緑燃ゆる

斗有かずお

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 Ⅲ

 定めの別れ

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 緑は、緑の霊魂は、気がつくと宙に浮いていた。
 焼けてちぎれた布切れや紙切れが、木枯らしに似た風に舞いながら牡丹雪のように落ちてくる。空は厚い原子雲に、あたりは土煙におおわれ、太陽の光がさえぎられて薄暗い。
 金比羅山は、緑の色を失っている。爆心地から五百メートル強の距離にある浦上天主堂は、二つの鐘楼を吹き飛ばされ、崩れている。見わたす限り、浦上の町は破壊されている。あらゆる夏の緑も消えている。代わりに、あちらこちらで赤い炎が盛り、眼下では森山の屋敷がごうごうと燃えている。裏の小さな森をなしていた木々は、枝葉もろとも幹をもがれ、火の手が上がっている。榎と楠の大木も、同じ高さで折れ、吹き飛ばされている。
 原子雲から幾筋もの光が射していた。カトリック信者の数多の霊魂が、天国へ召されていく。緑の叔母も、近くで昇天していた。
《おタケおばも、家の下敷きになったとばいね。ばってん、よかったね。天国にいけて。そがん手招きばするとは止めて。うちは、まだいかれんとよ》
 緑のもとにも光が降りてきた。早世した長女と三女とともに。
《ああ、イクコ、ササノ。ごめんね、ごめんね。お母さんは、まだこっちに残らんばとよ》
 可愛いらしい翼の生えている二人の娘を両手で優しく抱きしめた後に、緑は宙に浮いたまま、かけ出した。
《とにかく、あの人のもとにいかんば。大学病院にいかんば》
「お母さーん」、「お母ちゃーん」と緑の好物の郁李の実を手にしている長男が、緑手製の衣服を着せた人形を抱いている次女が、三山木場の借家の縁側から叫んでいるのがわかった。
《マコトも、カヤノも、無事でよかった。お母さんは、お父さんば助けにいくけんね》
 人家も、医科大学の校舎も、木造の建物はことごとく潰され、燃えている。横じまの煙突の一本が曲がっているものの、迷彩の施されている大学病院の鉄筋の建物はいずれも崩れていないようだった。
 緑は、一安心するも、燃え盛る炎に飲み込まれそうな無数の死体や負傷者が眼下に倒れていることに気づいた。裂かれた服を着ている者もいれば、裸の者もいる。髪が縮れている。顔が黒焦げになっている。眼球が飛び出ている。手足や胴体が赤く黒くふくれ、皮がずるむけになっている。腹が裂かれ、腸が露出している。首がもがれた死体もある。血塗れの子どもの片方しかない手が引きつっている。
 助けて、水が欲しか、寒か……とかすかな声が聞こえてくる。緑は、素通りするのに耐え難くなり、酸鼻の極みの原子野の地面に降りようとしたが、寸前のところで叶わない。負傷者にも触れられない。ごめんなさい、ごめんなさい……と謝ることしかできなかった。
 爆心地から六百メートル強の距離にある長崎医科大学付属病院は、鉄筋コンクリートの原型こそ留めてこそいたものの、爆風で窓ガラスがことごとく砕かれ、建物内部をかきまわされていた。本館大玄関前広場に人体らしき物が立ち、座り、あるいは転がっている。緑は、目をそむけて空を見上げた。なおも厚い原子雲でおおわれている。
《よかった。生きとらした……》
 隆は、本館一階の大廊下にいた。二階のラジウム室で、教材として講義で使うレントゲン写真を整理していた最中に被爆し、造作なく窓ガラスを突き破った爆風に吹き上げられ、天井板、棚、机、椅子などの下敷きになり、一時的に生き埋めになったものの、なんとか自力で脱出して物理的療法科の教室員と合流していた。無数のガラス片切創が、白衣の右半分と右足のゲートルを血で染めている。
 久松婦長が隆の頭部に斜めに巻かれた真っ赤な三角巾を取り、台湾人で新米の施医師が傷口にヨーチンをぬって圧縮タンポンをつめた。二人がかりで新しい三角巾を固くしめなおすも、血は止まらない。白地に赤い同心円を描いていき、頬やあごからしたたる。
《右のこめかみの大きく割れとらした……。ばってん、あなたは、この状況じゃ休んどりきらんよね》
 大廊下は、がれきと死体と負傷者であふれている。外来診察時間中だったので、本館内に無数の人がいた。投げ出され、服をはがされ、皮を裂かれ、肉を切られ、骨を絶たれ、血にまみれた上に土ぼこりをかぶった負傷者が、至るところでうめいている。放心した看護婦が、泣きながら歩く。気の狂った医学生が、怒鳴りながら走る。他科の教授と助手が、そろって逃げていく。大学病院は、想像すらできなかった現実に対応しかねている。
 隆は、森山の家に急ぎ帰って緑の無事を確かめたいが、長崎医科大学の医療隊副官兼第十一救護班長に任ぜられているので、踏み止まって指揮をとらねばならなかった。炎が迫り、吹き抜けの窓から火の粉が入り込んでくる。動ける教室員は皆、隆の指示を待っていた。
《まずは、あなたが平常心ば取り戻さんと》
 隆は、妻の声をそばで聞いたような気がし、勇気を得て開き直り、負傷者の応急手当を教室員とともにはじめた。緑は、出血多量でふらつく夫に付き添い、励ましの声をかけつづける。
《あなた、このまま大学病院の中におったら、危なかごたる。火のなかところに逃げんば》
 浦上の町は、大きな赤い森と化しつつあった。空をおおう原子雲も、燃えているかのように赤黒い。大学病院も、全館に火がまわりつつあり、多くの窓から煙や炎が噴き出ている。
 隆は、本館内にいる歩行困難な負傷者や入院患者をいったん大玄関前広場に集めた。大学病院から西に下った長与道付近でうねりを上げている大きな火柱が、傾いてはあたりの空気中の酸素を奪い、火片をまき散らす。東にそびえる金比羅山は、幸い炎が立っていない。隆は、教室員に指示し、山腹の畑に負傷者等を担いで避難させることにした。
 隆は、ひん死の中年女を背負った。女のすすにまみれた髪に、椿油の匂いがかすかに残っている。隆の胸が焦がれた。
「緑……」
《うちは、ここにおります……》
 夫のかたわらで、緑はうつむいた。
 負傷者等を集めている芋畑は、すっかり葉や茎を吹き飛ばされていた。視界に入ってくる山々も、その腹やふもとにある畑も、緑の色を失っている。浦上の無数の小さな丘や谷に立つ木々は、ことごとく折れ、吹き飛ばされた枝葉や草もろとも燃えていた。
 森山の家がある丘の付近一帯も燃えていた。立派だった屋敷も、小さくもこんもりと美しかった森も、炎に飲み込まれて区別がつかない。
「緑も、たぶん駄目ばい……。今日に限っては、大学病院で見かけんやった」
《……》
 緑は、夫の丸まった背中を見つめながら沈黙せざるをえない。
 隆は、めまいを覚えた。次なる負傷者等を、もう背負えそうにない。数度の応急手当の甲斐もなく、こめかみからの出血は止まらなかった。多量の放射線を浴びたため、宿酔に似た症状もある。
「なにもかも、お終いばい……」
 大学病院も――これまでの研究の成果も、苦楽をともにしてきた器械等も――、炎に包まれてしまった。見わたせば、浦上の町は真っ赤だ。ゆれていた視界が反転する。隆は、芋畑のすみで仰向けに倒れた。暗赤色の原子雲が目に映る。緑は、即座に寄り添ったが、夫に触れることを許されない。
《だれか、だれかきて!》
 近くにいた施医師が、隆の急変に気づいてかけ寄る。芋畑に登ってきた久松婦長も、担いでいる負傷者を寝かせた後に飛びつく。二人は、変色しきった三角巾をほどくも、手の施しようがない。鮮血は、こめかみからあふれつづける。隆は、遠のいていく意識の中で妻を想っていた。緑の霊魂はそばにきて久しいが、気づくことを許されない。
(御堂に告白にいって、ゆるしばいただいたとやろうか)
《いただきましたよ。今朝方、空襲警報の発令される前にいってきました。あなたは、今日の午後にいくはずだったとでしょう。だけん、まだ死んだらいかんとです》
 緑は、宙に浮き上がり、あたりを見まわした。二段上の芋畑で別の救護班を指揮している顔見知りの調外科教授を見つけ、飛んでいく。調教授は、血まみれで倒れている隆とその一同を目にし、かけつける。緑は、かたわらで祈った。側頭動脈を緊縛する手術が成功し、ようやく出血は止まった。
 別の負傷者の手当へと去っていく調教授に、緑は丁重にお礼の言葉を述べた。胸を撫で下ろし、頭部に包帯を幾重も巻かれて横になり昏睡している夫を見守りつづけた。

 明くる十日の早朝、原子雲は去っていた。真夏の青天が現れつつある。昏睡から目覚めた隆は、なんとか上体だけを起こし、金比羅山の腹から浦上の町を見下ろした。田畑や草木の緑も、家並も消えている。工場はひしゃげた鉄骨だけが残っていた。無数の小さな丘や谷は白い灰におおわれ、崩れた天主堂から昨夜半に上がった炎が紅一点をなしている。点在する鉄筋の建物が、段々の石垣が、かろうじて道が確認できた。森山の家は、中程で折れて焼けた二本の大木の幹しか残っていない。
(森山の家の緑も、すべて、燃えつきたごたる……。オイは、これから、どがんすればよかとやろうか)
 隆は、また意識を失った。崩れるように、上体は芋畑に臥した。
《……》
 緑は、ふかでを負った夫のために、他の負傷者や死者のために、隆のそばでただ祈りつづけることしかできなかった。
 昼下がりにいったん目覚めた隆は、米軍機が空からまいたビラで、よもや完成に至っていまいと思っていた原子爆弾が浦上に投下されたことを知り、また昏睡に陥った。

 翌十一日、しゃく熱の太陽の下で、隆は教室員を指揮した。大学病院内に仮設された陸軍病院に負傷者等を運び、無数の死体をだびに付す。緑は、座っていてもふらつく夫に付き添い、皆に祈りをささげつづけた。
 一段落ついた夕方に、隆は一面の焼け野原を森山の家へ向かってよぼよぼと歩いた。暗赤色の染みの目立つ包帯からのぞいた顔は青白く、左手で杖代わりの木切れにすがっている。身につけている妻手製の防空服はいくつも裂け目があり、血や土で黒く汚れて刺さったままのガラス小片が橙の夕日をかすかに反射していた。
 焼けた瓦や鉄くずや骨が目につく。焦げた南瓜が点在している。赤れんがの大聖堂も壁の一部だけを残して焼け、左塔の鐘楼が北の崖下に落ちて高尾川の流れをふさいでいた。隆は、灰の積もった石畳の小道を歩く。
《願わくは死せる信者の霊魂、神の御あわれみによりて安らかにいこわんことを》
 緑は、死者への祈りを唱えながら夫の後を追う。
 門の石柱は、二本とも吹き飛ばされている。こんもりした小さな森で二つの核をなし、枝葉が競い森山の屋敷の二階の屋根をおおっていた榎と楠の大木は、十メートル程の高さでそろって幹が折れ、焦げていた。均等な厚さの白い灰が、雪のように積もっている。壊れて焼けたタイル張りの風呂場と五右衛門釜、セメント製の流し。波佐見焼の夫婦茶碗のかけらが付着し合い、転がっている。崩れたかまどの前に、釜がひっくり返っている。ねじれたフライパンとアルマイトの弁当箱の後ろに、積み重なるように黒い骨の塊があった。常に緑の身につけられていたロザリオの鎖が、すぐそばに転がっている。珠は、焼けてなくなっていた。
 緑は、初めて自分の骨を目にした。同時に緑の霊魂は黒い塊に吸い込まれた。
 隆は、がっくりと両膝をついた。木切れを放って骨を拾い上げる。緑は、夫の両手に抱かれた。隆は、その場に泣き伏した。さめざめと泣いた。
 焼けたバケツに骨を納め、左腕で抱く。妻のロザリオの鎖を首にかけた隆は、傷を負った右手で木切れをつき、墓地に向かってよろよろと歩き出した。
「緑……順番が逆やなかね。三年後に、オイが骨壷に入って、お前に抱かれるはずやったとに……」
《……》
 黒い骨の塊は、沈黙する。
 結婚して十一年の間、夫婦のいさかいは滅多に起こらなかった。隆は、知人や同僚にしばしば妻自慢をしたものだった。
「お前は、家族と隣人のために働き抜いて、報われることもなく、原子爆弾の炎に燃えてしもうたね」
《うちは、当たり前のことばしよっただけです。好きな裁ほうのできて、好きな医者の仕事や研究に打ち込むあなたと、子どもたちと、おばあちゃんと、カトリック信者の皆と、この美しかった浦上の町で暮らせれば、それだけで幸せやったとです》
 隆は、枯れたはずの涙を再び流し始めた。
《マコトとカヤノとおばあちゃんば残して死んでしもうて、ごめんね》
《もう服ばぬってやれんで、ごめんね》
《もう身のまわりの世話ばしてやれんで、ごめんね》
《もう看病ばしてやれんで、ごめんね》
《もう弁当ば作ってやれんで、ごめんね》
 緑が謝るたびに、夫の腕の中で、焼け焦げた燐酸石灰は哀愁を帯びた音色をかもす。
 永井家の十字の墓石も、爆風で吹き飛ばされていた。隆は、その地面がくぼんだ穴に妻の骨を納める。
「……緑、お前まで失ってしもうた。オイは、これから、どがんすればよかとね」
《私なりに考えてみたとですけど、あなたは、これからも医者として、医学博士として、なすべきことばすればよかて思います。原子爆弾で傷ば負うて苦しんどる人ば、一人でも多く救ってあげてください。症状と対処法ばまとめて、論文ば書いてください。この浦上の惨状も、記録に残してください。あなたなら、きっとできます。あなたでなければ、できんかもしれません》
 天から緑のもとに再び光が降りてきた。
《ああ……そろそろ、私はいかんばごたる》
 緑の霊魂は、骨の塊から抜け出た。洗礼名マリア、永井緑は、両手を胸の前で重ねて上方に視線を向け、桃色の雲に乗って赤と青と紫の混ざり合った天へ昇りはじめた。両脇には、今日もイクコとササノが迎えにきている――。

 隆は、明くる日から九月半ばまで三山木場の借家を拠点に、浦上から逃れてきた被爆負傷者の救護活動を教室員とともに行い、十月に「長崎の鐘」の原案にもなった「原子爆弾救護報告書」を長崎医科大学長に提出する。翌昭和二十一年一月に物理的療法科教授に昇進するも、やがて病床に親しむようになり、物を書くことによって二人の子と老義母を抱えた生活を再建しようと決意する。最愛の妻の命を無下に奪った原子爆弾の恐ろしさと平和の尊さを訴えつつ、カトリックおよび医学の見地も交えて「ロザリオの鎖」、「この子を残して」などの随筆集他を残し、浦上が再び緑燃ゆる町へと復興する様子を被爆後六年近くにわたって見守ることになる。(了)

 参考文献
『永井隆全集』 講談社
『長崎の鐘はほほえむ』 永井誠一著 女子パウロ
『娘よ、ここが長崎です』 筒井茅乃著 くもん出版
『永井隆の生涯』 片岡弥吉著 サンパウロ
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