遥かなる恋人に

ono

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王太子の真意

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 図書室を出た私は、その足でディートリヒ殿下の執務室を訪ねた。
 王太子の執務室は王宮の中でも格式高い一角にあった。衛兵が立っている扉の前煮立つと平民根性から一瞬躊躇してしまう。アポイントメントもなしにいきなり訪ねて大丈夫なのだろうか。
 ミリアの「聖女様ならどこへでもご自由に参られて問題ございません」という言葉を後押しに、なんとか勇気を絞り出して扉をノックする。
「ごめんください。せ……マリです」
 聖女ですとは恥ずかしくて言えなかった。
「どうぞ」
 低い声が聞こえる。衛兵が扉を開けてくれて、部屋の中には書類の山の向こうでディートリヒが何か書き物をしているのが見えた。

 ホールで見たきらびやかな礼服ではなく、機能性を重視した軍服のような執務服姿。窓から差し込む光が滑らかな金髪を照らしている。
 眉間に皺を寄せて万年筆を猛烈な勢いで走らせる姿は会社員のそれなのに、全体として絵画のように美しく、さすがは王族といった雰囲気だ。
「何か用か?」
「あの、お忙しいところすみません。ちょっとお話を伺いたくて」
 だめだ。相手が王太子殿下だと思うとどうしても下に立ちたくなってしまう。強気でいかなければ。私は聖女、私は聖女。

 ディートリヒは万年筆を置いて私に視線を向ける。
「構わない。座ってくれ」
 深呼吸して客用の椅子に腰を下ろし、一旦あの目の毒となる美形から視線を外して部屋を見回した。
 意外と質素だ。豪華な装飾はほとんどなく、ただ実用的な家具が並んでいるだけ。机の上には予算書や報告書らしきものが積まれている。
 うん。ディートリヒ殿下の顔面のクオリティ以外は見慣れたビジネスライクな光景だ。

「昨夜は、なんか、大変でしたね」
「ああ」
 辿々しい私の言葉にディートリヒ殿下が短く答える。表情は相変わらず無表情に近い。
 昨日のフェリクスさんの言葉が蘇った。「殿下は非常に合理的な方です」……そしてミリアの言う「とても聡明で、お優しい方ですよ」。
 両立できることではあるけれど、どちらがこの人の本質に近いのだろう。

 さすがにいきなり求婚をお断りするのも恐ろしいので、別方向から本題に切りかかることにした。
「あのー、どうしてエリーゼさんと婚約破棄なんてしたんですか? お二人、仲睦まじい理想のカップルだったんですよね」
 ディートリヒの碧い瞳が僅かに揺れた。
 あの時、彼の背中はどう見てもエリーゼを手放したくない男のものだった。きっと今みたいな後悔まみれの顔をしていたんじゃないかと思うのだけれど。

 ディートリヒは軽く息を吐いて立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
「……君はこの十年間、我が国がどうやって保たれてきたかを知っているか」
「本でちょろっと読みました。魔力が乱れて、大変だったって」
「大変などという言葉は生易しい。魔物が増え、作物は育たず、疫病が流行った。毎年のように国境で戦があり、多くの民が命を落とした」
 窓の外の平和な街並みを見つめながら、彼は続ける。
「父上……ヴィルヘルム国王は、聖女のいないこの十年間、自らの命を削る勢いで魔力の安定化に奔走された。辺境の村が魔物に襲われれば自ら剣を手に戦い、凶作が続けば国庫を空にして民を救った。それは英雄的な献身だが、王政としては歪だ」
 その声には深い尊敬と同時に痛みが籠められているようだった。

「聖女がいない時代に、国を維持するには何が一番重要だ?」
「……有能なトップですかね」
「その通りだ」
 ディートリヒは振り返って、私をまっすぐに見つめた。
「聖女は世界の要だ。君の存在は何物にも代えがたい。だが、それだけで国は支えられない。政治や外交、経済や軍事。王として、あるいは王妃として、それらを適切に処理できる能力はいつの時代においても必要だ」

 ああ、なんとなく話の方向が見えてきた。王太子妃の地位に相応しくないとはつまり。
「エリーゼさんは……」
「頭が良くない」
「え」
 方向は見えてきたけれど、予想外のストレートな悪口に絶句した。
「エリーゼは心優しく、誰よりも善良な女性だ。それは間違いない」
 ディートリヒの表情が苦しげに歪む。考えたくもない言葉を口にせざるを得ない痛みが見えた。
「だが王太子妃として、次期王妃として必要な資質を、彼女は持っていない」

 どのくらい頭が良くないんですか? お馬鹿キャラ的な可愛さの話じゃなくて? どういう聞き方をしても失礼すぎる気がして黙り込む。
「エリーゼは純粋で慈愛に満ちている最高の女性だ。しかし物事の因果関係を理解する能力が欠落している」
 ディートリヒは棚の抽斗から一通の報告書を取り出した。
「これは彼女が以前、慈善事業として行った施策の記録だ。彼女は街の貧しい者たちを見て心を痛め、自身が所有する宝飾品をすべて売り払い、その金を広場で直接、民衆に配った」
「……ええと、聖母のような善行ですね」
「結果、金を巡って民衆の間で争いが起きて三人が重傷を負った。さらに突然大量の金貨が市場に流入したせいでその区画の物価が跳ね上がり、彼女が救おうとした貧困層がさらに苦しむことになったのだ。彼女はそれを知ってひどく傷ついた」
「うわあ……」
 それは確かに王妃にするには危うすぎる。善良というか、いや、善良には違いないけれど、ちょっと心配になるレベルの思慮の足りない優しさだ。

「詐欺とか、大丈夫なんですかね?」
「ああ。オルデンブルク伯爵はエリーゼに優秀な側近をつけている。エリーゼに危害が及ぶ前に彼らが処理してくれる。市場の件でもエリーゼに恨みを向ける者はいない」
 それってつまり彼女の代わりに元凶として恨まれるはめになったスケープゴートがいるという意味ではなかろうか。そして誰かを犠牲に自分が守られたという事実を知ったらエリーゼ嬢はまた傷つくわけだ。なんという悲惨な悪循環。
 ディートリヒは執務机に戻って、椅子に座り直した。
「オルデンブルク伯爵家は我が王国でも有数の資産家、多少の浪費も問題ない。だが、エリーゼが正式に王太子妃となれば話は違ってくる」
 王太子妃。次期王妃。国の顔となり、外交の場にも立ち、民を導く立場。その役割は優しく微笑むことではない。予算を管理し、貴族間のパワーバランスを調整し、時には冷徹な判断を下さなければならない。
 いろんな意味で、計算ができない人には荷が重すぎる。

「やー、でも本人も勉強するって言ってましたよね。これから頑張ればいいんじゃないですか?」
 他人事のように言ってしまう。だって私には関係ないもの。関係なくあってほしいから。
「努力で何とかなるなら。私もそう願っていた。……先代聖女が亡くなるよりも前、十年以上、家庭教師をつけて教育を受けさせた。それでも彼女は理屈ではなく情に絆されてしまう。エリーゼは王宮という魔窟で生き残れる器ではない。いつか必ず、その純粋さを利用され――」
 自滅する。あるいは国を傾ける。ふわふわの綿菓子みたいだったエリーゼの姿を思い出す。王妃という地位は彼女にとって処刑台そのものだった。

 そういうことね。ディートリヒはエリーゼを愛しているからこそ、婚約を破棄した。
 彼女が王太子妃として苦しむ未来を、有能すぎる彼は容易に、正確に予測できてしまった。だから彼女を解放することにしたのだ。
「でも、それなら普通に理由を説明して婚約解消すればよかったんじゃないですか。あんな公衆の面前で恥をかかせなくても」
「真実を明かせば、それこそエリーゼを傷つける。彼女は馬鹿だが愚かではないのだ」
 褒めてるんだか貶してるんだか分からない言い様だ。
「君は頭が悪いから王太子妃には相応しくない、そう告げることが、どれほど残酷か分かるだろう?」
「まあ、それは、そう」
 今まさに「君は頭が悪いから」の言葉で私が言われたわけでもないのにぐっさりきたくらいだ。それがだった場合、エリーゼ嬢の傷はどれほど深くなるだろう。
 エリーゼの純粋さ、優しさが悪いわけじゃない。ただ王太子の妻となるには相性が悪すぎる。

「無能ゆえに捨てられた令嬢などという汚名は一生つきまとう。だが、私が『異世界からきた聖女に一目惚れして、長年の婚約者を一方的に捨てた』という形にすれば、世間の非難はすべて私に向く。私の過失によってエリーゼを解放できる」
 私は、呆れ果てて口が開かなかった。
「エリーゼは『振られた』だけで済む。傷つくだろうが、致命傷にはならない」
 この男、確かに聡明で合理的で優しい、でも有能すぎて考え方が捻じれ曲がっている。
 自分の評価を犠牲にしてでも愛する女の心と名誉を守ろうとしているのだ。その生贄として、異世界からきたばかりの何も知らない私が指名された。聖女という掲げやすい大義名分を持っていたばかりに。

「あのー、ディートリヒ殿下。殿下の真意は分かりましたけど」
「なんだ」
「私の人格、軽視しすぎてやしません?」
「突然現れた君よりもエリーゼのほうが大切に決まってるじゃないか。これはすべてエリーゼのためだ」
「……真顔で言うなあ」
 思わず頭の中でお馴染みのメロディが流れてしまった。時に切なく時に激しいあの名曲が。

 私はただ平和にのんびりとアイスを食べて暮らしたいだけなんだ。なのにどうして王太子の浮気相手みたいな不名誉な称号を戴かなければならないのか。聖女という名に見合うとは思えない。
 それにエリーゼが王妃に向かないからといって、私がその責任を代わりに負う筋合いはまったくないはずだ。
 王妃。王妃? 聖女だって畏れ多いのに、国のトップになれと? この人と結婚して。
 ところで王妃の給料っておいくらほどなんだろう?

「迷惑だなあ……」
 つい、本音が口から滑り落ちた。
 前の世界でも、「会社のためだから」とか「君ならできるから」とか、そんな甘い言葉で炎上案件を押しつけられてきた。異世界にきてまで、王太子の私的な恋愛工作の片棒を担がされるなんて。
「……迷惑か。正直な女だ」
 ディートリヒは少しだけ、口角を上げた。奇妙な親しみを含んだ笑みだった。
「聖女マリ。君が私の『真実の愛、そして運命の相手』だ。嫌なら聖女の力で私を黙らせるがいい」
「いい性格してるわ、あなた」
 私は聖女だ、私の意志を尊重しろ、なんて言ったら言ったでじゃあ聖女として相応の働きを要求されるのだから。同じことじゃないですか。

 こうして私の聖女としての異世界新生活に面倒な業務提携が締結された。
 聖女の暮らしは確かに楽園だが、その隣に座る男は前の世界のモンスター上司よりも手強そうだ。なんといっても心の内にあるのが悪意ではなく誠意であるところが。
 深い溜息を吐きながら、せめて明日の朝食にはもっと豪華なフルーツをつけてもらおうと心の中で要求リストを作成する。
 私が安上がりなやつだということも、ディートリヒにはバレている気がした。
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