シームヘルの手記

高穂

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物語は生きる

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 ナベリア帝国に辿り着いた。
  
 旅を始めてから幾つの川を越え、いくつの森を抜けただろう。道中で命を狙われたこともあった。だが今、私はこの都の城壁の内にいて、青く高い尖塔を見上げている。

 ナベリア帝国――知の帝都。

 この地には無数の研究所がある。それはただの施設ではない。学問そのものが街の骨格をなしているのだ。

 
 歴史研究所では、砂漠の石板や古墳の壁画から、過去の王朝の言葉を復元している。
 
 神話研究所では、各地に残る精霊信仰や天界譚を集め、伝承の根にある「神の原型」を探していた。
  
 薬学研究所は、山奥の苔から新たな治癒薬を抽出しているというし、人間学研究所では、子どもの遊びと老いの暮らしを並べて「人間らしさ」の変遷を記録している。
 
 そして工学研究所——この都における最も賑わいのある場所の一つでは、空を飛ぶ機械の模型や、音に反応して動く器具が、まるで魔法のように開発されていた。

 知識とは、書にとどまらず、街に息づいている。通りすがりの果物売りの老婆が植物分類の話をし、靴を磨く少年が、「解剖学って知ってますか?」と真顔で尋ねてくる。

 
 この都では、知ることが誇りなのだ。

 
 街を歩くたびに、私は息を呑む。白煉瓦の路地には風が抜け、建物の屋根には数式が刻まれ、壁面には寓話の断片が浮彫になっている。
 
 午前には街角で詩が読まれ、午後には広場で演説がなされる。

 そして夜になると、酒場が開く。

  私は、ある酒場へ入った。
 
 「香風亭(こうふうてい)」と呼ばれる、学者や旅人、時に貴族までもが立ち寄る場所だ。

 中は木の香りと温かい灯りに包まれ、酒瓶が棚に並び、耳慣れぬ言葉の応酬が飛び交っていた。
 
 私は一角の席を借り、酒を一杯頼むと、やがて誰かがこう言った。

 「その格好、遠くから来たな? 物語を聞かせてくれよ、旅人。」

 

 私は語った。
 深い森で道を失ったこと。
 ナウロスという昆蟲族と出会ったこと。
 タヤワ山の双子月。
 海で見た海竜。
 
 それらすべてが実在すると信じる者と、笑って否定する者と、目を潤ませる者がいた。

 だが不思議と、誰一人として席を立たなかった。この都では、信じるか否かより、“語られること”そのものに価値があるのだ。

 
 酒が進み、話も尽きた頃、一人の老学者が私の隣に腰を下ろして言った。

 「記録に残すには惜しい話だ。だが君が語り続ける限り、どこかで誰かがそれを事実にしてくれるかもしれんね。」

 私は笑ってグラスを掲げた。

 「ならば、語り続けましょう。」

 

 今、私はこの手記を、宿の窓辺で記している。
 外では、朝の鐘とともに若い声が研究所へ向かう。
 知の都は、静かなる情熱に満ちている。

 

 剣や地図ばかりが旅ではない。時にこうして、語ることに耳を傾けてみてほしい。物語こそが、世界を照らす灯りなのだから。

 
──ナベリア帝国・香風亭の宿より記す
    
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