シームヘルの手記

高穂

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邂逅

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 私は、ナベリア帝国を目指していた。
 
 かつて十七の王国を束ね、今なお風を操る塔と知の学舎を擁するその都は、旅人にとって憧れであり目的地であり、ある者にとっては物語の終わりでも始まりでもある場所だ。

 私は、できるだけ早くそこに辿り着きたかった。
 そこで西の密林を抜ければ、街道を通るより七日も早いと聞いた時、私は迷わず「近道」を選んだ。

 後悔はしていない。
 あの出会いがあったのだから。

 

 密林は深く、濃く、そして沈黙していた。方角を示すはずの陽は枝葉にさえぎられ、足元の泥は獣の足跡すら呑みこみ、風は息をひそめていた。

 私は完全に道を失った。

 だがそれ自体は、珍しいことではない。旅の中で迷うことなど、幾度となくある。問題は、その後だ。

 陽が傾きはじめた頃、私は倒木に腰を下ろし、水を口に含みながら地図を開いていた。

 そのときだった——背後の草が音を立て、私は本能的に振り向いた。

 そこにいたのは、人ではなかった。

 節のある肢、漆黒の光沢を帯びた殻、煌く複眼。さらに数体が木陰から姿を現した。私は即座に剣の柄に手をかけたが、先頭の一体がすっと掌のような部位をこちらに向けた。

 それは、敵意のない合図だった。

 音が発された。
 
 キィ……コッ……と擦れるような、だが明らかに意思のある音声言語。

 その中の一体が一歩進み出て、我々の言葉をたどたどしく話した。

 「……旅人……迷った……?」

 「そうだ。私はシームヘル。帝国へ向かう途中で、道に迷ってしまった。」

 少し間を置いて、彼は胸に手を当てた。

 「……我、エルグァス。ナウロス。……昆蟲族」

 私は瞬きした。

 「昆蟲族……ナウロス……」

 その名は、かつて古文書の中で見たことがある。
 遥か昔に“姿を消した森の民”として記されていた種族。まさか、本当に存在していたとは。

 「私に敵意はない。ただの旅人だ。迷っただけで、あなた方に危害を加えるつもりはない。」

 エルグァスは私をじっと見つめ、そして一歩下がると、静かに手を差し出した。

 導くように。

 私は、その手についていった。

 密林の奥。それは“集落”という言葉では到底表現しきれぬ、神秘の空間だった。

 巨大な樹の幹には繭のような住居が張りつき、枝と枝を繋ぐ橋は葉と蔦で編まれ、足元には青白く光る苔が生えていた。風に揺れる細い鈴が、森の息づかいのように音を奏で、幹には翅の模様を思わせる文様が刻まれていた。

 そこには多くのナウロスたちがいた。

 殻を持つ者、羽をたたむ者、鮮やかな紋を背負う者……。
 
 子どもらしき小さな者たちは跳ねながら葉の広場を駆け回り、大人たちは木の実を磨き、巣を修繕し、ある者は大樹の根元で祈るように静かに座していた。

 言葉は交わされない。
 だが彼らは、音と光と身振りで、確かに意思を通わせていた。

 
 私は焚き火の前に通され、火のように赤い果実と、香草の香る温かな飲み物をもてなされた。エルグァスは隣に座り、言葉少なに私を見つめていた。

 静かだった。
 だが、どこか深いところで、心は結びついていた。

 
 夜はやがて深まり、星も見えぬ森の空に、風だけが音を運んでいた。私はその夜、どんな宿よりも、安らかな眠りについた。

 

 翌朝、エルグァスが私を起こし、何も言わずに荷を手渡してきた。私たちは森の外れまで歩き、やがて木々の隙間からナベリア帝国の塔が見えたとき、私は立ち止まって言った。

 「ありがとう、エルグァス。私は、あなたと……ナウロスのことを、忘れない。」

 彼は胸に手を当て、小さくうなずいた。
 そして、名も呼ばず、振り返らず、森へと帰っていった。

 

 今、私はナベリア帝国の北門の前にいる。

 森で出会った「もうひとつの知性」への敬意として、記しておきたい。

 


 道を失った時、それは絶望ではない。
 
 それは、まだ知らぬ誰かと出会うための入り口なのかもしれないのだ。

 


──ナベリア帝国・北門前にて記す
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