遥かなる恋人に

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お出かけ空気清浄機

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 毎日が穏やかで満ち足りていて、何の不満もない。でもバルコニーの外の景色がやけに遠く見えた今日、私はふと思ったのだ。
「ピクニックに行きたーい」
 日本で働いていた頃はたまの休日くらいずっと家で寝ていたい気持ちしかなかったけれど、街に出かけて長閑な風景を目にしたこともあって、もう少しこの世界の空気を堪能したくなった。
 冒険と呼ぶほど大それたものでなくていい。ちょっとした日常のスパイスとして土の上を歩き、風に揺れる草花の匂いを嗅ぎたい。
 私のささやかな欲求をいつものようにミリアがまるっと叶えてくれることになった。

「健康的で、素晴らしいご提案です、マリ様! でしたら近くの森がおすすめですわ。泉があって、空気がとっても爽やかなんです」
「近くってどれくらい?」
「馬車で一時間ほどです」
 それならちょうどよさそうだ。馬車なら街道を行くことになるし、一時間も揺られたって乗馬ほどには筋肉痛にならないだろう。
「せっかくだからエリーゼも誘って行きたいな」
「今日お庭にいらしたらお誘いしましょう。私、厨房のクララにも声をかけて参りますね。お弁当、何を作るか楽しみです!」
 一緒に行けたらいいのだけれど、ミリアはメイド業務が忙しくて遠出は難しそうだった。それでも計画を立てること自体が楽しいらしく、凄まじい行動力と機動力で私の願望をサポートしてくれる。
 私が口にしたほんの小さな思いつきは王宮の公式行事のようなスピード感で進められ、翌日には郊外ピクニックの計画が決定していた。

 火曜日ひようびの朝、エリーゼと待ち合わせて厨房に向かう。腕まくりをしたクララが待ち構えていた。
「マリ様、エリーゼ様、ピクニックですってね。パンを焼きましょうか、それともパイになさいますか?」
「どうしよっかな。個人的にはパイのほうがお出かけ感があっていいんだけど」
 でも昼食によさそうなミートパイをエリーゼと一緒に作るのは難しそうだ。いつものようにパンがいいかなと思っていたら、エリーゼがぱっと顔を上げた。
「サンドイッチはいかがですか? パンと具材だけを用意して、あちらに着いてから好きなものを挟んで食べるのです」
「いいじゃん。バイキングみたいで楽しそう」
「それなら、野菜にチーズにハムに魚、甘いジャムやクリームも何でもございますよ!」
「あ~~~もうお腹空いてきた」
 澄んだ空気の中で……と言っても排気ガスの出ないこの世界では王宮の空気も充分澄んではいるけれど、日常から一歩離れた風景の中で食べるサンドイッチはきっと格別においしいことだろう。

 私は黙々とパンを用意する。厚みも硬さも焼き加減も様々、甘くて柔らかい生地も、しょっぱくておかず向けの生地もある。
 横ではクララの指導を受けながらエリーゼが具材の調理に苦戦していた。ハンバーグや燻製肉はエリーゼが触れなくていいように調理済みのものを準備してくれていた辺り、さすがはクララ。できる厨房長だ。
 こっそり横から手を出して、燻製肉にトマトとチーズを乗せてつまみ食い。
「まあ、マリ様。お行儀が悪いですよ」
「バレてないバレてない」
「バレております!」
 それにしてもこの燻製肉、がっつり塩気が効いてて、これは絶対にパンに合うね。

 私たちのやりとりを見てエリーゼがふわりと笑う。ディートリヒが過保護になるのも頷ける、庇護欲をそそられる笑顔だ。
「フェリクス様も、たくさん召し上がってくださるかしら」
「そりゃ食べるでしょ。エリーゼが作ったんだから」
「ふふ。マリやフェリクス様が喜んでくださるなら、お肉もがんばって調理しますわ」
「エリーゼ様は健気でいらっしゃいますわ」
 本当に。料理上手で素直で尽くすタイプ、こうして見ている分には『理想の彼女』そのものではあるのだけれど。

「エリーゼ、あーん」
「え? は、はい」
 パンの切れ端にチーズとトマトを乗せたミニおやつをエリーゼの口に放り込む。彼女は一瞬目を丸くしてから幸せそうにもぐもぐしている。
「んももむもむ!」
 たぶん「おいしいです」と言っていると思う。
「いい感じの景色を見ながら外で食べたら、もっとおいしいよ」
 一生懸命に咀嚼する姿が小動物じみている。リスとかハムスターとか。ああ、この子は幸せになるべきだという世界の摂理を感じる。

 パンと具材をたっぷりバスケットに詰め込んで、お茶の入った水筒を抱え、馬車が待つ城門に向かう。
 本日の護衛はもちろん我らが近衛騎士フェリクス・ノーランドだ。
「おはようございます、マリ殿、エリーゼ様。絶好の行楽日和ですね」
「おはようフェリクス。道中の護衛よろしく」
「喜んでお供いたします」
 私と街へ買い物に行った時は事務的な同行者だったのに、エリーゼがいると彼はあからさまに騎士様モードのスイッチが入る。スマートに手を差し出してエリーゼをエスコートする所作の一つ一つが絵になるのだ。
「現金なやつめ」
「これはこれは。愛のなせる業と言っていただきたいですね」
 私が軽口を叩くと、フェリクスは悪びれもせず爽やかに笑った。

「フェリクス様、お忙しいのにお時間を割いていただいて、感謝いたします」
「とんでもない。貴女の護衛を務めること以上に重要な任務など、この世には存在しませんよ」
「まあ。光栄ですわ」
 心から嬉しそうなエリーゼの笑顔は、ディートリヒや私に向けるのと同じ平等な慈愛の微笑みだった。このイケメン騎士からの情熱的なアプローチも彼女の分厚い天然の盾の前にはなかなかクリティカルヒットしないらしい。
 エリーゼ自身も特に恋愛結婚を求める風ではないようだけれど、この子は恋なんてするのだろうか。

「ところで、ミリアからもう一人いるって聞いたんだけど」
 危険を冒すわけでもなく、名目上の護衛ならフェリクス一人で充分と思っていたら、今朝になって急遽オルデンブルク家からの護衛が派遣されてきたと聞かされた。
「ええ、彼ならあちらに」
 フェリクスが指差した先、馬車の陰には近衛騎士の制服とは違う濃紺のサーコートを纏った騎士が立っている。私たちの視線に気づいて彼が恭しく一礼した。
「お初にお目にかかります、聖女様、そしてエリーゼお嬢様。騎士ヘンリーと申します」
 とても見慣れた美しい顔立ちからめちゃくちゃ聞き覚えのある声が聞こえてくる。その背格好、優雅な立ち振る舞い、そして隠しきれない高貴なオーラ。
 どう見てもディートリヒだった。

 茶色の髪はおそらく精巧なかつら、でも碧色の瞳はいつもと同じだ。変装する気があるのだろうか。
「オルデンブルク家からいらっしゃったの?」
 エリーゼが不思議そうに尋ねる。
「はい。当主様より仰せつかりまして」
「そうでしたの。お父様も心配性ですわね。よろしくお願いします、ヘンリー様」
「はっ! 身命を賭して、お守りいたします!」
 ……まったく気づいていない。疑うことを知らないエリーゼにはこれくらいの変装で充分だということか。そして私とフェリクスには隠す必要もない、と。

 思わずフェリクスと顔を見合わせると、彼は「そういうことです」と言わんばかりに肩を竦めてみせる。
 ディートリヒのことだから公務を放り出したりはしていないだろう、あるいは超人的なスピードで朝のうちにすべてを片づけて、元婚約者のピクニックにストーカー……もとい護衛として加わったのだ。
 涙ぐましい努力と言うべきか、執念と言うべきか。
「ま、よろしくね、ヘンリーさん」
 にやにやを抑えきれずにそう声をかけると、ヘンリーディートリヒは僅かに眉を動かしただけでポーカーフェイスを崩さなかった。
「聖女様の護衛を務めさせていただける光栄、感謝いたします」
 当たり前のことではあるけれど、エリーゼへの対応と比べて全然心が籠ってないな。

「では、参りましょうか」
 フェリクスが馬車の扉を開いてエリーゼに手を差し伸べる。彼女がその手を取って乗り込む姿を見つめるヘンリーの目つきがあからさまに険しい。
 面白い旅になりそうだ。

 四人で乗っても意外と広い馬車の中、向かい合わせの座席に私とフェリクス、そしてエリーゼとヘンリーが並んで座る。
 そういえばフェリクスは聖女の護衛なのだったと思い出す。近頃は私も彼がエリーゼ専属だったかのような錯覚が起きていた。

 ゆっくりと動き出した馬車が少しずつ速度を上げていく。整備された街道とはいえ馬車というものは激しく揺れるものだと思っていた。でも想像とは裏腹に、まるで雲の上を滑るように滑らかだ。
「すごいね、全然揺れない。もしかしてこれも土魔法?」
「ええ。高貴な方が乗る馬車は車輪に魔力を通していますから」
 そう言うフェリクスはエリーゼを示しているようでほんのりディートリヒを揶揄していた。よく分かっていない彼女の隣でが苦虫を嚙み潰している。

「このクッションにも風の魔法が組み込まれていますよ」
「あー、前の風魔法のマントみたいな。エアバッグ兼サスペンションってわけか」
「長時間の移動でも疲れにくい、王家御用達の特別仕様です」
「王家と同じ扱いだなんて、それではわたくしたち、マリがいてくださることの恩恵を受けているのですわね」
「……」
 いや、どちらかと言うと聖女じゃなくてあなたの隣で仏頂面をしている新米騎士王太子殿下が同行していることの恩恵です。とは口に出せずに黙り込む。
 風属性の魔法といえばトルネードだとか風の刃だとか破壊的なものを想像する。でも意外とサポート性能が高かった。
 舌を噛む心配もなくおしゃべりができるのはありがたい。

 エリーゼは窓の外の景色を眺めながら、楽しそうにしている。相槌を打つのは主にフェリクスだった。
「あそこに羊の群れがいますわ。もこもこでかわいらしいです」
「本当ですね。毛刈りの時期が近いのでしょう」
「毛を刈ってしまったら、寒くはないのでしょうか?」
「聖女殿がいらっしゃいますから、今は畜舎も魔法で温かく保てます」
「マリのおかげですわね。安心いたしました」
 車内は一部を除いて和やかな空気に包まれていた。

「見てください、マリ! あの黄色いお花、お庭にほしいですわ」
「ほんとだ。エリーゼの区画に合いそうだね」
「後で摘みに参りましょうか。庭もいいですが、エリーゼ様の淡い色の髪にもよくお似合いになりそうです」
「まあ、フェリクス様ったら」
 当たり前のように気障な台詞を差し込んでくるなあ、この騎士様は。

「ヘンリー様も、お花はお好きかしら?」
 エリーゼが話を振ると、隣で元婚約者を凝視していたヘンリーは下心を一ミリも見せない柔和な笑みを見せた。
「お嬢様がお好きであれば、僕も花が好きです」
「ふふ、では四人分のお花を持って帰りましょうね」
「……はい」
 取り繕うのがうますぎたがゆえにエリーゼに気づいてもらえなかった部分もあるのではないかと思ってしまった。不憫だ、ディートリヒ。

 騎士のふりをした王太子殿下は終始笑顔を保っている。仮面よりも完璧に皮膚と同化した理性的な従者の顔。でもその視線がエリーゼに向けられた時だけ、情熱でむしろひりつくのだった。
 もしここに嫉妬メーターなるものがあれば針が振り切れて爆発していることだろう。魔法で作れないのかな。セルギウスに相談してみようか。
 ディートリヒはこれまでも今もフェリクスがエリーゼに近づくことを邪魔をするような真似はしない。あくまでも、ただ純粋にエリーゼの身を案じるだけだ
 でもそうやって彼女のそばにいれば結局は、元婚約者と新しい男が親しくなっていく様を特等席で鑑賞するはめになる。
 面白すぎて、じゃなくて、気の毒すぎて涙が出そうだった。

「ヘンリー様、お顔の色が優れませんわ。大丈夫ですか?」
 それはあなたが原因です、エリーゼさん。
「お気遣い、痛み入ります。少々、酔っただけですので」
 馬車じゃなくてエリーゼにか?
「無理はなさらないでね。お水、お飲みになって」
 エリーゼが水筒を差し出すと、ヘンリーは聖遺物でも受け取るかのように震える手でそれを受け取った。
「ありがとうございます、エリーゼお嬢様」
 ディートリヒ、報われない男よ。君の愛しい人は君が隣に座っていてさえ気づきもしない。

 正直外の景色を楽しむよりも馬車内の静かな修羅場を見ているのが面白かったけれど、話題を変えることにした。この面白さは王宮でも堪能できるのだからお出かけのほうを楽しもう。
「こっちの世界って、魔物がいるんだよね。でも街の外も結構安全?」
 いつもならミリアがすかさず教えてくれるところを答えたのはフェリクスだ。
「一時期は護衛部隊を連れずに城壁の外を散策などできない有様でしたが、ここ数ヶ月で魔力は非常に安定しています。聖女殿のおかげですね」
「私が足を運ばなくても空気清浄機能は届くんだ」
「エルハーフェン王国は世界の中心ですから。我が国にマリ殿がいてくだされば、世界は安泰です」
 その中心というのは物理的な話ではなく精神的な話かな。
 でも点在していた集落のどこかに都心部ができれば人間の生活圏はより集中して、そこから社会が発展していくものだ。聖女を確保した王国は物理的にも世界の中心となるのかもしれない。

 聖女不在の時代、魔力が乱れれば魔物が増えて、魔物が増えれば居住地域の外は一気に危険地帯と化し、農作も物流も滞ってしまう。そして飢饉が起こり、疫病も発生しやすくなる。
 図書室で読んだ限り魔物というのは文字通り魔性に属する狂暴な動物で、さすがに「せっかくのファンタジーだから実物を見てみたい」とは思えなかった。出没しなくなっているならありがたいことだ。

 私の存在こそが私の行楽を可能にしている。不思議な感覚だった。
 心から思うのは、聖女の能力が自発的に行使する必要のあるスキルじゃなくて本当によかったということ。
 能動的に世界を救えと言われたら私は迷いなく元の世界に帰ることを選んだだろう。それができなくても、自ずから重責を背負って重労働に従事したくはない。
 いるだけで勝手に発動してくれる空気清浄機の能力こそが、ニート聖女たる私に相応しいのだ。
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