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第51話 ――名を出すのは、一度きり
しおりを挟む公爵夫人エリーゼ視点
その場は、想定よりも静かだった。
第三国レグナール港湾管理局・臨時評議会。帝国、第三国、中立商港の代表が揃う、形式だけは整った会合。だが空気は、すでに歪んでいる。
議題は表向き、「再編第二段階における意思決定プロセスの妥当性」。
――つまり。エリシア・マルセワを、切れるかどうかの確認だ。誰も彼女を非難しない。誰も功績を否定しない。ただ、言葉が積み重ねられる。
「判断が一点に集中している」
「補佐官配置の意義が十分に機能していないのでは」
「個人の裁量が大きすぎる構造は、長期的に――」
“心配”という名の刃。エリーゼは、発言を求められていなかった。それでいい。この場で名を出すのは、議論の途中では意味がない。結論が「彼女の正当性を削る方向」に傾いた、その瞬間でなければ。
そして――来た。
「では」帝国側の代表が、穏やかに言う。
「本件については、調整役の配置見直しを含め、責任の再分配を検討する、ということで」
それは、処刑宣告ではない。だが、退路を奪う決定だった。その瞬間。エリーゼは、椅子から立ち上がった。動作は静かで、音もない。だが、会議室の空気が一斉に引き締まる。
「一点、訂正を」
その声は、低く、落ち着いていた。全員の視線が集まる。
「その判断は、“一調整役の独断”を前提にしています」
帝国代表が、慎重に応じる。
「事実では?」
エリーゼは、首を振らない。代わりに、はっきりと言った。
「いいえ」
一拍。
「エリシア・マルセワの判断は、私の責任の下にあります」
空気が、凍る。誰かが、息を呑む音。
「――失礼ですが」
帝国代表が言葉を選ぶ。
「公爵夫人、それは、どういう意味で?」
エリーゼは、初めて名を置いた。
「私の旧名は、エリーゼ・ヴァンローズ」
ざわめきが走る。アルトリア王国。追放。
冤罪。消された公爵家の次女。知っている者ほど、黙る名だ。
「エリシアは」
エリーゼは、視線を逸らさない。
「私が、王国にいた頃から見てきた子です」
“血縁”とは言わない。“娘”とも言わない。
だが、それで十分だった。
「彼女の判断は、偶発でも、感情でもない」
一歩、前に出る。
「切るなら、彼女ではなく、私を切りなさい」
会議室が、完全に沈黙する。
「彼女の正当性を疑うということは、私の判断を疑うということです」
淡々と、だが逃げ道を塞ぐ。
「そしてそれは、第三国レグナールの港湾再編そのものを疑うという意味になる」
誰も、すぐには答えられない。エリーゼは、そこで初めて一歩引いた。
「以上です」
それだけ。説明もしない。情も乗せない。
名は、もう置いた。これ以上は、不要だ。
その後、決定は覆らなかった。
だが――変わった。
・配置見直し案は、撤回された
・責任分配の文言は、削除された
・議事録には、こう残った
「当該判断は、第三国側責任者の承認を伴うものと確認」
誰も、勝ったとは言わない。
誰も、負けたとも言えない。
ただ一つだけ確かなのは――
エリーゼ・ヴァンローズという名が、
この場で一度だけ、正式に置かれたという事実。
そしてそれは、もう二度と引き下げられない。
その夜。
エリーゼは、一人、窓辺に立つ。名は出した。一度だけ。もう、戻れない。だが、後悔はなかった。
(……あなたは、姪でいいと言った)
「それでも」
小さく、呟く。
「奪わせないのは、私の役目よ」
母を名乗るかどうかは、まだ先でいい。
だが――盾になる名は、もう置いた。
それで十分だった。
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