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十
しおりを挟む王太子と、日光浴
屋敷の奥庭に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。それは結界のように張りつめたものではない。むしろ、逆だった。
湿り気を帯びた風。
土の匂い。
深く、安定した生命の気配。
庭そのものが、呼吸している。
その中心に、少女がいた。
――オリビア・ヴェルトリナス・ハーベルト。
淡い色のドレスを纏い、浮遊した丸いベッドのようなものに身を預けている。姿勢はだらしないほど緩やかで、背中は完全に預けられ、片脚は無造作に伸ばされていた。日光浴、という言葉がこれほど似合う姿もない。
だが、その無防備さは錯覚だった。
白磁のような肌。
陽を受けて淡く輝く金髪。
閉じかけの瞳でさえ、瞬き一つで空気の質を変えるほど澄んでいる。
何より――彼女は、守られている。
否。
中心にいる。
オリビアを囲むように、木々が生い茂っていた。
不自然なほど近い距離。
それでいて、絡み合わない。
太い幹は背後に立ち、盾のように影を落とす。細い枝は天蓋となり、日差しを細かく砕く。葉は、彼女の呼吸に合わせるように、わずかに震えていた。
――ざわり。
王太子一行が一歩進んだ、その瞬間。庭の木々が、一斉に動いた。枝がしなる。葉が裏返り、風の向きが変わる。地中で根が軋む音が、確かに伝わってくる。
威嚇ではない。
攻撃でもない。
ただの、意思表示。ここから先は、許さない。王太子は、自然と足を止めた。背後で、文官ルドヴィクが眼鏡を押さえる。
「……成長速度が異常です」
「樹齢が揃っていないのに、根の張り方が同調している」
武官カイは剣に手をかけるが、抜かない。
抜けない。ここで刃を向ければ、敵意ではなく“拒絶”に包まれる。本能が、それを理解していた。その中心で。
オリビアが、ゆっくりと目を開けた。まぶたが上がるだけで、空気が一段澄む。
「……あら」
眠たげで、柔らかな声。
「立ち止まってくれて、助かりました」
「この子たち、急に驚かすと拗ねるので」
彼女が指先で、すぐ横の幹に軽く触れる。
――とん。
その瞬間、幹が微かに震え、枝葉がさらさらと音を立てて揺れた。触れられたことを、喜ぶように。王太子は、息を吸った。
これは祈りではない。
祝詞も、儀式もない。
ただ、共に在るだけ。
「……君が、オリビアだな」
名を呼ばれ、彼女はクッションに身を預けたまま首を傾ける。
「そうですけど、御用ですか?」
その視線は、王太子だけを見ていない。庭全体を、人と自然を分けずに捉えている。
「ここ、私の庭なんです。勝手に踏み込まれると、嫌がるので」
――ざわり。
言葉に応じるように、二人の間の地面から、若い枝がすっと伸びた。
数十センチ。
だが、それで十分だった。
文官ルドヴィクが低く呟く。
「……殿下。これは守護ではありません。完全な同調です」
王太子は、しばらく庭を見ていた。
枝の揺れ。
葉の擦れる音。
土の匂い。
それらすべてが、オリビアの呼吸と微妙に合っている。理解した瞬間。彼の口元が、わずかに緩んだ。
「……はは」
抑えた、小さな笑い。だがそれは失笑でも皮肉でもない。純粋な、興味。
側近たちが息を呑む。この笑い方を、彼らは見たことがなかった。
「素晴らしいな」
王太子は、はっきりと言った。目が、完全に輝いている。
「これは聖女でも、魔術師でもない。神殿の管理対象でもない」
一歩も踏み込まず、身を乗り出す。
「君は――現象だ」
文官が慌てる。
「で、殿下……その言い方は――」
「分かっている」
王太子は楽しそうに笑った。
「だからこそ、だ」
庭を見る。
木々が、その笑いに反応するように葉を揺らした。
「これは面白い」
「実に、面白い」
完全に、研究者の目だった。武官カイが小さく呟く。
「……殿下が、こんな顔をされるのは久しぶりです」
「安心してくれ」
王太子はオリビアを見る。
「今日は捕まえに来たわけじゃない。捕まえられる気もしないが」
にやり、と笑う。
私はクッションの上で寝返りを打つ。
「それはどうも。連れ去られるの、嫌いなので」
「だろうな」
王太子は、堪えきれずに声を立てて笑った。
「ははは!」
その瞬間、庭の空気が軽くなる。枝が少し下がり、葉が陽を通す。
――歓迎。
王太子は見逃さない。
「……は」
心底楽しそうに息を吐く。
「好かれた、らしい」
「多分、敵意がないって分かっただけです。この子たち、正直なんで」
「君もだろう?」
即答だった。私は、くすりと笑う。
「さぁ?」
王太子は満足そうに頷いた。
「いい。実に、いい」
そして、はっきり告げる。
「守られているのではないな」
一歩も踏み込まず、境界の外で。
「君は――大地に、直接影響を与えているようだ」
その言葉に応じるように、芝がわずかに色を濃くする。幹が、きしりと鳴る。否定ではない。肯定だ。
「寝てるだけなんですけどね。この子たちが、勝手に元気になるだけで」
「それが一番厄介だ」
王太子は苦笑する。
「君は王家にとって、脅威ではない。未知だ」
木々が、ざわりと肯定した。王太子は、深く頭を下げた。礼として。好奇心として。
未来への期待として。
「理解しようとするなら」
私は目を閉じたまま言う。
「歓迎します」
葉擦れの音が、やさしく重なる。この場の主が誰なのかを、はっきり示すように。王太子は確信した。
この少女は、奪えない。
閉じ込められない。
命令できない。
近づくなら――理解するしかない。
そして木々は、その判断を、何度も葉を揺らして肯定していた。
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