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Ⅰ
聖母被昇天の大祝日、八月十五日を控えて
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昭和二十年八月九日。
午前十一時二分。
永井緑は、自宅の台所に立っていた。向き直り、しゃがんで身構える。爆弾を落として飛び去る際に米軍機の放つ鋭い爆音が、頭上より聞こえてきたからだった。
程なく、長崎浦上の中心に位置する松山町の上空約五百メートルで、プルトニウム型原子爆弾が炸裂した。ぴかっ、と鮮やかすぎた。白く青く赤く光って視界を塞ぐ。しゃがんだままで頭に両手をやりかけた緑は、全身に甚だしい高熱を感じた。爆心地から自宅である森山の屋敷まで、六百メートル強。すでにこの時点で、木造家屋を通り抜けたほぼ致死量の放射線と中性子線の照射を受けている。千度を超える熱線の直射による即死は免れたものの、鉄筋でない建物の屋内にいた緑は、助かりようがなかった。
次の瞬間、どん、と耳をつんざかんばかりの爆音とともに、居間のステンドガラスが割れ、床の間におかれている白磁の聖母マリア像が砕けながら倒れた。斜めに崩れ落ちてきた一階の天井の直撃を受け、緑は気を失った。
燃えている飛散弾体片が、瓦のすっかり吹き飛ばされた二階の屋根にめり込む。緑が生まれ育ち、夫の隆と結婚して以降も住みつづけている森山の屋敷は、爆風で潰されて燃えはじめた。
木の焼ける音と臭いで目を覚ますと、緑はかまどが天井を支えているお陰で保たれた空間に収まり、尻もちをつかされていた。あたりは暗いが、頭から流れる血でにじんだ視界は、火の明かりで赤く照らされている。落ちた天井と台所の土間の隙間に、投げ出された家財道具や折れた障子などが散らばっていた。足もとに隆の弁当箱とフライパンが転がり、釜がひっくり返っている。夫婦茶碗がそろって割れていた。
(家が爆弾の直撃ば受けたとやろうか。ばってん、あの凄まじかった閃光は……まさか、広島ば壊滅させたていう、新型爆弾じゃなかろうか? そがんやったら、あの人のおらす大学病院もやられとる)
緑は、生き埋めになった我が身より、白血病を患いつつも物理的療法科(レントゲン科)部長として、かつ一医者として任務に励んでいる夫を案ぜずにはいられない。
(マコトとカヤノは、三山木場の借家に疎開させとる。いくら新型爆弾ていうても、六キロも離れとれば、やられとりはせんに違いなか。おばあちゃんもついとるけん、子どもたちは大丈夫。まずは、あの人ばい。とにかく、ここから早く脱け出して、大学病院にいかんば)
とはいえ、緑は台所のかまどと流しの隙で尻もちをついたまま、身動きが取れない。頭は落ちた天井に押さえつけられている。その上で、原形を留めていない二階の部屋が燃えていた。首に、両の肩や手足に満身の力を込めてみても、どうにも動くことができない。濡れ羽色の髪と接している天井板に、火が燃え移ってくる。緑は、煙にむせはじめた。頭が熱い。すっかり倒壊した屋敷全体に、炎が広がりつつあった。
(うちは、このまま、焼け死ぬるとやろうか。警報の合間に、御堂で告白ばすませといてよかった)
八月十五日の聖母被昇天の大祝日を控えてのことだった。「被昇天」とは、聖母マリアの死後に霊魂と肉体が天国に引き上げられたことをいう。
緑は、もんぺの衣のうからロザリオを取り出して祈った。
「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈りたまえ」
さらなる煙にむせて咳込む。
(うちは、生涯で犯した罪もろとも焼かれて、天国にいけるやろうか。うんにゃ、まだいかれん。大学病院にいかんば。あの人の無事ば確かめるまでは、死なれん)
緑は、銃後まげの椿油が馴染んだ黒髪から燃えはじめた。
(熱か、痛か、息の苦しか、あなた、あなたあなたあなた……)
黒かすりの上衣と縦じまのもんぺに燃え広がる。全身を炎に包まれ、緑は再び気を失った。
午前十一時二分。
永井緑は、自宅の台所に立っていた。向き直り、しゃがんで身構える。爆弾を落として飛び去る際に米軍機の放つ鋭い爆音が、頭上より聞こえてきたからだった。
程なく、長崎浦上の中心に位置する松山町の上空約五百メートルで、プルトニウム型原子爆弾が炸裂した。ぴかっ、と鮮やかすぎた。白く青く赤く光って視界を塞ぐ。しゃがんだままで頭に両手をやりかけた緑は、全身に甚だしい高熱を感じた。爆心地から自宅である森山の屋敷まで、六百メートル強。すでにこの時点で、木造家屋を通り抜けたほぼ致死量の放射線と中性子線の照射を受けている。千度を超える熱線の直射による即死は免れたものの、鉄筋でない建物の屋内にいた緑は、助かりようがなかった。
次の瞬間、どん、と耳をつんざかんばかりの爆音とともに、居間のステンドガラスが割れ、床の間におかれている白磁の聖母マリア像が砕けながら倒れた。斜めに崩れ落ちてきた一階の天井の直撃を受け、緑は気を失った。
燃えている飛散弾体片が、瓦のすっかり吹き飛ばされた二階の屋根にめり込む。緑が生まれ育ち、夫の隆と結婚して以降も住みつづけている森山の屋敷は、爆風で潰されて燃えはじめた。
木の焼ける音と臭いで目を覚ますと、緑はかまどが天井を支えているお陰で保たれた空間に収まり、尻もちをつかされていた。あたりは暗いが、頭から流れる血でにじんだ視界は、火の明かりで赤く照らされている。落ちた天井と台所の土間の隙間に、投げ出された家財道具や折れた障子などが散らばっていた。足もとに隆の弁当箱とフライパンが転がり、釜がひっくり返っている。夫婦茶碗がそろって割れていた。
(家が爆弾の直撃ば受けたとやろうか。ばってん、あの凄まじかった閃光は……まさか、広島ば壊滅させたていう、新型爆弾じゃなかろうか? そがんやったら、あの人のおらす大学病院もやられとる)
緑は、生き埋めになった我が身より、白血病を患いつつも物理的療法科(レントゲン科)部長として、かつ一医者として任務に励んでいる夫を案ぜずにはいられない。
(マコトとカヤノは、三山木場の借家に疎開させとる。いくら新型爆弾ていうても、六キロも離れとれば、やられとりはせんに違いなか。おばあちゃんもついとるけん、子どもたちは大丈夫。まずは、あの人ばい。とにかく、ここから早く脱け出して、大学病院にいかんば)
とはいえ、緑は台所のかまどと流しの隙で尻もちをついたまま、身動きが取れない。頭は落ちた天井に押さえつけられている。その上で、原形を留めていない二階の部屋が燃えていた。首に、両の肩や手足に満身の力を込めてみても、どうにも動くことができない。濡れ羽色の髪と接している天井板に、火が燃え移ってくる。緑は、煙にむせはじめた。頭が熱い。すっかり倒壊した屋敷全体に、炎が広がりつつあった。
(うちは、このまま、焼け死ぬるとやろうか。警報の合間に、御堂で告白ばすませといてよかった)
八月十五日の聖母被昇天の大祝日を控えてのことだった。「被昇天」とは、聖母マリアの死後に霊魂と肉体が天国に引き上げられたことをいう。
緑は、もんぺの衣のうからロザリオを取り出して祈った。
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さらなる煙にむせて咳込む。
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緑は、銃後まげの椿油が馴染んだ黒髪から燃えはじめた。
(熱か、痛か、息の苦しか、あなた、あなたあなたあなた……)
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