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双子月
しおりを挟むタヤワ山は、国と国の境にある。
東のルベナ王国と、西のカルル連邦。どちらの地図にもその頂は描かれず、古くから「天に最も近い山」として語られてきた。
私は今、その山にいる。
旅の道すがら、辺境の村で一夜を過ごした際、タヤワ山の名を耳にした。
伝説があるという。月がふたつ現れる夜が、年に一度だけ訪れると。
そう聞いて、足を止めずにいられるほど、私は穏やかな旅人ではない。
登山には案内人が必要だった。地元の紹介で出会ったのが、シャクという若者である。色黒で、背は高く、陽に焼けた笑顔の似合う青年だった。
「俺、シャク! 山なら任せてくれよ、子どもの頃から駆け回ってたんだ。」
よく通る声で笑い、荷物を肩にひょいと担ぐ。おそらく私の荷よりも重いそれを、彼はまるで空気のように軽々と扱った。
その元気さに、私はすっかり助けられながら登りをはじめた。
登り二日目の夜、私たちは焚き火を囲んで食事をとっていた。空には早くも満月の兆しが浮かび、夜風が静かに吹いていた。
そのとき、シャクが持ってきた干し果実を私に渡しながら、こう言った。
「なあ、シームさん。タヤワ山の伝説、知ってるか?」
「少しだけ。月が二つ現れる……とか?」
「おっ、知ってたんだな。でもさ、本当に見たやつはいないんだ。」
彼は焚き火の明かりの中で目を輝かせた。
「俺のばあちゃんが言ってたんだ。タヤワ山のてっぺんに立って、誰にも話しかけずに夜を越えられた者にだけ、双子月が見えるって」
「話しかけずに?」
「そう。静かに、黙って、自分の中の声を聞くんだってさ。……あれ、なんだか神秘っぽくないか?」
彼はいたずらっぽく笑って見せた。
登山はきつかったが、シャクの明るさと冗談に助けられ、気がつけば私は笑っていた。
「なあ、シームさん。もし、二つ目の月が見えたら、何を願う?」
「……願い事、か。旅を終えずに済むこと、かな。」
「それ、願い事じゃなくて“呪い”じゃないか?」
二人で笑った。静かな、心地よい夜だった。
そして、山頂に立ったのは、それからさらに一日後のことだった。
月は満ち、夜は晴れわたり、風は一筋の音も立てなかった。
私は焚き火を遠ざけ、シャクにも「しばらく喋らないでいよう。」と頼んだ。
彼は笑顔でうなずき、「じゃあ俺は少し離れて星を数えてる。」と言ってくれた。
そして、私は空を見上げた。
——月が、ふたつ……あるような気がした。
明確には見えない。
けれど、満月のとなりに、淡い影のような光が確かに漂っていた。
雲ではない。星ではない。
それはもう一つの月——「隠された月」の名にふさわしい、輪郭のない存在だった。
言葉にはできぬまま、私はただ、見つめ続けた。
月はやがてその影を閉じ、静かに夜空に溶けていった。
戻った焚き火のそばで、シャクが眠そうに目をこすっていた。
「どうだった?」
私は少しだけ笑って、答えた。
「……見たとは、言わないでおくよ。」
「そっか。でもシームさん、顔が変わってる。」
「そうか?」
「うん。旅人じゃなくて、ちょっとだけ詩人みたいな顔だ。」
翌朝、私たちは無事に山を下りはじめた。
タヤワ山の双子月は、やはり「伝説」のままだ。だが、誰かが見たかもしれない。誰かが、語らなかっただけかもしれない。
もし、あの淡い月が本当にあったのなら——
それは、語るためのものではなく、心にだけ残すためのものなのだろう。
──タヤワ山の帰り道にて記す
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