スプリング・エフェメラル

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スプリング・エフェメラル

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 ちょっとした出来心だった。シラー・ビフォリアは厨房の棚を眺めながら、そう自分に言い聞かせた。悪意などあるはずもなく、下心も……おそらく、ない。
 ただ執事として主君のために何かできることはないかと考えているうちに、気がつけば市場で見かけた異国の不思議な果物を手にとっていたというだけのことだ。
「常夏の南方地方産。西瓜、か……」
 木箱の藁をから覗くのは、深い緑に薄い縞模様を纏った大きな球体だ。ずっしりと重いわりに叩けばぽこぽこと間の抜けた音がする。
 この無骨なボールの中身が甘い果実だというのはどうにも奇妙な気がした。

 包丁を入れると、鮮やかな赤が溢れ出した。シラーの手がほんの一瞬止まった。
 主君、エリス・ロニウム・デンスカニス伯爵令嬢は、実年齢五百と二歳、外見年齢は人間でいう十二か十三ほどの少女で、吸血鬼の姫君だ。
 銀糸の髪に紅の瞳の彼女は苛烈な種族のイメージに反して領民への慈愛に満ちている。「民を怖がらせては良き統治はできぬ」という家訓をもとに、エリスは長らく吸血を断っているのだ。
 そして私生活においては、好き嫌いが多く、昼寝が好きで、気に入ったものを抱えて離さない、五百歳児であった。

 ここ十年ほど隣領との交流が増え、行商人や旅人がこの地を訪れる機会が増えている。エリスは領民のみならず外部へのイメージにこだわっていた。
 良いことだとシラーは思っている。思っているが、その分お嬢様の食卓が寂しくなっているのも事実で、執事としてはそこが気がかりなのだった。
 トマトを出せば「赤いけど甘くない、赤いのに甘くない、許せない」と拗ね、石榴を出せば種が多すぎると文句を言う。ならばせめて、甘くて、赤くて、芳しい果汁をお嬢様に。
 切り分けた西瓜とアップルミントを磨り潰し、シュガーシロップとホワイトラムを加えてクリスタルのゴブレットに注ぐ。仕上げに細かく砕いた氷を浮かべれば、爽快な初夏を閉じ込めたかのような色をしたカクテルになった。

「あら、これは何? とってもきれい」
 エリスは見た目通りの少女らしい無邪気さで瞳を輝かせた。
「西瓜でございます、お嬢様。常夏の異国では夏に食すると涼やかになれるとか」
 実際には未だ肌寒い初春だが、高位の吸血鬼である主君には季節など関係のないことだった。
「飲んでいいの?」
「もちろん」
 一口含んで、沈黙する。真っ赤な果汁が彼女の唇を濡らす。その光景がひどく魅惑的に感じてシラーは目を逸らした。
 こういう時、お嬢様の顔は実年齢とも外見年齢とも違う、ただ純粋に獲物を味わっている生き物の顔になる。それが彼には好ましかった。

「美味しい」
「気に入っていただけて光栄です、お嬢様」
「もっと飲みたいわ。瓶ごと出して」
「カクテルに瓶はございません」
「じゃあおかわりを作って、シラー」
「かしこまりました」
 その夜で西瓜はすべてエリスの胃の中に消えた。あの大きさならば数日持つ予定だったのだが、三玉ほど買っておけばよかっただろうかとシラーは思う。

 翌朝、エリスは庭に立っていた。夜明け前の薄紫色をした空の下で、これから庭仕事でもするかのように袖をまくり、真剣な顔をして魔術の準備をしている。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「うちで西瓜を育てるわ。種があったでしょう」
「……この庭で、でございますか。常夏の国の植物だそうですから、難しいかと存じます」
「なら時間を進めればいいわ。夏への扉を開きましょう。そうすれば、毎日あのカクテルが飲めるじゃない?」
 僅かに焦るような気持ちでシラーはエリスを遮った。
「おやめください、お嬢様。ようやく春がきたばかりなのですから」

 屋敷を囲む木立はまだ芽吹いたばかりで、薄緑色の柔らかな葉が風に微睡んでいる。遠くの山はうっすら霞み、空気は冷たく澄み渡っていた。
「でも私、あったかいほうが好きよ。それに夏のほうが太陽が元気で、農家のみんなも作物がたくさん獲れるでしょう? 領主として、それは喜ばしいことだわ」
「お嬢様。吸血鬼のお立場で太陽を求めないでください」
「べつに灰になったりしないもの。日焼けした肌って健康的でいいじゃない」
 夜の生き物とも思えぬ言葉だった。きっと月も嘆いていることだろう。

「シラーは春が好きなの?」
 ふとエリスが首を傾け、銀の髪が流れる。
「……はい」
 この時期にだけ現れる儚い花々、春の妖精たちが好きだった。正確に言えば、それをお嬢様と共に愛でる時間がシラーには愛しかった。吸血鬼という永遠の夜を生きる主と、刹那の昼を生きる自分が交わる春が、確かに好きだった。
 しかしエリスには野辺の花の良さはあまり分からないところだろう。

「お嬢様、街の外れに桜がございます」
「そうね。三代前の町長がパン焼き窯と醸造所の間に植えたやつでしょう」
「あれはまだ咲いておりません」
「知ってるわ。教会に寄進に行った時に見たもの」
「……春はこれからなのです、お嬢様。あの桜が咲いて散って、新緑になって初めて春が終わります。夏への扉を開いてしまえば、民は春を楽しめません」
 春は長く続かない。しかし、だからこそ次の季節を思うことができる。

 エリスはその紅い瞳でシラーをじっと見つめ、やがて得心したように頷いた。
「分かった。人に代わってこの地を治める限り、民の望みを叶えるのが私の義務だもの」
「ありがとうございます。西瓜については、また異国の商人が訪れた時に買っておきましょう」
 シラーがそう言うとエリスは僅かに口の端を上げた。笑う時、犬歯が覗く。

 それはエリスのちょっとした出来心だったのだろうか。
 春はやけに長く続いた。桜が咲き、お嬢様は夜明け前に花見をして、桜餅をたらふく食べて、銀の髪に落ちた花びらをシラーがそっと払う。風に舞って花びらが池に浮かんだ。
 桜は、散らなかった。
 雪解けから四ヵ月ほど過ぎてもエリスの領地は春のまま、陽光が柔らかいベールのように優しく降り注ぐ。庭の花は枯れることを忘れて瑞々しく咲き誇り、虫たちがひらひらと花粉を集めていた。
 シラーは野花を摘んで食卓に飾り、春雨の夜は暖炉の前でお嬢様に本を読んで聞かせ、晴れた昼は共に庭を歩いた。お嬢様はそのたびに少し照れたような顔をした。

 いつまで経っても夏がやってこない。
「……お嬢様」
「なあに? 扉は開いていないわよ」
 確かに、時を進める魔術は行われなかった。むしろエリスは扉を閉ざしたのだ。
 野山は花から花へとたすきをつなぐように咲き続け、散るはずの花が散らずに長居をし、春にしか見られないはずの霞がいつまでも山を包む。

「お嬢様、この常春は一体いつまで続けるおつもりですか? 衣替えのタイミングを失って困惑しております」
 エリスはいつもの幼げな少女のものではない、五百年の歳月を内包した底知れぬ捕食者の色を湛えた瞳で彼を見つめた。
「あなたは私の第一の民よ、シラー」
 彼女はシラーの襟元に小さな手をかけ、ぐいと自分のほうへ引き寄せた。
「あなたが春を好きならずっと春にしてあげる。永遠に散らない花の中で、私を支え続けなさい」
 シラーはしばらく何も言えなかった。五百年生きた吸血鬼の、政務の席では諸侯を黙らせる舌が、今はひどく不器用な形でそれを告げている。

「……過分なお言葉でございます」
「過分じゃない」
「はあ」
「なんで他人事みたいな顔をしてるの」
「他人事ではございませんが、受け止めるのに少々時間が必要でして」

 彼女の吐息が、耳元を熱く撫でる。
「その代わり、久しぶりに本物が飲みたいのだけれど」
 儚きものとされる春の妖精たちは、夜の中では奇妙なほど妖艶な輝きを見せることを不意に思い出し、シラーは悟った。
「西瓜のカクテルでは代替できませんか」
「だめ」
「トマトジュースでは」
「嫌なの?」
 嫌かどうかと言われれば、嫌であるわけもない。貴族が義務を負うように、主君の求めに応えるのが執事の務めである。多くの先達がそうしてきたようにシラーもそうする覚悟で彼女に仕えた。

「春を永続させるというのは、相当に高位の魔術です。維持するのには魔力を消費します。であれば、補給が必要になる」
「そうね」
「つまりこれは新しい雇用契約と、そう受け取ってよろしいですか」
 エリスはしばらく呆気にとられたようにシラーを見つめ、やがてくすくすと笑い始めた。
「法律みたいに言わないでよ」
 柔らかな痛みと共に、春は続いてゆく。

 翌朝も、翌月も、翌年も、庭には春を告げるささやかな花が咲き続け、山には薄紫の春霞がかかっている。領民たちはいつ夏がくるのかと首をひねったが、作物はよく育ち、空気は清らかで、誰も特に困らなかった。
 ただし領主の庭の一角だけは夏だった。うねる蔓、楕円の大きな葉、転がる縞模様の丸い果実。
 立派な西瓜の収穫に満足そうに腕を組むエリスの隣で、シラーはひとつを切り分けながら思う。
 ちょっとした出来心だった。それが今ではしっかりと根を張って、永久の春を謳歌している。
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