

考えない時間を、初めて許した夜だった。

そして彼女は知らない。

この無防備な愚痴が、誰よりも深く、彼の心に届いたことを。

それが、判断ではなく――
感情として、初めて触れた瞬間だったことを。

その夜が終わっても、二人は名を呼ばなかった。

翌朝になれば、彼女は商会の長として判断を下し、彼は帝国の皇子として立つ。

互いに、再び“役割”を纏うことになる。

だが――

エリシアは知らないまま進んでいく。王太子が後悔に沈み、王国が終わった理由を理解した、その先へ。

アレクシスは知っている彼女が、「正しさ」に壊されなかった数少ない人間だということを。

この夜は、約束ではなかった。
誓いでも、契約でもない。

ただ、名を知っていて、名を使わなかった時間。

それだけが、二人の間に、静かに残った。

――そしてそれは、世界がどれだけ動いても、失われない種類の記憶だった。
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