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空蝉の花を織る
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蒸し暑い部屋に染料の湿った甘い香りが満ちる。窓の外には仙見川の清かな流れが響いていた。
百年前から代わり映えのしない夏針の小さな町で、俺は代々続く呉服屋の暖簾を守っている。
裏口を出てすぐの小道を挟んだ向かいには、これまた古い和菓子屋があった。そこの一人娘である夏純とは物心つく前からの付き合いだ。
俺の家が生地を卸し、彼女の家がそれを袱紗に仕立てて菓子に添える。家業同士も塩瀬の経糸と緯糸のように絡み合っていた。
だが、その糸もじきに解ける。夏純が嫁に行くからだ。
作業場の机には一本の名古屋帯が置かれている。選んだ柄は牡丹唐草。
――百花の王の影に隠して、彼女という花が誰の目にも留まらなければいいのに。
職人にあるまじき独占欲を溶かした染料が、筆の軌跡に滲む。夏純とはかけ離れた牡丹の姿が染みてゆく。
これを祝いの品として贈るのは俺の精一杯の虚勢だった。
塩瀬の厚手でしなやかな生地に鮮やかな牡丹が咲き誇る。
「わ、きれい……。颯、これ本当にもらっていいの?」
夕暮れ時、勝手口に現れた夏純は帯を手にして目を輝かせた。
「うん。嫁入り道具の一つにでもしてくれ」
「ありがとう! 私からも、はい。お礼と言ってはなんだけど」
彼女が差し出した盆の上には、涼やかな『水牡丹』が二つ、ぷるんと揺れていた。葛の中に淡い紅色の餡が透けて、朝露に濡れた蕾のようだ。
並んで店先の縁台に腰掛ける。彼女の膝には俺の帯が。俺の手には、彼女の菓子が。
水牡丹を黒文字で切って口に放り込む。つるりとした葛の食感の後に餡の甘さが広がる――はずだった。
「……っ」
声は抑えたものの思わず眉間に皴が寄った。甘い、いや、しょっぱい。
甘味を引き立てるために加えるはずの塩が主張しすぎている。これでは隠し味どころか主役級の存在感だ。
「どう? 結構、自信作だよ!」
期待に満ちた夏純の様子に、呆れるやら愛らしいやら複雑な気持ちだ。
「……本当に菓子作りが下手だな、お前は」
「えっ、嘘。不味い?」
「甘じょっぱいを通り越して、塩の塊」
彼女は和菓子屋の一人娘らしからぬ所作で、慌てて自分の分を口に運ぶ。数秒後に「ぐっ」とまぬけな声をあげた。
「うわ、しょっぱ。ごめん、間違えたかも」
「いいよ、そっちも俺が食うから」
「意地悪言わないでよ。こんな失敗作」
彼女は唇を尖らせて盆を引こうとするが、俺はその手をそっと制した。
「俺でもなけりゃ、こんな塩辛いもん、誰も食わねえだろ」
「失礼ね」
その言葉が持つ二重の意味に彼女は気づかない。ただ幼い頃と同じように笑って、残りの水牡丹を俺に押しつけた。
口の中に広がる塩気が、喉の奥で甘く切ない塊に変わる。
もし俺がこの店の跡取りでなければ、夏純の店に婿入りすることもできただろうか。
もし彼女が一人娘でなければ、俺の家に嫁として迎えることもできただろうか。
互いの家の暖簾が、家業の誇りが、俺たちを交え、そして同時に隔てていた。
数日後、彼女は俺が贈った塩瀬の帯を締めて挨拶回りに現れた。
親父の手による江戸小紋に鮮やかな牡丹唐草を纏って、野暮ったい夏純の微笑みは、一抱えのカスミソウを束ねたかのような健気さでひっそりと咲いている。
「行ってきます、颯」
「幸せにな、夏純」
塩瀬の生地はしぶとい。夏純に恋をしていた俺だけの秘密を織り込んで、気づかれもしないまま彼女のもとで流れ続ければいい。
百年前から代わり映えのしない夏針の小さな町で、俺は代々続く呉服屋の暖簾を守っている。
裏口を出てすぐの小道を挟んだ向かいには、これまた古い和菓子屋があった。そこの一人娘である夏純とは物心つく前からの付き合いだ。
俺の家が生地を卸し、彼女の家がそれを袱紗に仕立てて菓子に添える。家業同士も塩瀬の経糸と緯糸のように絡み合っていた。
だが、その糸もじきに解ける。夏純が嫁に行くからだ。
作業場の机には一本の名古屋帯が置かれている。選んだ柄は牡丹唐草。
――百花の王の影に隠して、彼女という花が誰の目にも留まらなければいいのに。
職人にあるまじき独占欲を溶かした染料が、筆の軌跡に滲む。夏純とはかけ離れた牡丹の姿が染みてゆく。
これを祝いの品として贈るのは俺の精一杯の虚勢だった。
塩瀬の厚手でしなやかな生地に鮮やかな牡丹が咲き誇る。
「わ、きれい……。颯、これ本当にもらっていいの?」
夕暮れ時、勝手口に現れた夏純は帯を手にして目を輝かせた。
「うん。嫁入り道具の一つにでもしてくれ」
「ありがとう! 私からも、はい。お礼と言ってはなんだけど」
彼女が差し出した盆の上には、涼やかな『水牡丹』が二つ、ぷるんと揺れていた。葛の中に淡い紅色の餡が透けて、朝露に濡れた蕾のようだ。
並んで店先の縁台に腰掛ける。彼女の膝には俺の帯が。俺の手には、彼女の菓子が。
水牡丹を黒文字で切って口に放り込む。つるりとした葛の食感の後に餡の甘さが広がる――はずだった。
「……っ」
声は抑えたものの思わず眉間に皴が寄った。甘い、いや、しょっぱい。
甘味を引き立てるために加えるはずの塩が主張しすぎている。これでは隠し味どころか主役級の存在感だ。
「どう? 結構、自信作だよ!」
期待に満ちた夏純の様子に、呆れるやら愛らしいやら複雑な気持ちだ。
「……本当に菓子作りが下手だな、お前は」
「えっ、嘘。不味い?」
「甘じょっぱいを通り越して、塩の塊」
彼女は和菓子屋の一人娘らしからぬ所作で、慌てて自分の分を口に運ぶ。数秒後に「ぐっ」とまぬけな声をあげた。
「うわ、しょっぱ。ごめん、間違えたかも」
「いいよ、そっちも俺が食うから」
「意地悪言わないでよ。こんな失敗作」
彼女は唇を尖らせて盆を引こうとするが、俺はその手をそっと制した。
「俺でもなけりゃ、こんな塩辛いもん、誰も食わねえだろ」
「失礼ね」
その言葉が持つ二重の意味に彼女は気づかない。ただ幼い頃と同じように笑って、残りの水牡丹を俺に押しつけた。
口の中に広がる塩気が、喉の奥で甘く切ない塊に変わる。
もし俺がこの店の跡取りでなければ、夏純の店に婿入りすることもできただろうか。
もし彼女が一人娘でなければ、俺の家に嫁として迎えることもできただろうか。
互いの家の暖簾が、家業の誇りが、俺たちを交え、そして同時に隔てていた。
数日後、彼女は俺が贈った塩瀬の帯を締めて挨拶回りに現れた。
親父の手による江戸小紋に鮮やかな牡丹唐草を纏って、野暮ったい夏純の微笑みは、一抱えのカスミソウを束ねたかのような健気さでひっそりと咲いている。
「行ってきます、颯」
「幸せにな、夏純」
塩瀬の生地はしぶとい。夏純に恋をしていた俺だけの秘密を織り込んで、気づかれもしないまま彼女のもとで流れ続ければいい。
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