愛しい口づけを

蒼あかり

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サイモンがこの家で共に暮らすようになって、少しずつフローラの表情も柔らかくなってきた。どこか線を引くような、一歩下がったような状態で暮らしていた彼女の態度も、少しずつ変わってきたように見える。
それでも、主人と使用人という関係には変わりない。
たとえ許されると、許されたのだと言われても、二人は見えない境界線を越えることはない。
それが、それこそが二人に課せられた贖罪だとでもいうように。

体力の衰えを感じ始めた元辺境伯に代わり、サイモンが領地の子供たちに剣術を教えるようになった。
フローラが教会で読み書きを教えに行くときには、サイモンが護衛として付き添う。
人前で二人が並び歩くことはない。いつもフローラの一歩後ろを守るように歩くサイモンの姿がある。
恋人たちや夫婦のように肩を並べ歩き、言葉を交わし笑顔を零すことはしない。
町の人たちも口にはしないが、皆何があったかを知っている。知っていて、そんな二人を見守り続けてくれていた。


四人での生活。
時季が来ると、裏山に多く自生する四季折々の木の実や、自然の恵みを四人で摘みに行く。
そんな風に人目が無い時は少しだけ、二人は肩を触れ合わせ、言葉を交わし、わずかばかりの笑みをこぼすのだった。
そんな二人を見て、元辺境伯たちは優しく笑みながら、そっとその場から離れるのだった。

そんな穏やかな日々が過ぎていく。

たとえ、陽の下で手をつなぐことが出来なくても、笑いあうことができずとも、この優しく温かい日々が続いてくれることを心から願っていた。

それなのに、人生は時を止めることをやめてはくれない。

人間の体は老いにはかなわない。どんなに強く願っても、傷が治るように老いが止まることはない。


アンリ未亡人が少しずつ寝台にいる時間が増えていく。それを心配するように元辺境伯がその枕もとから離れることもなくなっていく。
体調がいい時は、サイモンが抱き上げ庭で日向ぼっこをする。

「私が若ければ、こんな役得をお前に譲ることはないのに」

と、苦笑いをする元伯爵に

「私の手を取るのは、旦那様だけの特権です」

やさしく微笑むアンリ未亡人の言葉に、頷き手を握りしめる二人がいた。


サイモンが来て、何度目の季節を巡った時だろう。少し、肌寒くなり始めた頃。
また、みんなで胡桃を取りに行こう。アンリ未亡人の胡桃のケーキを食べたいと話していた頃。

元辺境伯に手を取られ、フローラとサイモンが見守る中、アンリ未亡人は息を引き取った。
穏やかな、まるで眠るかのような顔であった。


アンリ未亡人は、領地の墓地に埋葬された。
夫を亡くし、子供を育て上げた夫人は終に再婚をすることはなかったが、誰もが知っていた。
元辺境伯と想い合い、大切にしていることを。それを愛と呼ぶのかは誰にもわからない。
それでも、お互いが唯一の存在だったと皆が理解していた。

アンリ未亡人亡き後、元伯爵は無理をして笑顔を作ることもあったが、それでも人の目がなくなると、どこか遠くを見るような仕草をするようになる。
家の窓から見える景色に、街並みに、二人で使った物にまで、彼女の影を見ていたのかもしれない。


「手が届かなくなってから後悔しても遅すぎる。一緒に過ごせる日々も、若さも無限ではない。お前たちは、後悔しない人生を生きろ。もう罪は十分償っただろう」

アンリ未亡人が亡くなってから、元伯爵はしきりに二人に語り掛ける。

サイモンが戻り十分な時間を過ごしてもなお、二人は罪を感じ続け、愛を確かめあっていないことを知っているのだろう。


大好きな人の死を前に、二人も心を決め始めたのに。

それなのに……




冬の訪れを感じ、温かい家で過ごす日々の準備も終わり始めた頃。

元辺境伯は、流行り病であっけなく逝ってしまった。まるでアンリ未亡人の後を追うように。

息子たち家族を呼び、顔を合わせた時にはすでに意識はなかった。
それでも穏やかな、ほほ笑んだような顔をした最後であった。

「父さんのこんな穏やかな顔は、アンリ未亡人とフローラ殿のおかげなのだろうな」

そんな言葉をかけられ、フローラは言葉なく泣きくずれるしかなかった。

最後まで真の夫婦になることはなかった。それでも、情は通い合っていたと思っている。
愛情もあったと知っている。それが恋のような思いではなく、家族のような情愛であったとしても。

元辺境伯は領地の墓地、領主が代々埋葬される位置に眠っている。
少し高台になるその場所からは、領地が一望でき、亡き後もずっと見守り続けているようだ。
そばには花が咲きほこり、人々が集まる木の実をつける木々が植わる。
そんな場所で眠る二人を、領地の皆は折に触れ足を運び、手を合わせるようになる。


元辺境伯の葬儀の後、息子エリクがフローラの元を訪ねてくる。

元辺境伯亡き後、この家にいることはできないと知っている。

フローラの荷物などそれほど多くはない。すぐにでもこの家を出る準備を始めるつもりでいた。その時にはサイモンにも声をかけ、許しをもらい二人で出ていくつもりでいた。

「フローラ殿、いや、義母さんと呼ぶべきですね。今まで、義母さんと呼ばなかったことを許してください。さすがに、自分よりもずいぶん若い令嬢を義母とは、申し訳なくて呼べませんでした」

ははは。と頭を掻きながら話始める姿を見て、フローラもサイモンも顔を見合わせて驚いた。

「父やアンリ未亡人の最後を看取っていただいたことは息子としても、家族も皆心から感謝しています。あなた達と暮らし始めて、随分と父は変わりましたから。
私が子供の頃や若い時には考えられないほど笑うようになっていた。
父の人生の中で、たぶん一番幸せな時だったのかもしれない。
その幸せを、実の息子である私たちが与えてやれなかったことは、少しばかり悔しくは思いますがね。
戦に明け暮れ、血を見ない生活など考えられなかった父が、こんな穏やかで笑いのある晩年を過ごすなど、たぶん誰も想像すらしなかったと思いますよ」

エリクは目の前に出された紅茶とクルミのケーキを口にすると、

「これ、これ! アンリ未亡人の味をしっかり受け継いでいますね。これは旨い」

そう言うと、ペロリと平らげた。

「父はこの家を、あなたの名義にしてあります。
それに、あなたが嫁いでくる時に持ってきた持参金は、そのまま手つかずで保管してあります。この家とその金があれば、贅沢でもしない限りあなた達二人で暮らすには十分でしょう。
今までの様子を見る限り、散財するようなことはしないでしょうからね。
あなた達はまだ若い。父たちのようになるには、まだまだ十分な時間がある。
あなた達がこの町にどれだけ尽くして来たかは、皆が良くわかっています。
もう、十分でしょう。この町の者は皆、あなた達が夫婦であると認めています。
この町であなた達をとやかく言う人間は一人もいない。
どうか、自分たちを許し、幸せになってください。それを父も心から望んでいます」

温かく微笑むその顔に、フローラは声を殺して泣き崩れた。
それをサイモンが横から肩を抱き、支えるように抱きしめる。


「ありがとうございます。私ももう、気持ちを偽ることをやめようと思います。

これからは元辺境伯に代わり、私が彼女を支え、愛し抜くと約束します」

「よかった。それでこそ、父が認めた男です。僕もあなたになら義母さんを安心して任せられる」

そう言って、二人は堅い握手を結んだ。


こんな風に幸せが訪れるとは思ってもいなかった。
一度は諦めた物が再び手の中に戻り花開く。今度は握ってもつぶれることもなく、枯れることもない。
やっと掴んだ幸せの花を。二人は愛おしく大切に育てようと誓い合った。

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