【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ

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第40話 名を明かすべきか

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夜の執務室は、港よりも静かだった。

分厚い石壁に囲まれた部屋は、昼間の喧騒を完全に遮断している。
高い天井から下がる灯りは抑えられ、机の上だけを淡く照らしていた。
羽ペンは定位置に戻され、封蝋も冷え切っている。革張りの椅子には、長時間座っていた痕跡だけが残り、空気には、乾いた紙と海の塩気がわずかに混じっていた。

窓の外では、潮の音が低く続いている。
規則正しく、感情を持たない音。

書類はすべて片付いていた。今日下した判断に、未処理はない。
迷いも、抜けも、制度上の瑕疵もない。

それでも――エリーゼ・フォン・レグナール=ヴァルツェンは、席を立てずにいた。

机の上。最後に残された一枚の名簿。

マルセワ商会
調整責任者補佐
――エリシア

その名を、指先でなぞる。

(……名を呼べば、終わる)

それは、確認ではない。告白でも、和解でもない。

配置が変わる。

彼女が積み上げてきた立場。自分が与えた「戻れる席」。商会と帝国、そして第三国の微妙な均衡。

すべてが、「血縁」という一語で、意味を変える。

(守れるようになる、というわけではない)

むしろ逆だ。

名を明かせば、彼女は“守られる側”に押し戻される。

それは――あの子が、最も嫌う位置だ。エリーゼは、静かに目を閉じる。

王国にいた頃の記憶が、意図せず浮かび上がる。

冷たい廊下。
石張りの床。
祖母の、容赦のない声。

叱責が始まるたび、自分はいつも、半歩だけ前に出た。庇ったつもりは、なかった。
盾になる気も、なかった。

ただ、「折れない位置」を作りたかっただけだ。

――そして。

去り際に、小さな手が、ドレスの裾を握りしめていた感触。

振り返れば、そこにいたのは、無表情の子どもだった。

泣かない。
縋らない。
ただ、離れない。

母にも顧みられず。
父にも顧みられず。
あるのは、叱責と期待だけ。

(……私が、離れた)

その事実だけが、今も胸の奥に残っている。

(……あの子は)

もう、立てる。

立っている。誰の名も借りず、誰の庇護も掲げず。

だからこそ――今、名を明かすことは、

(……私が、邪魔になる)

公爵夫人は、静かに椅子から立ち上がった。

窓辺に寄り、
港の灯りを見下ろす。

人も、物も、絶えず流れている。止めることは、できない。止めてはいけない。

(私ができるのは)

支えることでもない。導くことでもない。

壊さないことだ。

名を明かさず。関係を変えず。それでも、席だけは残す。

それは、最も臆病で、最も責任の重い判断。

エリーゼは、ゆっくりと息を吐いた。

(……まだだ)

今ではない。

彼女が、自分の言葉で立ち、
自分の判断で戻ると決めるまで。

その時が来たなら――名を呼ばなくても、伝わる。

そして、もし。

もしもその時が、最後まで来なかったとしても。

(それでも、構わない)

守るとは、名を名乗ることではない。

選択肢を奪わないことだ。

公爵夫人は、名簿を閉じた。

机の上に残ったのは、署名のない一行と、
呼ばれなかった名前だけ。

その夜、エリーゼ・ヴァンローズは、
再び“名を名乗らない”という判断を選んだ。

かつてと同じように。

半歩、後ろに立つために。







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