逆転の花嫁はヤンデレ王子に愛されすぎて困っています

蜂蜜あやね

文字の大きさ
13 / 28

12

しおりを挟む
「起きた? よく寝てたね……」
 まぶたを開けると、そこは見知らぬ天蓋付きの寝台の上だった。
 豪奢な調度品、織りの細かいカーテン、そして朝の光が静かに差し込む広い窓。
 一見して、リリーの自室よりもはるかに豪華な部屋だと分かる。
 酔いが抜けきっていない頭で、リリーはぼんやりと辺りを見回した。
「……ここ、どこ?」
「城の客室だよ」
 低い声が返る。
 視線を向けると、少しだけラフな服装のアシュレイが椅子に腰掛け、ベッドの中の彼女を見つめていた。
 いつもの礼装ではなく、シャツの袖をまくっただけの姿。
 そのくだけた雰囲気が、かえって親密さを際立たせていた。
 急にどうしていいのか分からなくなり、リリーは顔を赤くして視線をそらす。
「わ、私……なんで……?」
 昨日の夜の記憶は曖昧で、馬車に乗ったあとの出来事が霞のように思い出せない。
「連れてきたんだよ。僕が」
 アシュレイはそう言って、静かに微笑んだ。
「もう君に逃げられたくないから」
 その言葉に、リリーの胸がひくりと震える。
 ――以前、執務室から逃げ出したあの日のことを指しているのだろう。
 アシュレイは、今度こそ彼女を逃がすつもりはないという目をしていた。
「あ、クラウド公爵家には連絡してあるから。心配しなくていい」
「……連絡?」
「うん。“リリーは僕のところに泊まる”って伝えておいたから」
 さらりと告げられた言葉に、リリーの心臓が大きく跳ねた。
 年頃の貴族令嬢が、家以外で一夜を過ごす――それが何を意味するのか、アシュレイが知らないはずがない。
 貴族社会では、婚約者以外と夜を共にすることは暗黙の禁忌。
 たとえ何もなかったとしても、“そう見られる”だけで十分な噂になる。
 セイランでは婚前の交わりそのものを罪とはしない。
 だが、それはきちんと“そういう関係”である場合――婚約者、あるいは恋人同士である時だけだ。
「あ、そういえば――」
 アシュレイが何気ない口調で続けた。
「フェリクス侯爵家との縁談は、僕が断っておいたから」
「……は?」
 リリーの頭が一瞬真っ白になる。
 聞き間違いかと思った。
「ま、待って、それって……私の話を勝手に――!」
「君が望んでいない縁談だろう?」
 当然のように返すその声が、あまりにも自然で、逆に恐ろしかった。
 彼は昔のように笑っているのに、その奥にあるものは全く違う。
 あの優しい少年は、もうどこにもいなかった。
 リリーは掛け布団を胸元まで引き上げ、息を整えた。
 どう言葉を返せばいいのか分からない。
 アシュレイの瞳は相変わらず穏やかで、それなのに逃げ場を与えない。
「アシュレイ、どういうつもりなの……?」
 そう言わずにはいられなかった。
 目の前にいる彼は、リリーが知っている“アシュレイ”ではなかった。
 守らなければと思っていた少年ではない。
 ――もう、彼の騎士は必要ない。
 そう宣告されたような気がして、胸の奥がざわつく。
 アシュレイは一歩、近づいた。
 その動きだけで、空気がわずかに揺れる。
 「リリー、僕が怖い? そんな顔をしてる」
 静かな問いかけだった。
 けれどその穏やかさが、かえって息苦しい。
 怖くない――そう言おうとしても、声にならなかった。
 あの頃、リリーの後ろを小走りでついてきた少年。
 笑えばすぐに照れて目を逸らした王子。
 その面影は、もうどこにもない。
 今のアシュレイは、後ろからリリーを包み込んで逃がさないようにする男の目をしていた。
 それが優しさなのか、支配なのか分からない。
「……怖くなんて、ないわ」
 かろうじてそう言ったリリーの唇は、乾いていた。
 息を吸うたびに、胸の奥がひどく痛む。
 彼女の中で、何かが静かにきしむ音がした。


「そう……リリー。僕、君に前に言ったよね。――“全部知ってる”って」
 その声には、怒りも嘲りもなかった。
 ただ、静かに真実を告げるような響きだけがあった。
 リリーの心臓がひときわ強く鳴る。
 “全部”――その言葉が、何よりも恐ろしい。
「君がシリウスでどうだったか、僕は知ってる。
 座学も、実技も……どれも平均に届かなくて。
 努力しても報われなくて、周りに追い抜かれていく君を」
 アシュレイの言葉が、まるで彼女の胸をなぞるように突き刺さる。
 リリーは思わず顔を背けた。
 誰にも見せたくなかった。
 完璧でいられない自分を、彼だけには絶対に知られたくなかった。
「……どうして、それを……」
 かすれた声で問うと、アシュレイは静かに答えた。
「君は気づいてなかったかもしれないけど――
 僕、何度かシリウスに行ってたんだ。視察という名目でね」
 彼は、わずかに苦笑した。
 「その時に見たんだ。
  君を……僕から離れて、僕を避けて、
  それでも必死に剣を振っていた君を」
 リリーの喉が、きゅっと締まる。
 あの孤独な日々を、誰かが見ていた。
 よりによって――彼が。
「やめて……そんなの、見られたくなかった」
 絞り出すような声で呟いた瞬間、
 アシュレイの手がそっと彼女の頬に触れた。
「でも、見たんだ。君の全部を。
 泣いて、傷ついて、それでも立ち上がろうとしてた君を。
 ――その姿が、僕にはたまらなく……」
「ひどい……!」
 リリーの声が震えた。
「ひどいよ! 何もできなくなった私を――遠くから見てたなんて!」
 胸の奥に押し込めていた感情が、一気に溢れ出す。
「惨めだった? 情けなかった? 私がどんな思いで……!」
 叫ぶように言葉を投げつけた。
 努力しても報われなかった。
 いくら剣を振っても、本を読んでも、追いつけなかった。
 それはまるで、手のひらからこぼれていく砂を必死に掴もうとするようだった。
 掴んでも掴んでも、零れていく。
 自分だけが置き去りにされていく。
 そのもがきの中にいた自分を――彼が、黙って見ていた?
 そんな屈辱があってたまるものか。
「なんで……なんで、見てたのよ!」
 リリーの瞳に、知らず涙が滲んだ。
 それでも視線は逸らせない。
 隠していたはずの“できない自分”を、
 見られていたという事実が、何よりも痛かった。
 あの頃、完璧でいようとしたのは、彼の隣に立つためだった。
 なのに今は――その完璧を失った姿を、彼に知られてしまった。
 もう、どんな顔をしていればいいのか分からない。
「違うよ、リリー……。惨めだなんて、一度も思ったことはない」
 静かに、けれど確かな声でアシュレイは言った。
「ただ――やっと、近づけたと思ったんだ」
 その意味が分からず、リリーは目を瞬かせた。
 近づいた? 誰が? どこに?
 問いを言葉にできずにいる彼女を見て、アシュレイは小さく笑う。
「……わからないって顔してるね。
 うん、僕だってもう、おかしくなってるのかもしれない」
 自嘲するように息を吐き、彼は続けた。
「君が僕を避けて、離れていった五年間で――僕は歪んでしまったんだと思う」
 苦しげに笑いながらも、その瞳だけはリリーを捉えて離さない。
 まるで彼女の涙の一粒さえも、見逃したくないとでも言うように。
 アシュレイはそっと手を伸ばし、
 涙の跡を指先でなぞった。
 その仕草は、驚くほど優しかった。
「“完璧”じゃない君が……愛しくて、たまらないんだよ」
 その声は、囁きにも似ていた。
 慰めでも、告白でもない。
 それは、崩れていく二人を繋ぎとめようとする、壊れた祈りのようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】 表情筋が死んでるあなたが私を溺愛する

紬あおい
恋愛
第一印象は、無口で無表情な石像。 そんなあなたが私に見せる姿は溺愛。 孤独な辺境伯と、一見何不自由なく暮らしてきた令嬢。 そんな二人の破茶滅茶な婚約から幸せになるまでのお話。 そして、孤独な辺境伯にそっと寄り添ってきたのは、小さな妖精だった。

シャロンはまたまた気づいていなかったジェリーが永遠の愛を誓っていたことに

はなまる
恋愛
 ついにふたりは結婚式を挙げて幸せな日々を過ごすことに、だがジェリーのついたほんの小さな嘘からシャロンはとんでもない勘違いをしてしまう。そこからまたふたりの中はおかしなことになっていく。神様はふたりの愛が本物かどうかを試すように何度も試練を与える。はたしてふたりの愛は成就するのか?  シャロンシリーズ第3弾。いよいよ完結!他のサイトに投稿していた話です。外国現代。もちろん空想のお話です。 申し訳ありません。話の1と2が逆になっていますごめんなさい。

男嫌いな王女と、帰ってきた筆頭魔術師様の『執着的指導』 ~魔道具は大人の玩具じゃありません~

花虎
恋愛
魔術大国カリューノスの現国王の末っ子である第一王女エレノアは、その見た目から妖精姫と呼ばれ、可愛がられていた。  だが、10歳の頃男の家庭教師に誘拐されかけたことをきっかけに大人の男嫌いとなってしまう。そんなエレノアの遊び相手として送り込まれた美少女がいた。……けれどその正体は、兄王子の親友だった。  エレノアは彼を気に入り、嫌がるのもかまわずいたずらまがいにちょっかいをかけていた。けれど、いつの間にか彼はエレノアの前から去り、エレノアも誘拐の恐ろしい記憶を封印すると共に少年を忘れていく。  そんなエレノアの前に、可愛がっていた男の子が八年越しに大人になって再び現れた。 「やっと、あなたに復讐できる」 歪んだ復讐心と執着で魔道具を使ってエレノアに快楽責めを仕掛けてくる美形の宮廷魔術師リアン。  彼の真意は一体どこにあるのか……わからないままエレノアは彼に惹かれていく。 過去の出来事で男嫌いとなり引きこもりになってしまった王女(18)×王女に執着するヤンデレ天才宮廷魔術師(21)のラブコメです。 ※ムーンライトノベルにも掲載しております。

【完結】 初恋を終わらせたら、何故か攫われて溺愛されました

紬あおい
恋愛
姉の恋人に片思いをして10年目。 突然の婚約発表で、自分だけが知らなかった事実を突き付けられたサラーシュ。 悲しむ間もなく攫われて、溺愛されるお話。

婚約解消されたら隣にいた男に攫われて、強請るまで抱かれたんですけど?〜暴君の暴君が暴君過ぎた話〜

紬あおい
恋愛
婚約解消された瞬間「俺が貰う」と連れ去られ、もっとしてと強請るまで抱き潰されたお話。 連れ去った強引な男は、実は一途で高貴な人だった。

龍の腕に咲く華

沙夜
恋愛
どうして私ばかり、いつも変な人に絡まれるんだろう。 そんな毎日から抜け出したくて貼った、たった一枚のタトゥーシール。それが、本物の獣を呼び寄せてしまった。 彼の名前は、檜山湊。極道の若頭。 恐怖から始まったのは、200万円の借金のカタとして課せられた「添い寝」という奇妙な契約。 支配的なのに、時折見せる不器用な優しさ。恐怖と安らぎの間で揺れ動く心。これはただの気まぐれか、それとも――。 一度は逃げ出したはずの豪華な鳥籠へ、なぜ私は再び戻ろうとするのか。 偽りの強さを捨てた少女が、自らの意志で愛に生きる覚悟を決めるまでの、危険で甘いラブストーリー。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

旦那様が素敵すぎて困ります

秋風からこ
恋愛
私には重大な秘密があります。実は…大学一のイケメンが旦那様なのです! ドジで間抜けな奥様×クールでイケメン、だけどヤキモチ妬きな旦那様のいちゃラブストーリー。

処理中です...