魔法使いの漂流者

三幸奨励

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絶海孤島編

第14話 それぞれの朝

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朝、拠点が変わっていた。

正確には、数日前から少しずつ変わっていたのだが、今日はっきりそう感じた。

起き上がると、すでに外が騒がしい。

金属を叩く音。木材を組む音。案内人が「ゴブリン語で会話中」と言っている声。

外に出ると、ドナンが大きな岩の傍にしゃがんでいた。その隣に三匹のゴブリンが並んでいる。全員、ドナンの手元を食い入るように見ていた。

「おはようございます」

ドナンが顎でゴブリンたちを示した。

「こいつら、夜明け前から来た」

「早いですね」

「俺が起きたら、もういた」

ドナンはそれだけ言って、また手元の作業に戻った。

三匹のうち一匹が、ドナンの鑿の動きをじっと追っている。手先が小さくて器用そうだ。石の扱い方に迷いがない目をしている。

「君は……」と僕はその子に声をかけた。案内人を通じて。「名前はあるか」

案内人が伝える。

首を横に振った。

「じゃあ、グラッグ。どうだ」

案内人が伝える。

そのゴブリンが少し固まった。それから、胸を叩いた。

「……気に入ったか」

また叩いた。今度はもっと力強く。

「グラッグな」と僕は繰り返した。「よろしく」

隣の二匹も名前がなかった。ボルク、ズリム、と順番につけた。二匹とも、自分の名前をしばらく口の中で繰り返していた。

ドナンが振り返りもせずに言った。

「グラッグは筋がいい。石を見る目がある」

「分かるんですか」

「見れば分かる」

グラッグが誇らしそうに胸を張った。案内人が伝えていなかったのに、ドナンの声のトーンで何かを察したらしかった。

「ボルクとズリムは」

「まだ分からない」とドナンが言った。「見てる」

その「見てる」という一言が、ドナンなりの歓迎の言葉だと、最近分かってきた。



レイスは北側の岩壁に向かっていた。

設計図を手に、ゴブリンの四匹と何かを話し合っている。正確には、話し合おうとしている。言葉が通じないのに、レイスは手ぶりと図面で説明しようとしていた。

「案内人を貸しましょうか」と声をかけた。

「ありがとう。少し頼む」

案内人を通して、レイスが説明を始めた。

「ここに壁を立てる。素材は岩と木材を組み合わせる。ゴブリンの村で使っていた組み方があれば教えてほしい。我々の技術と合わせてより良いものができると思う」

案内人が伝える。

四匹のゴブリンが顔を見合わせた。その中の一匹が前に出た。背が低くて、でも目が鋭い。設計図を指差して何かを言った。

『「この柱の間隔、広すぎる。岩の重さに負ける」』

レイスが少し目を細めた。

「……どうして分かる」

案内人が伝える。

その子が答えた。

『「村の小屋を百年建て続けてきた。岩の重さは体で知っている」』

「なるほど」とレイスが、設計図を見直しながら言った。「ゴブリンの経験則は百年分か」

僕はその子を見た。目に芯がある。百年分の知恵を持っているという言葉が、大げさに聞こえなかった。

「君に名前をつけていいか」と案内人を通じて聞いた。

その子が少し首を傾けた。それから、頷いた。

「キズラ。この間隔を正しく見抜く目を持っているから」

案内人が伝える。

キズラがもう一度頷いた。今度は少し深く。

他の三匹にも順番に声をかけた。モルダ、ザギン、トルブ。名前をつけるたびに、それぞれが少しずつ違う反応をした。モルダはすぐに頷いた。ザギンは二度繰り返して確かめた。トルブは黙って、でも目が少し緩んだ。

「……賑やかになりましたね」と僕は言った。

「賑やかは良いことだ」とレイスが、珍しく少し笑顔になりながら言った。「知恵が集まるほど、良いものができる」



ファルは広場の端にいた。

一匹のゴブリンを前に立たせて、腕を組んで見ている。

そのゴブリンが棒を構えていた。人間の剣のような持ち方で、でも明らかにぎこちない。

「ガンズか」と僕は聞いた。

前日、剣の動きを観察していたその子に名前をつけていた。

「そうだ」とファルが、視線をガンズから離さずに言った。「昨日から毎朝来る」

「毎朝」

「夜明け前から待っていたこともある」

「熱心ですね」

「困る」とファルが言った。

でも、追い払っていない。それどころか、今こうして向き合っている。

「教えているんですか」

「見せているだけだ」とファルが言った。「教えていない」

「どう違うんですか」

「教えるのは、こちらが正解を渡すことだ。見せるのは、相手が自分で考える余地を残すことだ」

ファルが少し動いた。棒を持って、ゆっくりと構えを示す。

ガンズがじっと見ている。

ファルが棒を下ろした。

ガンズが自分で同じ動きを試みた。ぎこちないが、さっきよりは似ている。

ファルが何も言わなかった。

でも、少しだけ頷いた。

ガンズが目を輝かせた。それだけで十分らしかった。

「隣の二匹は」と僕は言った。少し離れた場所でガンズの動きを真似している二匹を指差した。

「昨日つけたか」とファルが聞いた。

「ドグロとバルチ。ガンズについてきたから」

「ガンズについてくる。教えていないのに来る」と、少し面倒くさそうに言った。

「それも困りますか」

ファルが少し間を置いた。

「……邪魔ではない」

それがファルの精一杯の歓迎だった。

昼過ぎ、また訓練の場を通りかかった。

ガンズが棒を構えている。今度はドグロとバルチも横に並んでいた。ファルが三匹の前に立って、また構えを見せた。

今度は少し違う動きだった。足の運び方を示している。

ガンズが真似した。

足が広すぎた。

ファルが棒の端でガンズの足をそっと押した。足の幅を直す。言葉はなかった。

ガンズが修正した。

ファルが少し顎を引いた。今度は正しい。

ドグロとバルチが同じように自分の足元を見た。二匹とも自分で気づいて直した。

ファルが三匹を順番に見た。それから、視線をガンズに固定した。

何かを言った。

「どういう意味ですか」と僕は案内人に聞いた。

案内人が伝える前に、ファルが自分で動いた。

構えから、一歩踏み込む。棒を前に突き出す。その一連の動作が、流れるように速かった。

全員が目で追えなかった。

ガンズが口を半開きにして立っていた。

ファルが元の位置に戻った。静かに言った。

「これが今日の目標だ。帰るまでに、一度だけ同じ速さで動けるようになれ」

案内人が伝える。

ガンズが棒を持ち直した。目が変わっていた。さっきまでの「見たい」という目ではなく、「やる」という目になっていた。

「ファルは教えるのが上手ですね」

「教えていない」とファルが、少し遠くを見ながら言った。「目標を見せているだけだ」

「それが教えることでは」

ファルが少し間を置いた。

「……そうかもしれない」と、珍しく少し困った顔で言った。

端で一匹が様子を見ていた。訓練には加わらず、じっと観察している。

「君は参加しないのか」と案内人を通して聞いた。

その子が少し考えてから答えた。

『「戦士にはなりたくない。でも、強い者たちを守る方法を知りたい。どこが弱点で、どこが攻撃を受けやすいか。それを知っていれば、仲間の傍にいられる」』

「補佐をしたいということか」

その子が頷いた。

「……ウルジ。守る者の目を持っているから」と、案内人を通じて伝えた。

ウルジが少し動きを止めた。それから、また頷いた。

「ファルに伝えていいか」

ウルジが頷いた。

案内人が伝える。

ファルが振り返った。ウルジを見た。少し目を細めた。

「……そういう奴が一人いると、全体が強くなる」と、低い声で言った。「隣に来い」

ウルジが静かに動いた。ファルの隣に立った。

「戦士の目線じゃなく、守る者の目線で見ろ。どこに隙ができるか、見えるようになる」

案内人が伝えると、ウルジが真剣な顔で頷いた。



昼になって、全員で食事をした。

今まで五人だったのが、拠点に来たゴブリン十五匹が加わって二十人になった。ゴブリンたちは人間の食事に興味があるらしく、最初はおずおずと近づいてきた。デルタが「遠慮するな」と言ったのか、今は普通に輪の中に混ざっている。

一番小さいゴブリンが隣に座ってきた。前日も、その前の日も、気づくと僕の隣にいた。

「ネグル」と声をかけた。昨日つけた名前だ。「今日も早かったな」

そのゴブリン——ネグルが、短く何かを言った。

『「早く起きれば、カルドの隣が空いている」』

「論理的だな」

ネグルが首を傾けた。何を言われたか分からないが、悪くない反応だと判断したらしく、また食事に戻った。

デルタが僕の向かいに座っていた。

「デルタ、今日の様子はどうだ」

案内人が伝える。

デルタがゆっくりと拠点を見回した。

『「思ったより良い」』

「思ったより?」

『「最初は不安だった。人間と共に暮らすのは、私たちには初めてのことだ。うまくいかないかもしれないと思っていた」』

「今は」

デルタが少し目を細めた。

『「職人の者たちが、ドナンのそばで朝から夜まで離れない。あれが答えだ」』

グラッグたちのことだ。

「ドナンも嫌がっていない」

『「人間は魔物を恐れると聞いていた。でも、あなたたちは違う」』

「みんなが特別なんだと思います。普通の人間は怖がるかもしれない」

デルタが静かに笑った。

『「それで良い。特別な者たちが集まれば、特別な場所になる」』

「うまいことを言いますね」

『「長く生きると、言葉が増える」』

「デルタはいくつなんですか」

案内人が伝える。

デルタが少し考えてから答えた。

『「数えていない。ただ、この島に生まれて、この島で育った」』

「この島の生まれか」

『「そうだ。デルタという名前は、父がつけてくれた。父も島生まれだ。どこから来たかは分からない。ずっとここにいる」』

シロも島生まれだと言っていた。

この島に生まれた者たちがいる。

「デルタ、一つ聞いていいか」

デルタが頷いた。

「この島に、何か古いものがあると思っているか。ダンジョンの石板のような、誰かが残したもの」

案内人が伝える。

デルタがしばらく黙った。食事の手を止めて、遠くを見ている。

『「ある」』

「やっぱり」

『「ゴブリンの間に伝わる話だ。昔々、この島には別の者たちがいた。人間でも魔物でもない者たちが。彼らは山の頂まで道を作り、そこで何かをしていた。でも、いつの間にかいなくなった」』

「いなくなった」

『「誰も知らない。ただ、彼らが残したものはある。洞窟の壁の文字。石の構造物。そして——」』

デルタが少し間を置いた。

『「東の声だ」』

「東の声」

『「私たちはそう呼んでいる。夜になると聞こえる気配のことだ。何かが、いつもこちらを見ている。悪いものではないが、正体が分からない」』

「いつから」

『「ずっと前から。私が生まれる前から、おそらく」』

デルタがまた遠くを見た。

『「ただ、最近変わった。以前より近い。以前より、はっきりしている」』

「僕もそれを感じている」

デルタがこちらを向いた。

『「お前たちが来てから変わった。ダンジョンをクリアしてから、特に」』

「繋がっているのかもしれない。石板には、試しに合格した者は上に還れ、と書いてあった」

案内人が伝える。

デルタが静かに目を閉じた。それから、開けた。

『「ならば、近いうちに何かが起きる。その準備をしておく方がいい」』

「どんな準備を」

『「仲間を増やすことだ。何が起きるかは分からない。でも、一人より二人、二人より百人の方が、どんな状況にも対応できる」』

「そのための仲間か」

デルタが少し笑った。

『「お前が最初から言っていたことだろう。強い者も弱い者も関係なく生きていける場所を作ると」』

「言いましたね」

『「私はそれを聞いて、仲間になった。言葉を、覚えているか」』

「忘れません」



午後、ドナンの作業場が本格的に動き始めた。

ゴーレムから回収した岩の欠片を素材に、グラッグとボルクとズリムが作業している。ドナンが指示を出しているわけではない。ドナンが手を動かして、三匹がそれを見て、自分なりに試す。そのサイクルが続いている。

「何を作っているんですか」と僕は聞いた。

ドナンが手を止めずに答えた。

「武器の原型だ。刃の形を試している」

グラッグが自分が削った石片を持ってきた。ドナンに見せる。

ドナンがそれを受け取って、重さを確かめ、形を見た。

「悪くない」と、短く言った。

グラッグが、目に見えて嬉しそうになった。でもすぐに真顔に戻って、また作業に戻った。

「グラッグ、職人らしくなってきましたね」

「もともとそういう奴だ」とドナンが言った。「素材を見る目が、最初から違った」

「どう違うんですか」

「触ったとき、何かを感じ取ろうとする。指先で素材の声を聞こうとする。そういう奴は育つ」

ボルクがドナンに何かを言った。案内人が伝える。

『「この形と、もっと細くした形、どちらが良いか」』

ドナンが少し考えた。それから、自分の手を見せた。親指と人差し指で細さを示す。

「これくらいだ」

ボルクが頷いて、また削り始めた。

ズリムは少し離れた場所で別のことをしていた。岩の欠片を並べて、何かのパターンを作っている。

「ズリムは何をしているんですか」

ドナンが見た。少し間を置いた。

「……模様だ」

「模様?」

「岩の色と質感の違いを使って、模様を作っている。鍛冶じゃない。装飾だ」

「向いていないということですか」

「向き不向きの話じゃない」とドナンが言った。少し声のトーンが変わった。「装飾ができる奴がいると、道具が美しくなる。美しい道具は、使う者の気持ちを上げる。それは価値だ」

ズリムが顔を上げた。何を言われたか分からないが、ドナンがこちらを見ていることに気づいた。

ドナンが短く頷いた。

ズリムが、はにかんだように鼻を鳴らした。

そこに二匹のゴブリンが新たに加わってきた。昨日まではレイスの建設班にいたが、今日はドナンの方に来た二匹だ。

「どうした」と案内人を通して聞いた。

一匹が何かを言った。

『「石を割るやり方が気になった。建設では石を積むだけだったが、ドナンは石を思い通りの形にしている。どうやるのか見たい」』

ドナンが振り返らずに言った。

「見るだけか、やるか」

案内人が伝える。

『「やる」』

「道具を持て」とドナンが言った。

その子が鑿を受け取った。握り方が分からない様子だった。

ドナンが自分の手を見せた。真似する。少しずれている。ドナンが無言でその手を動かして、正しい位置に直した。言葉はなかった。

「……そこだ」

鑿を握り直した。今度は正確だった。

「ラッゾ」と僕は言った。案内人を通じて。「石を割る意志があるから」

案内人が伝える。

その子が手の中の鑿を見た。それから頷いた。

もう一匹は別の場所で、グラッグが削った石片を手に取って眺めていた。何かを確かめるような顔をしている。

「君は」と僕は声をかけた。「何をしているんですか」

案内人が伝える。

その子が答えた。

『「村で、壊れた道具を直す仕事をしていた。直し方を考えるのが好きだ」』

「修理専門か」

『「そうだ。ただ、直せないものもあった。素材が足りないと、諦めるしかなかった」』

「ここなら素材がある」

その子が少し目を輝かせた。

「ギドク。直す方法を考え続けるから」

案内人が伝える。

ギドクが静かに場所を選んで座った。観察を始めた。グラッグたちの手元を、一つ一つ丁寧に目で追っている。

拠点に来た十五匹の中で、それぞれの居場所が少しずつできてきていた。



夕方になって、レイスの建設が形になってきた。

北側の岩壁に、新しい壁が立ち始めている。人間の建築様式とゴブリンの様式が混ざった、この場所にしかない形だ。

キズラが壁の接合部を指差しながら何かを言った。

案内人が伝える。

『「ここは人間の積み方の方が良い。でも、この角はゴブリンの積み方の方が強い」』

「なぜ分かるんですか」と僕は聞いた。

『「角から風が当たる。ゴブリンの積み方は、斜めの力に強い。人間の積み方は、真上の力に強い。それぞれの場所で使い分ける」』

「百年の経験則か」

キズラが少し誇らしそうに頷いた。

レイスが設計図に何かを書き加えながら言った。

「これを記録しておきたい。ゴブリンの建築様式を、我々の言葉で書き留める。後の世代に伝えられるように」

案内人が伝える。

キズラが少し静止した。それから、何かを言った。

『「我々は文字を持たない。口から口へ、体から体へ伝えてきた。記録に残す、というのはどういうことか」』

「消えないということです」とレイスが答えた。「あなたが死んでも、あなたの知恵が残る。百年後の者が読める」

案内人が伝える。

キズラが長い沈黙の後に言った。

『「……それは、良いことか」』

「私はそう思います」

キズラがまた少し黙った。それから、壁の方を向いた。

『「ならば、教える。全部教える。我々が百年かけて覚えたことを」』

レイスが静かに頷いた。

「ありがとうございます、キズラ」

モルダとザギンとトルブが、また設計図を覗き込んできた。キズラが何かを言うと、三匹が一斉に頷いた。全員が何かを言い始めた。

「案内人」

『解析中です』

しばらくして、一人一人の発言が順番に伝わってきた。



夜になった。

火を囲む人数が増えた。二十人の輪は、以前の五人のときとは全然違う賑やかさだった。

ガンズが棒を持って、夕食後も一人で素振りをしている。ドグロとバルチがその隣でまた真似をしている。ファルが遠くからそれを見ていた。何も言わなかったが、完全に目を離しもしなかった。

グラッグが今日作った石片をドナンに再び見せていた。ドナンが受け取って、何かを言った。グラッグが真剣な顔で頷いた。

ネグルが僕の隣に座ってきた。今日何度目かも分からない。

「ネグル、眠くないのか」

案内人が伝える。

『「眠い。でも、まだここにいたい」』

「なぜ」

少し考えてから答えた。

『「ここにいると、何かが起きそうな気がする」』

「何かとは」

『「分からない。でも、面白いことが。今日も、ドナンがグラッグを褒めた。レイスがキズラの話を一生懸命書き留めていた。ファルがガンズをこっそり見ていた。全部、面白かった」』

「観察が好きなんだな」

『「デルタに言われた。お前は目が良い、と」』

「どんな意味で」

『「よく見える目、ということだ。体は小さいが、見ることは誰にも負けない」』

「いい言葉だな」

ネグルが少し胸を張った。それから、また眠そうな目になった。

「寝ろ」

案内人が伝える。

ネグルが小さく何かを言って、火の近くに丸まった。すぐに寝息を立て始めた。

デルタが隣に来た。

「今日はどうだったか」と僕は聞いた。

デルタが少し考えてから答えた。

『「良かった。特にキズラが嬉しそうだった。あの子は長い間、自分たちの知恵を誰かに渡したかったのだと思う。受け取る者がいなかっただけで」』

「レイスは喜んで受け取っていた」

『「見ていた。ああいう表情をする人間は、信頼できる」』

「ドナンは」

デルタが少し笑った。

『「口は悪いが、グラッグたちへの目が優しい。ああいう者は、言葉より行動で示す。グラッグたちも分かっている」』

「ファルは」

『「ガンズがどうなるか、楽しみだ」』とデルタが言った。真顔で。

「ファルが楽しみにしているんですか、それともデルタが」

『「両方だ」』

しばらく、火の音だけが続いた。

「他に気になることはあったか」と僕は聞いた。

デルタが少し考えてから言った。

『「ベルガが泣いていた」』

「ベルガ?」

村に残った十五匹の一人だ。昨日、様子を見にデルタが村と拠点を往復していた。

『「拠点に来た者たちが羨ましかったらしい。でも、村を守る役目があるから来られないと分かっていた。それが悲しかったようだ」』

「デルタはどうしたんですか」

デルタが少し遠くを見た。

『「村に残ることも、大事な役目だと言った。拠点が大きくなれば、いつか村と拠点の間に道ができる。その道を守る者が必要だ。それはベルガにしかできない、と」』

「そうしたら」

『「少し、落ち着いた」』と、口元を少しだけ動かしながら言った。「泣き止むまで時間がかかったが」

「デルタは村の者も拠点の者も、両方見ているんですね」

『「リーダーとはそういうものだ。全員が向こうを向いているとき、一人だけ後ろを向いている者が必要だ」』

「疲れませんか」

デルタが少し目を細めた。

『「慣れた」』

短い言葉だったが、その中に長い時間が詰まっている気がした。

「ダグズはどうだ」と僕は聞いた。村に残った別の一匹だ。前日、村の入り口付近をうろうろしているのを見かけた。

デルタが軽く息を吐いた。

『「あれは落ち着きがない。何かあるとすぐ動く。でも、そのおかげで村の異変を一番早く見つける」』

「早期察知担当か」

『「買いかぶりだ。ただ、そわそわしているのと、鋭いのが偶然一致しているだけだ」』

デルタが少し笑った。誰かを愛おしく思っているような顔だった。

「デルタ、一つ教えてくれ」と僕は言った。

デルタが頷く。

「この島で生まれ育って、ずっとここにいる。外に出たいと思ったことはないか」

案内人が伝える。

デルタが少し遠くを見た。

『「若い頃は思った。この島の外に何があるのか、知りたかった。でも今は違う」』

「どう変わったんですか」

『「ここに全部あると気づいた。必要なものが、ここに集まってきている」』

「僕たちのことか」

『「お前たちが来る前から、すでに思っていた。この島は、何かを集める場所だと。流れ着く者たちが、それぞれのものを持ってくる。いつかそれが、一つのものになる」』

「いつか」

『「もう、始まっている気がする」』

デルタが空を見上げた。

星が多かった。



夜が深まって、全員が眠り始めた頃、《波長理解》が揺れた。

東だ。

以前より、近い。

以前より、大きい。

でも今夜は、いつもと違う感触があった。

今まで感じていた「観察している」という静かな気配ではなく、もっと積極的な何かだ。

「案内人」

『感知しています』

「今夜の反応は前と違う」

『パターンが変化しています。今まで一定の距離を保っていましたが、今夜は距離が縮まっています』

「こちらに向かっているということか」

『断定できません。ただし、敵対的な波長は検出されていません。石板の文字パターンとの一致が、今まで以上に強く出ています』

石板の文字パターン。

試された者よ、上に還れ。問いは続く。

「どのくらいの距離だ」

『現在の速度で移動し続けた場合、早ければ明日の夜には——』

案内人が止まった。

『……到達しています』

「今」

『今夜、この位置まで来ています。ただし、森の向こうで停止しました』

立ち止まった。

来ることはできる距離まで来て、止まっている。

「……待っているのか」

『断定できません。ただ、波長のパターンが変化しています。「観察」から「提示」に移行しています』

「提示」

『こちらの出方を待っている、と読めます』

僕は東の方向を見た。

森の向こう。暗い木々の間に、何かがいる。

怖くはない。なぜかは分からないが、怖くなかった。

デルタが言っていた。東の声は、悪いものではない、と。ずっと前から、この島にいる何かだ、と。

「案内人、向こうに伝えることはできるか」

『波長で返答を送ることは可能です。ただし、相手が理解するかどうかは断定できません』

「試してみる」

『内容を』

少し考えた。

「明日、会いに行く。それだけ伝えてほしい」

案内人が少し間を置いた。

『送りました』

東の気配が、揺れた。

波長が、一瞬だけ変化した。

言葉ではない。でも、何かを返してきた。

「……伝わったか」

『反応がありました。内容は解析できません』

気配がゆっくりと遠ざかった。

消えたわけじゃない。少し離れた場所で、また静かになった。

火を見た。

眠っているネグルが、丸くなっている。グラッグが今日作った石片を、手に握ったまま眠っていた。

この場所を守りながら、前に進む。

シロがいつの間にか隣に来ていた。

「気づいていたか」と僕は言った。

「さっきから感じていた」とシロが、低く静かに言った。「今夜は違う。近い」

「怖いか」

シロが少し間を置いた。

「……分からない」

珍しい答えだった。シロはいつも「問題ない」か「怖くない」か「分からない必要はない」と言う。

「分からないとは」

「今まで感じていたものより、大きい。でも、悪くない。そのどちらでもある、という意味だ」

「僕も同じ感覚だ」

シロが空を見た。

「お前はどうするつもりだ」

「明日、会いに行く。みんなに話す」

シロが短く息を吐いた。

「……また死ぬ気か」

「会うだけなら死なない」

「お前が「だけ」と言うとき、大抵そうならない」

「それは過去の話だ」

「根拠があるか」

「ない」

シロが鼻を鳴らした。

「一人では行かせない」

「そのつもりだ」

「なら、今は寝ろ」とシロが言った。「眠れないかもしれないが、目を閉じていろ」

「シロは」

「見張る」

「毎日見張っているじゃないか」

「それが私の役目だ」と、少し目を細めながら言った。

グラッグが石片を手に握ったまま眠っている。ネグルが丸まっている。ガンズがまだ棒を持ったまま、でも目を閉じている。

「明日の朝、全員に話す」と、小声で言った。

川の音が続いている。

シロが夜の向こうを静かに見ていた。

東の気配は、まだそこにあった。
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平凡なサラリーマン、相原正人が目を覚ましたのは、 見知らぬ草原に佇むひとつの牧場だった。 そこは、人に捨てられ、行き場を失った魔物の孤児たちが集う場所。 泣き虫の赤子ドラゴン「リュー」。 やんちゃなフェンリルの仔「ギン」。 臆病なユニコーンの仔「フィーネ」。 ぷるぷる働き者のスライム「モチョ」。 彼らを「処分すべき危険種」と呼ぶ声が、王都や冒険者から届く。 けれど正人は誓う。 ――この子たちは、ただの“危険”なんかじゃない。 ――ここは、家族の居場所だ。 癒やしのスキル【癒やしの手】を頼りに、 命を守り、日々を紡ぎ、 “人と魔物が共に生きる未来”を探していく。 ◇ 🐉 癒やしと涙と、もふもふと。 ――これは、小さな牧場から始まる大きな物語。 ――世界に抗いながら、共に暮らすことを選んだ者たちの、優しい日常譚。 ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

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山椒
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