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第三章
人にも本にも歴史あり(1)
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花子が、バイトをやめてシンガポールへ行くまでは、あっという間だった。
大学祭のあと、侑哉はなんとなく花子のバイト先であるコスプレカフェへ行きづらく、また花子も、侑哉が何故かレポート提出などのため古書店にいない日に限ってやってくる。そしてすれ違いもあり会えない日々が続き、かろうじてラインで会話をしていたのだが、「いってきまーす」という軽い連絡がきたのは、まさに花子が発つその時で、侑哉は見送りもできなかったのある。
「なんかねえ、あっさり行っちゃったなあ」
着々と増えていくお手製樹脂粘土フィギュアの列に新作を並べながら、友義はぽつりと呟く。レジのすぐ隣の棚にあるフィギュアコーナーの一番端には、花子によく似たツインテールの女子人形が飾られている。大学のテストは年明けだが、持ち込み可のものやメール提出のものもあるので、侑哉は古書店の定位置に座り、形だけの勉強をしていた。
「海外って、そんな早く行けるもんなの?」
レイがイギリスへ行ったときも侑哉は不思議に思ったの だが、友義は「親御さんはあちらにいるし、前から準備してたんだろう」と、なんでもないふうに言った。
「パスポートはあるだろうし、学校行ってるわけじゃあないからねえ」
転校手続きがないだけでもかなり楽だろうと友義は言う。そんなもんか、と侑哉は溜め息をついた。
「寂しそうだねえ」
暗い表情の侑哉を見て、友義がにやにやしながら言った。
「いっそ、すきだー! とか告白しちゃえば良かったんじゃないの?」
「おじさん......だからそんなんじゃないから」
「いやいや、言ってしまうと自覚するかもしれないよ?」
そこでふと、侑哉はかねてからの疑問を友義にぶつけてみた。
「おじさんはさ、なんで独身なの」
親戚の集まりや、たまに友義が家に遊びにきたときも、両親がいたところではなんとなく聞きづらかったのだ。
しかし友義の妹である母の美弥に聞いても「さあ?」と言うばかりだし、そこまで外野、ましてや甥である侑哉が掘り下げる話題でもなく、謎は謎のままだった。侑哉は、ひょっとしたら伯父の予想外のドラマチックな話が聞けるかと内心わくわくしたが、友義の返事はただ「縁がなかったから」だけだった。
「うーん......俺はこの店でのんびりやるのが性に合ってるわけだけど、それはつまんないって言われるわけよ」
「つまんない?」
友義は、そう、と言う。
「大学出たのに、就職しないで何年もバックパッカーして、帰国して親の持ってるビルで古書店継いで......俺のそういう生活を、野心がないって思うらしいねえ、女性は」
野心、と侑哉は店を見回した。友義も、侑哉と同じ大学の出身なのだ。どうりで教授たちに知り合いが多いはず、と、改めて侑哉は学術書が沢山並ぶ本棚を見た。
「でもねえ、ここでサラリーマンとか学生とか、いろんな人を見るわけよ。それでたまに、本について聞かれたりする。自分がすすめた本が誰かの人生の鍵になって、新しい事業や製品が生まれるきっかけになることもある」
そこで友義は、にやっと笑った。
「影の支配者みたいで面白くない?」
侑哉は、以前に友義に言われたことを思い出した。すすめた本が誰かに響くのが嬉しい、と。確かに侑哉も、自分が何気なく言ったことがきっかけで、安田書房の親子が新しい試みをしたことは、単に知り合いが何かをした事実を聞くより数倍嬉しく感じられた。
「ま、影の支配者は冗談だとしても」
友義はカウンターの内側にある椅子の背もたれに、ゆ ったり寄りかかる。それなりに年期の入った椅子は、ぎしりと音を立てた。
「本が、好きだからだね、一番の理由は」
侑哉は店内を見渡した。本がぎっしり詰まった棚の手前に、ところどころ雑然と積まれていたりする。
「大きな書店じゃあ見なくなった本が、いろんな事情でやってくるんだ。そういうのを見聞きするのも面白い。中身も、渡ってきた経緯もさ、本にはいろんな人の人生が凝縮されてるんだよ」
侑哉は、適当に本を手にとり、めくってみる。なんていうことのない本だが、誰かに一度は誰かに選ばれた本なのだ。そう考えると、どういう思いで見知らぬ人がその本を読もうとしたのか、または読まずに売ってしまったのか。いろいろなことを勝手に想像してしまう。
「おじさんて、若い頃から老成してたんだね......」
侑哉は小さい時から父親とはまるで違う雰囲気の伯父を不思議に思っていたのもあり、率直な感想を口にしたのだが、友義は苦笑して首を振る。
「いやいや、さすがに二十歳やそこらの若造には、そんなに他人の人生を語れるほどの厚みはなかったよ」
そこで、ぎい、とドアがあいて、客が入ってきた。いらっしゃい、と友義が言うと、まっすぐレジカウンターまでその客はやってきて、挨拶もそこそもに、手にした紙袋から古びた本を数冊出す。客は四十代半ばくらいの男性で、平日だが私服だ。身なりは小ぎれいなので勤め人ではあるだろう。しかし古書店に来ることはめったにないのか、やや緊張気味で友義に向かって話し出す。
「なんか......チェーン店より個人のお店のほうが良いって、友人に聞いたので......」
カウンターに詰まれた本を見ても、侑哉には価値があるかないのかわからない。しかしチェーン店なら、本が汚いという理由で販売対象にならず、投げ売りか廃棄になるかもしれないが、確かにここならマニアな顧客が買っていくかも......などと侑哉が漠然と思っていると、友義が意外なことを言った。
「これ、公共の資料館か大学に寄贈したほうがいいかもしれませんね。知り合いに聞いてみましょう。預かって構いませんかね」
客は、驚いた顔をした。
「どうかしましたか?」
友義が穏やかな口調で聞くと、男性はためらいがちに話す。
「実は......父の遺品なんですけど、まとめて家族が処分 すると言い出しまして、とりあえず、難しそうな本は価値があるのかも、と家族を説き伏せて試しに数冊持ってきたんですが......」
どうやら男性は、有給を取ってわざわざ古書店街に来たらしい。
大学祭のあと、侑哉はなんとなく花子のバイト先であるコスプレカフェへ行きづらく、また花子も、侑哉が何故かレポート提出などのため古書店にいない日に限ってやってくる。そしてすれ違いもあり会えない日々が続き、かろうじてラインで会話をしていたのだが、「いってきまーす」という軽い連絡がきたのは、まさに花子が発つその時で、侑哉は見送りもできなかったのある。
「なんかねえ、あっさり行っちゃったなあ」
着々と増えていくお手製樹脂粘土フィギュアの列に新作を並べながら、友義はぽつりと呟く。レジのすぐ隣の棚にあるフィギュアコーナーの一番端には、花子によく似たツインテールの女子人形が飾られている。大学のテストは年明けだが、持ち込み可のものやメール提出のものもあるので、侑哉は古書店の定位置に座り、形だけの勉強をしていた。
「海外って、そんな早く行けるもんなの?」
レイがイギリスへ行ったときも侑哉は不思議に思ったの だが、友義は「親御さんはあちらにいるし、前から準備してたんだろう」と、なんでもないふうに言った。
「パスポートはあるだろうし、学校行ってるわけじゃあないからねえ」
転校手続きがないだけでもかなり楽だろうと友義は言う。そんなもんか、と侑哉は溜め息をついた。
「寂しそうだねえ」
暗い表情の侑哉を見て、友義がにやにやしながら言った。
「いっそ、すきだー! とか告白しちゃえば良かったんじゃないの?」
「おじさん......だからそんなんじゃないから」
「いやいや、言ってしまうと自覚するかもしれないよ?」
そこでふと、侑哉はかねてからの疑問を友義にぶつけてみた。
「おじさんはさ、なんで独身なの」
親戚の集まりや、たまに友義が家に遊びにきたときも、両親がいたところではなんとなく聞きづらかったのだ。
しかし友義の妹である母の美弥に聞いても「さあ?」と言うばかりだし、そこまで外野、ましてや甥である侑哉が掘り下げる話題でもなく、謎は謎のままだった。侑哉は、ひょっとしたら伯父の予想外のドラマチックな話が聞けるかと内心わくわくしたが、友義の返事はただ「縁がなかったから」だけだった。
「うーん......俺はこの店でのんびりやるのが性に合ってるわけだけど、それはつまんないって言われるわけよ」
「つまんない?」
友義は、そう、と言う。
「大学出たのに、就職しないで何年もバックパッカーして、帰国して親の持ってるビルで古書店継いで......俺のそういう生活を、野心がないって思うらしいねえ、女性は」
野心、と侑哉は店を見回した。友義も、侑哉と同じ大学の出身なのだ。どうりで教授たちに知り合いが多いはず、と、改めて侑哉は学術書が沢山並ぶ本棚を見た。
「でもねえ、ここでサラリーマンとか学生とか、いろんな人を見るわけよ。それでたまに、本について聞かれたりする。自分がすすめた本が誰かの人生の鍵になって、新しい事業や製品が生まれるきっかけになることもある」
そこで友義は、にやっと笑った。
「影の支配者みたいで面白くない?」
侑哉は、以前に友義に言われたことを思い出した。すすめた本が誰かに響くのが嬉しい、と。確かに侑哉も、自分が何気なく言ったことがきっかけで、安田書房の親子が新しい試みをしたことは、単に知り合いが何かをした事実を聞くより数倍嬉しく感じられた。
「ま、影の支配者は冗談だとしても」
友義はカウンターの内側にある椅子の背もたれに、ゆ ったり寄りかかる。それなりに年期の入った椅子は、ぎしりと音を立てた。
「本が、好きだからだね、一番の理由は」
侑哉は店内を見渡した。本がぎっしり詰まった棚の手前に、ところどころ雑然と積まれていたりする。
「大きな書店じゃあ見なくなった本が、いろんな事情でやってくるんだ。そういうのを見聞きするのも面白い。中身も、渡ってきた経緯もさ、本にはいろんな人の人生が凝縮されてるんだよ」
侑哉は、適当に本を手にとり、めくってみる。なんていうことのない本だが、誰かに一度は誰かに選ばれた本なのだ。そう考えると、どういう思いで見知らぬ人がその本を読もうとしたのか、または読まずに売ってしまったのか。いろいろなことを勝手に想像してしまう。
「おじさんて、若い頃から老成してたんだね......」
侑哉は小さい時から父親とはまるで違う雰囲気の伯父を不思議に思っていたのもあり、率直な感想を口にしたのだが、友義は苦笑して首を振る。
「いやいや、さすがに二十歳やそこらの若造には、そんなに他人の人生を語れるほどの厚みはなかったよ」
そこで、ぎい、とドアがあいて、客が入ってきた。いらっしゃい、と友義が言うと、まっすぐレジカウンターまでその客はやってきて、挨拶もそこそもに、手にした紙袋から古びた本を数冊出す。客は四十代半ばくらいの男性で、平日だが私服だ。身なりは小ぎれいなので勤め人ではあるだろう。しかし古書店に来ることはめったにないのか、やや緊張気味で友義に向かって話し出す。
「なんか......チェーン店より個人のお店のほうが良いって、友人に聞いたので......」
カウンターに詰まれた本を見ても、侑哉には価値があるかないのかわからない。しかしチェーン店なら、本が汚いという理由で販売対象にならず、投げ売りか廃棄になるかもしれないが、確かにここならマニアな顧客が買っていくかも......などと侑哉が漠然と思っていると、友義が意外なことを言った。
「これ、公共の資料館か大学に寄贈したほうがいいかもしれませんね。知り合いに聞いてみましょう。預かって構いませんかね」
客は、驚いた顔をした。
「どうかしましたか?」
友義が穏やかな口調で聞くと、男性はためらいがちに話す。
「実は......父の遺品なんですけど、まとめて家族が処分 すると言い出しまして、とりあえず、難しそうな本は価値があるのかも、と家族を説き伏せて試しに数冊持ってきたんですが......」
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