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第34話 名を知らぬまま前に出る
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エリシアは、その依頼を見たとき、ほんの一瞬だけ、手を止めた。
第三国レグナール。港湾再編に伴う実務調整。現地常駐責任者の補佐――公爵夫人。成り上がったと噂にある人物。
内容は、よくあるものだ。むしろ、彼女の得意分野だった。
「……条件は、問題ありません」
ロザリーが差し出した資料に目を走らせながら言う。
「現地の受け入れ体制も整っている」
「裁量も、十分に確保されている」
淡々とした声。
そこに迷いはない。だが――
(……少し、遠いですね)
心のどこかでそう思ってしまった自分に、
エリシアは気づいていないふりをした。
帝国を離れる。アレクシスから、距離ができる。それを仕事として整理しようとすると、なぜか、胸が静かに痛んだ。
(……違う)
内心で首を振る。
これは逃げではない。距離を取るためでもない。ただの、仕事だ。
「いつ出立しますか」
ロザリーの問いに、エリシアは即答する。
「準備が整い次第」
ロザリーは、それ以上何も言わなかった。
数日後。
レグナールの港町は、帝国とは違う匂いがした。潮の香り。石畳に染みついた油。人の声が、少しだけ低いエリシアは、宿舎へ向かう馬車の中で、窓の外を眺めていた。
(……静かですね)
帝国王都のような緊張はない。だが、緩んでいるわけでもない。判断し整えることが必要な場所だ。それが、すぐに分かった。
最初の打ち合わせは、港湾管理局の応接室で行われた。
「こちらが、今回の再編責任者です」
紹介されたのは、落ち着いた物腰の女性だった。なぜか、厳しかった祖母を思い出させる。
年齢は、エリシアよりかなり上。
だが、視線は鋭く、姿勢に無駄がない。
「ようこそ、レグナールへ」
穏やかな声。
「私は、この港湾再編を預かっております」
名乗りは、ない。肩書きも、最小限。
それが逆に、この人物が“表に出る必要のない立場”であることを示していた。
(……やりづらい)
そう感じる。
だが同時に、奇妙な安心感もあった。
「マルセワ商会から来ました、エリシアです」
名を告げる。
その瞬間――相手の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。だが、すぐに戻る。
「噂は聞いています」
微笑む。
「判断が速く、線を越えない方だと」
その評価に、エリシアは、わずかに息を詰めた。
(……過大評価です)
そう言おうとして、やめる。
否定は、仕事を遅らせる。
「では、早速本題に入りましょう」
資料を開く。
港の流れ。
判断権限。
滞留の原因。
話は、驚くほどスムーズに進んだ。
相手は、押さない。だが、引きもしない。
必要なところでだけ、確認が入る。
「ここは、あなたの判断でいい」
「ここは、私が引き取る」
線引きが、明確だった。
(……やりやすい)
思わず、そう思ってしまう。
打ち合わせの合間。窓際で、エリシアはふと口にした。
「……失礼ですが」
「はい」
「以前、帝国でお会いしたことは?」
相手は、少しだけ首を傾げる。
「いいえ。少なくとも、表では」
その言い方が、引っかかる。
だが――踏み込まない。
今は、仕事だ。
「そうですか」
エリシアは、それ以上聞かなかった。
その夜。宿舎の部屋で、エリシアは一人、灯りを落とした。今日の判断は、正しかった。成果も、見えている。
それなのに。
(……おかしい)
胸の奥に、言葉にならない感覚が残っている。
この場所は、安全だ。評価も、立場も、揺らがない。
だが――
(……ここで、何かが決まってしまう)
そんな予感だけが、静かに胸に沈んでいた。エリシアは、まだ知らない。
今日会ったその女性が、自分の叔母であることを。
そして――この仕事が、「距離を取るための選択」ではなく、戻れなくなるための一歩であることを。
彼女は、まだ覚悟を決めていない。
だが、覚悟が追いつく前に、世界の方が先に、配置を終えようとしていた。
第三国レグナール。港湾再編に伴う実務調整。現地常駐責任者の補佐――公爵夫人。成り上がったと噂にある人物。
内容は、よくあるものだ。むしろ、彼女の得意分野だった。
「……条件は、問題ありません」
ロザリーが差し出した資料に目を走らせながら言う。
「現地の受け入れ体制も整っている」
「裁量も、十分に確保されている」
淡々とした声。
そこに迷いはない。だが――
(……少し、遠いですね)
心のどこかでそう思ってしまった自分に、
エリシアは気づいていないふりをした。
帝国を離れる。アレクシスから、距離ができる。それを仕事として整理しようとすると、なぜか、胸が静かに痛んだ。
(……違う)
内心で首を振る。
これは逃げではない。距離を取るためでもない。ただの、仕事だ。
「いつ出立しますか」
ロザリーの問いに、エリシアは即答する。
「準備が整い次第」
ロザリーは、それ以上何も言わなかった。
数日後。
レグナールの港町は、帝国とは違う匂いがした。潮の香り。石畳に染みついた油。人の声が、少しだけ低いエリシアは、宿舎へ向かう馬車の中で、窓の外を眺めていた。
(……静かですね)
帝国王都のような緊張はない。だが、緩んでいるわけでもない。判断し整えることが必要な場所だ。それが、すぐに分かった。
最初の打ち合わせは、港湾管理局の応接室で行われた。
「こちらが、今回の再編責任者です」
紹介されたのは、落ち着いた物腰の女性だった。なぜか、厳しかった祖母を思い出させる。
年齢は、エリシアよりかなり上。
だが、視線は鋭く、姿勢に無駄がない。
「ようこそ、レグナールへ」
穏やかな声。
「私は、この港湾再編を預かっております」
名乗りは、ない。肩書きも、最小限。
それが逆に、この人物が“表に出る必要のない立場”であることを示していた。
(……やりづらい)
そう感じる。
だが同時に、奇妙な安心感もあった。
「マルセワ商会から来ました、エリシアです」
名を告げる。
その瞬間――相手の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。だが、すぐに戻る。
「噂は聞いています」
微笑む。
「判断が速く、線を越えない方だと」
その評価に、エリシアは、わずかに息を詰めた。
(……過大評価です)
そう言おうとして、やめる。
否定は、仕事を遅らせる。
「では、早速本題に入りましょう」
資料を開く。
港の流れ。
判断権限。
滞留の原因。
話は、驚くほどスムーズに進んだ。
相手は、押さない。だが、引きもしない。
必要なところでだけ、確認が入る。
「ここは、あなたの判断でいい」
「ここは、私が引き取る」
線引きが、明確だった。
(……やりやすい)
思わず、そう思ってしまう。
打ち合わせの合間。窓際で、エリシアはふと口にした。
「……失礼ですが」
「はい」
「以前、帝国でお会いしたことは?」
相手は、少しだけ首を傾げる。
「いいえ。少なくとも、表では」
その言い方が、引っかかる。
だが――踏み込まない。
今は、仕事だ。
「そうですか」
エリシアは、それ以上聞かなかった。
その夜。宿舎の部屋で、エリシアは一人、灯りを落とした。今日の判断は、正しかった。成果も、見えている。
それなのに。
(……おかしい)
胸の奥に、言葉にならない感覚が残っている。
この場所は、安全だ。評価も、立場も、揺らがない。
だが――
(……ここで、何かが決まってしまう)
そんな予感だけが、静かに胸に沈んでいた。エリシアは、まだ知らない。
今日会ったその女性が、自分の叔母であることを。
そして――この仕事が、「距離を取るための選択」ではなく、戻れなくなるための一歩であることを。
彼女は、まだ覚悟を決めていない。
だが、覚悟が追いつく前に、世界の方が先に、配置を終えようとしていた。
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