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「ああいうのが好みなんだ」

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「スク様、お食事の用意を」
「スク様、お着替えを」
「スク様、体を清めましょう」
「……」
 彼女が来て当日には、これが王の嫌がらせなら実に的確だと理解した。
 そもそもスクは庶民である。なんでも自分でやってきたし、それを苦にしたこともない。誰かに手伝ってもらう方が慣れない。違和感がある。言ってしまえば鬱陶しく感じる。
 そして何より。
「ねえ」
 エメラードに話しかける。彼はユリアが来ても、変わらず牢番としてそこにいる。それはいい。それはいいことだ。
「退屈、」
「ではスク様、勉学をいたしましょう」
「えぇ……」
 エメラードが答える前に、にこにことユリアが言う。エメラードに遊んでほしくて言ったのであって、勉強などしたいはずもない。
「ああ、それがよいと思う。ス……いや、君も文字くらい読めたほうが便利だろう」
 なんということか、エメラードはユリアの味方らしい。
(けど今、俺の名前呼びかけた?)
 もしや。スク様スク様と言うユリアにつられているのだろうか。それはちょっと楽しみである。
 彼が呼ぼうとしないのは、看守と囚人という関係だからだろう。そこをぶち破って、うっかり呼ばせてみたい。
「さあ、まずはやってみましょう。スク様もお気に召されるかもしれません」
 ユリアの顔は善意にきらめいている。
 いっそ意地悪な顔をしていればよかったのだが、これではスクも断れない。彼女をどう扱って良いのかわからない。
(ラズウェル)
 頭が痛む。
 思い出したくもない、だがスクがそう思うということが、証明だ。
(俺の故郷はたぶん、ラズウェル)
 生きる中で忘れてしまった故郷の名前。恐らくそうだ。否、だから何なのだ。
 自分にはもう関係のないことだ。彼女が同朋を求めているとしても、知ったことではない。
「文字をお書きになったことはあるのでしょう?」
 聞かれてスクはエメラードを見た。別の国の言葉なら読めると、他でもないスクが彼に言ったのだ。
 逆に、彼以外の誰にも教えていない。
「……他国の言葉なら読み書きできるようだと、陛下にお伝えした」
 エメラードが少し気まずそうに言うので、スクはむっとした。忠臣ならば忠臣らしく、罪悪感などわずかも持たずにいればいいのに。
「そ」
 怒るようなことではない。話したのはスクであり、秘密にしておきたいなら話すべきではなかった。
 スクは後悔する。
 こんなことになるとは思わなかったのだ。
(偶然……? まさか)
 黒髪黒瞳はラズウェルに限った特徴ではない。彼女は期待しているのかもしれないが。
「書けるけど、書きたくない。昔のことは思い出したくない」
「まあ、そうですの」
 彼女はおっとりと頷いて、追求してはこなかった。しかし残念そうな表情をしている。
(聞き出したかった?)
 わからない。
 か弱い女性が囚人の侍女を喜んでやるなど、とても考えられない。彼女はそこまでの変わり者に見えない。しかし目的があるにしても、多少は不満が態度に出てもいいはずだ。
 ユリアはスクにどこまでも柔らかく接する。
「ではまずこちらから。……この文字を百回書いてくださいませ」
「は?」
「百回です。この丸みだけは最初に上手に書けるようにならなければ、将来美文字を書けないと言われています」
「いやいやいや、美文字書けなくていいし……」
「何をおっしゃいます!」
 どこまでも柔らかかった侍女が、急に強く声をあげた。
「大事なことです。文字が汚くては馬鹿にされ、周囲の評価も得られません」
「あー……のさ、俺の立場わかってる……?」
「スク様は陛下のご寵愛深きお方です」
 そういう話ではないが、まずそこにも疑問がある。
「寵愛って、何をもって」
 するとルシアは表情を緩め、ゆったりと話し始めた。
「陛下の後宮に、どれだけの方がいらっしゃるかご存知ですか?」
「……知らない。いっぱいいるんだろうけど」
「百十二名です」
「えぇ……」
 色狂いの王とは有名だが、そこまでとは思わなかった。
「待って、それ、全員……? 一年に三日ぐらいずつ?」
「まあ。単純計算ではそうですが、実際にはすでにお年を召した方や、ほとんどお渡りのない方がいらっしゃいます」
「だよね……」
 きっと片っ端から後宮に押し込んで、名前も、存在も忘れているような女もいるのだろう。そうとしか考えられない。いくらなんでもお盛んすぎる。
「ですが、一人の寵姫様にそれぞれ侍女がつきます。その侍女も、もちろん陛下のお手つきとなることが可能です」
「え?」
「つまりやはり、陛下との時間はそうそう勝ち取れないものとなりますわね」
「……」
「だというのにスク様、あなた様の元へは、三日とおかず渡っておられます」
「渡るっていうか……」
 悪趣味な出歯亀に来ているだけだ。それもスクにではなく、エメラードに会いに来ているのだろう。後宮のお渡りと比べることが間違っているのだ。
「贈り物もしておられます」
「……まあ、いいよ。わかった。寵愛されてる感じになってるよ」
 現実はともかく、形としてはそうなっている。部屋を賜り、調度を整えられ、侍女までつけられている。
(何がしたいんだか)
 エメラードの立場を貶めたいのかと思ったが、エメラードは全く気にした様子がない。そのくらいに、もっとひどい扱いしか受けてこなかったのだろう。
(きれいなのに}
 どう考えてもスクを小綺麗にするより、エメラードを小綺麗にしたほうがいい。もう限界なんだろうか?
 そんなことはない。
(疲れた顔をしてるし)
 目の下にうっすらとくまが見える。かわいそうだ。
(……っていうか)
 そのさまさえ妙にそそるものがある。顔がいい。
「スク様、であるからこそ、陛下のご期待に応えねばなりません。あなた様はそのような立場におなりです」
「え、えー。なりたくないんだけど」
「それでも、より多くのものを受け取ることがあなたのためです。おわかりでしょう?」
「……まあね」
 スクはため息をついた。
 それが庶民の生き方というものだ。取れるときに取っておかなければ、良いときは二度と訪れないかもしれない。
「その最も大きなものが、学習です。さあスク様、ペンをお持ちになって」
「……わかったよ」
 諦めた。
 これほど情熱的に言われては、スクに拒絶する理由はない。なにしろ暇なのだ。



「彼女はとても良い教師だな」
 エメラードが感心したように言った。その彼女は休憩に茶と菓子を用意するといって部屋を出ていった。エメラードより早く準備を終わらせるに違いない。
「……なんなの、あのあふれる……やる気?」
「良い教師とはそういうものだ」
 どうやらエメラードは彼女を気に入っているらしい。スクはなんとなく斜めな気分になって、顎をあげてエメラードを見下ろした。
「ああいうのが好みなんだ」
「好……、ちがう、そういう話ではない」
「ふうん?」
 エメラードが動揺しているが、それを楽しむ余裕はなかった。むしろ更にイラッとした。
「なぜそうなるのかわからない……。良い教師は、良い教師だ」
「悪い教師よりは好みなわけだろ」
「それは悪い教師よりは……いや……悪い教師にも色々あるのではないか?」
「じゃあ悪い教師の方が」
「……彼女が女性だからと、すぐにそういった考えになるのは、よくない。彼女が男性だったらどう思う?」
「……なんでそうなるわけ」
 なぜに男性体のユリアを想像しなければならないのだろう。
 あまりにおかしかったので、つい想像してしまった。彼女は女性の中でも細身のように思えるので、男になっても細身だろう。そして情熱を持ってペンを握らせようとする。
「なんというか……」
 今より鬱陶しい気がした。
「考えてみたか?」
「うん……そうだね。暑苦しさが増すから、男じゃなくてよかったよ」
 と、エメラードは首を傾げた。
「暑苦しいのは嫌いか」
「嫌いというか、鬱陶しいかな」
「そうか……すまないな」
「……何が?」
「私は騎士であるから、暑苦しいだろう」
「……つながりがわからないんだけど」
「鍛えているから、圧力が……特に鎧を着ていると、子供などにはよく怯えられる」
 だからスクは子供ではない。
 それにエメラードはそこまでゴリゴリに鍛えているという厚みでもない。
「身長はあるけど」
 鎧を着て威圧感が出るのは誰でもだ。
 そう告げる前にルリアが戻ってきた。危なげなくティーセットを乗せたトレーを片手で持ち、扉を開く。
 その仕草も美しいが、ティーセットの並びまで美しかった。計算されつくしているのがスクにだってわかる。
「……わあ」
 思わず声をもらすと、彼女はにこりと笑った。
「この国の茶会の正式なものをお持ちしました。さ、スク様、席におつきになって」
 まだ授業は続くようだ。
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