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(もうちょっと優しくしよう)

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 なんと本気で考えてくれたらしく、翌日エメラードは怪しげな書を持ってきた。
「え、なにそれ」
 本当に怪しい。
 様々な大きさの紙を強引に綴じたような書である。言ってしまえば庶民的だが、そもそも庶民が書を求めることはほぼない。
 上流階級のたしなみとも言える書が、このざまなのだ。
「執事に、そのような指南書はないかと聞いたところ、父の部屋から……」
「へ、へえ」
 良いお育ちの方も後ろ暗い物品を所有しているらしい。このバラバラ加減からいって、複数の人間が頑張って作った書なのだろう。
 人間の努力が見える。
 なんというか、闇の努力である。
「……。このような有様なので、内容の正確さに不安がある」
「……そだね」
 もしかすると彼の父親が作ったかもしれないものだ。怪しい。それは怪しい。エメラードの顔にも「本当は持って来たくなかった」と書いてある。
「なので中身を確かめて欲しい」
「え? それは無理だよ」
「なぜだ。おまえが指南書をと言ったのだから、」
「文字が読めない」
 すると虚をつかれたようにエメラードが動きを止めた。
 驚きに丸くなった瞳が真っ直ぐにスクを見る。ヤってるときもそうやってちゃんと見て欲しいものだ。
「なんだ、気づいてなかったの」
「……本当か?」
「本当だよ。嘘ついてどうすんの」
「文字が読めない人間から、指南書という言葉が出てくるものか?」
「え、ああ……」
 まあそうかもしれない。
 色々と話しすぎたかもしれない。スクは少し後悔したが、唯一の話し相手である看守と、会話をしないという選択肢がなかった。
「昔は文字を読んでたよ。このあたりの文字じゃなくて、別の」
 本当に小さな子供の頃の話だ。両親がいて、スクは文字を理解できる程度の教育を受けていた。
「どこだ? 西か?」
「知らない。もう忘れた」
 聞かれたくない。しかし本当に覚えてもいない。
 その頃のことは霞の向こう側のようで、思い出そうという気になれない。むしろ思い出したくない。
「それより、あんたの父さんはこれ勝手に持ってきて怒ったりしないの?」
 話をそらして聞いてみると、エメラードが表情を消した。そんなに怖い父上なのだろうか。
「長く不在している。問題ない」
「へえ。戦?」
「いや……」
 エメラードは一瞬口ごもるようにしたが、苦笑し、諦めのような表情で言った。
「姉を探している」
「……あね?」
 あまりに予想外の言葉だったので、スクは一瞬理解しかねた。それこそ他国の言葉のようだ。ほとんど忘れてしまった言葉が、ふと頭の壁ひとつ向こうでざわめくような、そんな気がすることがある。
「姉だ。王の後宮に召し上げられることが決まっていたが、行方不明になった」
「……それって」
「父は王に謝罪し、姉を見つけるまで領地に戻らぬと誓いをたて、それきりだ」
「そ……それさぁ……」
 一緒に出ていったって言わない?
「父上はそのよう不忠な人間ではない」
 スクの言いたいことがわかったのだろう、あるいは、何度も言われたことなのかもしれない、慣れを感じさせる返事だった。
「……待った。あんたの姉って、それ、いくつの」
 貴族の令嬢の結婚適齢期は早いものだ。今のエメラードより年上となれば、どう考えてもそれに合わない。
「……十年と少し前のことだ」
「は」
 ちょっと信じがたい。
「え、待って、じゃああんた、十年くらいその状態で」
「姉と父に代わって、せめて私が王に尽くさせていただいている」
「……うわ」
 スクは半笑いになるしかない。
 エメラードの立場はわかったが、その考えはわからない。まったくわからない。スクならさっさと金目のものを持ち出して逃げている。
「いつか帰ってくると思ってるの?」
 聞いてみると、なんとも言えない顔をした。よくよくその顔に刻まれる苦悩も、なるほど十年ものの根深さだったらしい。
「さすがに期待してはいない。だが、そうだな……どちらにしても、いずれ私が領地を継ぐことになるだろう」
 そんな人が、まるで雇われ兵士のごとく牢番をしているのだ。スクは頭がよじれそうな気分を味わった。
「あのさぁ……あんた、早死にしそうだね」
 するとエメラードは暗い声で「よく言われる」と答えた。そうか、良く言われるのか。まあ言われるだろうな。
 言ってくれるような友人がいることに妙に安心した。
(もうちょっと優しくしよう)
 世の中には自分から損しに行くような人種がいる。そういう奴らはすぐに死ぬので、あんまりいじめてはいけない。
 このゆるい看守がいなくなっては、スクの生活レベルが低下してしまう。
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