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白い革命
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あと三分で午前四時になる。僕は煙草を消して外へ出た。海沿いの国道なので風が冷たい。誘導棒の明かりをつけてヘルメットを被る。移動式投光機の明かりを頼りにユンボで採掘をしているのが見え、先に立っていたスギヤマさんが僕に気がつくと、「こりゃまだまだ終わらねえな」と苦笑いをした。そして僕にトランシーバーを渡すと標識車へと歩いていった。
だだっ広い三車線の道路を、今日は二車線を規制している。規制帯には六トントラックやもう少し小さいトラック、ユンボが入っていて規制の前後に一人ずつ立って交通誘導をしている。僕ら交通規制工は三人で、休憩は一人ずつローテーションで回している。現場へ向かうとき、班長のヤナガワさんが「長くなるから、休憩は四十五分で回そう」と言っていた。だいたいにおいて三十分で回すのが相場だが要するに規制図に書かれている人数、立っていればいいので今日のように長くなることもままある。
車はほとんど通らず、遠くにタワーマンションやランドマークが建ち並んでいるのが見えて、なんとなく無機質な空しさを感じた。ただただ重機がうなる音だけが響き、潮風が体温を奪う。作業着の中にフリースやダウンベストなどを着込んできたのだが、なにもせずに立っているだけなのでやはりどうしても寒かった。もう四時だし、あとちょっとの辛抱だと法定速度をはるかに超えて走り去るトラックへ誘導棒を振りながら独り言つ。
作業をしている様子を見ていても、進んでいるのかどうなのかさっぱりわからなかった。穴を掘って、深さを測って、たまに写真を撮って……そしてまた掘る。分離帯を挟んで反対側の道を、下品にカスタムしたバイクが轟音をあげて走っていった。疲労と眠気とでこたえている身体にはきつかった。前の日の昼間も現場に入っていて、そのまま夜勤でこの現場なので気を抜くと眠ってしまいそうだった。
次の休憩まで特にやるべきことはない。車が来たら誘導棒を振って、たまにコーンが倒れていたりしていないかを見たりして。要するにただ立っていればいいのだが、本当に立っているだけではダメだというところが難しい。いろいろ思案が浮かぶが考え込むとやってきた車を見落としてしまったり、作業している人の指示を聞き流してしまったりするからだ。かといってぼうっとしていると眠くなる。なので、なるべくどうでもいいことを考えるようにしている。それもなるべく楽しいことを。たとえばこの現場が終われば、明日は丸一日休みだ。朝に帰ってきて、少し寝て、それからなにをしようか、といったようなことを考える。ゆっくりと読みかけの本を読むでもいいし、たまには映画を観に行くのもいいかもしれない。書店に足を運ぶのも楽しい。気の済むまで寝ているのもいいだろう。平日なので外へ出かけるのもよし、家でゆっくりするのもよし。土日に外へ出るのは嫌いだ。人混みが苦手なので必要以上に疲れてしまう。しかし今日明日は平日だ。自由な時間に加え選択肢も広がっている。僕は自由なのだ。
しばらく明日のことを考えていた。車はほとんど通らなかった。作業は続いている。時計を見ると交代してから三十分経っていた。スギヤマさんはこの仕事を始めてもう五、六年になるらしい。自営業をやっているのだけどそれだけでは経営が厳しく、空いている日にこうしてこの仕事をしていると言っていた。「最近はヒマだから、こっちの仕事ばかりでどっちが本業だかわからないよ」とよく笑っている。それでも昔はその仕事でかなり稼いでいたらしく、移動中によく当時の話をするが、僕くらいの歳のころはかなり羽振りのいい生活をしていた。すごいですねと相槌を打つが、僕は取り立てて羨ましいとは思わなかった。まだ若いんだからとはよく言われるがなにせ時代が違う。がんばれば報われるわけでは決してない。ヘタをすれば登った矢先にハシゴを外されてしまうことだってある。それはスギヤマさんだってわかるはずだ。僕はそういうときは返す言葉もなく曖昧な笑みでごまかす。
高校生のころも大学生のころも、やりたいことも特になく、いつも図書館で本を読んでいた。高校ではバンドをやっていたが、卒業と同時に遠ざかってしまった。僕は大学生のような、こういう生活が続けられればそれでよかった。だから適当に大学に入り、なんとなく過ごして、四年になっても就活はせず、卒業すると居酒屋のバイトを始めた。しかし騒がしいし忙しいしですぐにやめた。それからコンビニやパチンコ屋、カラオケ、ネカフェなどを転々として、いまは交通規制工に落ち着いている。
テレビの砂嵐のようなノイズが聞こえた。首から下げたトランシーバーからだと気づくのに時間がかかった。耳に当てて聞き返す。ヤナガワさんの声だった。作業終了らしい。走って先頭まで行くとヤナガワさんがトラックが出るのを誘導していた。光っ子取って! と言われたので隅に置いてあるカゴを持って回収を始めた。カゴにはロープがついていてそれを引きずりながら光っ子と呼ばれている保安灯をコーンから外してカゴへ入れていく。スギヤマさんも駆け足でこちらへやってきた。スギヤマさんは台車を転がしながら僕の後ろでコーンを回収する。
設置と撤去はかなり急いで行われる。走っていないと怒鳴られる。僕はそんなに急いでいたら危ないし、どうせあとは帰るだけだから、と思うのだがどうやらそうはいかないらしい。走って保安灯を外していくがなかには固くてなかなか外れないものもあり、手こずっていると怒鳴られるのではとさらに焦る。だいたい二百メートルくらいの規制帯をダッシュするので結構しんどい。前を見るとヤナガワさんが標識車の後ろの件名板と言われる工事情報看板、工事説明看板を片付けていた。ようやくそれに追いつき、カゴを標識車の荷台に乗せるとすぐに警告灯を片付けて交通誘導ロボットを解体した。ヤナガワさんは荷台に乗っていて、スギヤマさんがクッションドラムを持ち上げてそれを受け止めている。僕ももうひとつあるクッションドラムをヤナガワさんに渡す。それからスギヤマさんと二人で畳んだタロウを持ち上げてヤナガワさんに渡した。コーンはすでに片付けてあり、残るのは矢印板だけだった。棒振って! とヤナガワさんに言われたので最後尾まで走ってそこで大きく誘導棒を振った。スギヤマさんが急いで矢印板を片付ける。乗って! と言われ僕も走って標識車へと乗り込んだ。
乗るやいなやトラックは走り出し、僕はフロントガラスに頭をぶつけそうになった。ヤナガワさんがギアを操作しながら思いっきりアクセルを吹かして走らせている。Uターンをしてさらに加速する。作業していた道路を過ぎて信号が黄色になったところでまたUターンをした。そしてトラックを左に寄せると僕とスギヤマさんは飛び降りて工事予告板を回収した。僕は走って「百メートル先」と「五十メートル先」を回収した。看板はガードレールに紐でくくりつけてあり、手袋をしていると縛るのも解くのも手こずる。僕も最初はなかなかうまくいかず遅せえよとよく怒鳴られた。
二枚の看板を抱えて二百メートルをダッシュする。そしてトラックに積み込み、ロープで南京縛りをして固定させた。すぐに乗り込んで終わりましたと言うとトラックはまた荒々しく走り出した。撤去作業終了。ヤナガワさんが携帯でその報告をする。スギヤマさんは真ん中で煙草を吸っていた。
「今日は早く終わりましたねえ」
スギヤマさんがそう言うとヤナガワさんは笑いながら煙草に火をつけて、いっつもギリギリまでやるのにと返した。僕はそれを聞きながら誘導棒とチョッキの電気を消して、ヘルメットを外した。少し汗をかいていた。
トラックはETCレーンを通過して首都高速に乗った。時計を見ると五時手前だった。対向車線で工事をやっていた。
「二車線規制ですか……」
「終わらねえんだ」
「高速は嫌ですよねえ」
道路は空いておりトラックはぐんぐんスピードを上げて走っている。六時までに着くかなあとヤナガワさんが言った。走行車線と追い越し車線を行ったり来たりして、レースゲームのように車を抜いていく。
ヤナガワさんはおそらく一番の古株だ。よく「二級」と言われている交通誘導警備業務検定二級を持っている。日勤も夜勤もこなしていて、トラックの中で仮眠を取ってそのまま現場に行ったりもしている。そのためかいつも疲れていて、なにかにイライラしているような印象で、現場が一緒だと独特の緊張感がある。特に撤去や帰りの車内ではそうだ。
僕は煙草に火をつけた。獰猛に走るトラックの窓からは海が見える。気が遠くなるほど大きな倉庫や外に並べられたコンテナ、空まで届きそうなクレーンの数々。それらが流れていくとマンションの郡が見える。よく電車の広告にある「高級」を絵に描いたようなマンション。まだこんな時間なのにちらほらと明かりが灯っている。朝食の時間だろうか。きっとそこに暮らす人たちは、いつも僕が食べているそこらへんのスーパーのプライベートブランドの安い食パンなど食べることはないだろう。瀟洒な街の通りに面したベーカリーで買ってきた、一口で食べられるようなパンが五、六百円くらいする店の食パンを食べていることだろう。ジャムだってアヲハタではないだろう。わからないが、セレクトショップみたいなところで買った直輸入の、僕には味も想像できないようなジャムを食べているのだろう。僕にはアヲハタだって高級なジャムだというのに……。
埼玉の外れにあるボロいアパートに帰る道すがら、こうして上流国民の暮らしを想像するのも楽しい。村上龍の小説のような、クスリをキメてバカみたいに高いシャンパンを水よりも粗末に扱って女を酔わせて人格を破壊するようなえげつないセックスに興じる、やらないにしてもやろうと思えばできる金持ちの生活に思いを馳せ、僕はパソコンでストリーミング配信されている画質の荒いエロ動画を見ながら粗末なものを握っているのがせいぜいだと思うと、ある種のマゾヒスティックな快感を覚える。
ヤナガワさんとスギヤマさんも外を見ながら話している。ここは昔はただの海だったのにとかあそこのマンションのそばに大きな道路が通るらしいとか。まるでそのマンションにはひとつひとつ、それぞれの暮らしがあることを認識していないかのような話し方だった。それから話題は同僚の悪口へと移った。使えない、一緒に入りたくない、という言葉がよく出てきて僕もいないところではそう言われているような気がした。ため息と一緒に紫煙を吐き出して、吸殻を灰皿に捨てた。
前の車が遅いと、その度にヤナガワさんは舌打ちをして追い越す。なにに彼はそこまで急き立てられているのだろうか。
「今日は……日勤あるんですか?」
スギヤマさんがそう尋ねるとヤナガワさんはこれから日勤と夜勤があり、明日は明日で夜勤があると答えた。へえ、とスギヤマさんは笑った。
首都高速を降りてすぐのガソリンスタンドで給油をした。このときに発電機と携行缶にもガソリンを入れる。僕は荷台に登ってそれを行った。
「ピッタリに入れてね」
スギヤマさんがニヤニヤしている。僕はメーターを見ながらレバーを調節して、千円ピッタリになるように入れる。メーターはゆっくりと上がっていき、あと四円、三円、二円……
結果は一円オーバーだった。まだまだ甘いねとスギヤマさんは笑っている。僕も一緒に笑った。いいから早く乗ってと言うヤナガワさんの声は苛立っていた。
午前六時過ぎ、資材置き場兼駐車場といった、砂利の広場にトラックを止め、僕はサイドミラーを畳んで右前輪のタイヤに輪止めをした。ヤナガワさんから日報を受け取り、そこに名前を書いて今日は解散だった。お疲れ様でしたと言って僕は原付を走らせた。
空気が冷たく張り詰めていて顔に受けると切り裂かれそうな感覚がした。それでも仕事終わりの開放感から、気持ちは高揚していた。途中で二十四時間営業のスーパーに寄って、半額以下にまで値引きされた弁当を買った。昨日の夜の値引きでもまだ売れ残った弁当だ。おそらくコンビニではとうに廃棄されていることだろう。しかし傷んでいるわけでもなし、こうして夜勤明けの日には重宝していた。弁当を足の間に置いてさらに原付を走らせる。とにかく熱いフロに入りたかった。それから少し寝て、そのあとのことはそれから考える。
アパートに着き、部屋へ入った。まず暖房をつけてから、浴槽にお湯を張った。熱湯を出してから水を少しずつ出していって温度を調節する。手がかじかんでいてよくわからなかったが手を温めながら水をひねっていく。温度でいえばいまの季節なら四十二、三度くらいのお湯がいいのだが、ウチには温度設定できる設備はない。なので感覚で湯温を決める。
お湯を張っている間に買ってきた弁当を食べた。今日はそぼろとたまごの二色弁当だ。割り箸を入れると固くて折れそうだった。ごはんは四角く固まっていて、それを箸で寄せてかぶりつくように食べる。口の中で少し温まり、味がするようになる。古いせいで乾燥しており、喉につっかえそうになるのを水で流し込む。
食べ終わったころにはフロにお湯が溜まっていた。作業着を脱ぐと、まだ部屋は温まっておらず、寒さで歯が噛み合わず身体が震えた。スピーカーを持ち込んでとにもかくにも湯船に入った。芯まで凍りついた身体が徐々に解けていく感じがした。全身の表面がお湯の熱でチクチクと刺激されている。包まれるような温かさに思わず目を閉じた。そのまま力を抜いて身をあずける。お湯の熱がだんだんと身体の中にまで入っていく感じがして、寒さと労働で凝り固まった筋肉がほぐれていくのがわかった。
終わった、と天井を見上げて呟いた。長い一日だった。日中は水道管の交換のために片側交互通行の規制をした。トランシーバーでやり取りをして行く車や来る車を誘導する、神経を使う現場だった。その後会社のトラック置き場の正面のコンビニで弁当を買って、トラックの中で食べたあと、夜勤の現場へと向かった。長くて寒い、皆が嫌がる現場だった。
狭い浴槽で、胎児のような格好でお湯に浸かっている。姿勢を変えて伸びをすると筋肉がほぐれて急に血行がよくなったせいか少しクラクラした。寒い寒い現場のあとの、この熱いフロが僕にとってとても幸せなひとときだ。
スピーカーからはパガニーニ『ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 作品7 《ラ・カンパネラ》』の第1楽章が流れている。あいにく楽譜は読めないし知識もまったくないが、なんとなく無数の音符(オタマジャクシ)が軽やかにかつ、伸び伸びと踊っている姿が浮かんでくるようだ。ときに死んだかと思わせられるが、すぐにまた踊りだす。再び目をつむれば晴天の下、草原が一面に広がっている。宙を待っているオタマジャクシはキラキラと輝いていて、白昼の星のようだ。無秩序に、各々が自由に踊っているかと思えば、ときに息を合わせて隊列を作って擬態することもあった。それはクジラだったりキリンであったりと様々だ。第2楽章へと移り場面は深海に変わる。深い青の中で緩やかに泳いでいる。そして彼らは一斉に光のある方へと昇っていく。闇にも似た青からだんだんと淡い光が溶けた透明なコバルト色へと変わり、やがてオタマジャクシは海面を飛び出して空へと舞った。海原で天使のように踊っている。風雅だと思った。空で舞い、純白の太陽とひとつになり、砕けるようにして消えた。
目を開くと、じんわりと汗をかいていることに気がついた。浴槽から上がるときにまた少しクラクラとした。こわばっていた身体はすっかり軽くなり、ポカポカしている。さっさと身体を洗ってシャンプーを済ませてフロから出た。
昼過ぎに目を覚ました。身体は軽く、頭もすっきりとしている。布団から出てベッドに腰をかけた。煙草を吸う。カーテンから光が滲んで淡く部屋を照らしていた。さて、これからどうしようか。
煙草を咥えたままコーヒーメーカーでコーヒーを淹れた。サンアントニオプレミアムショコラの甘くて香ばしい匂いが、凪いだ海のような穏やかな福音に思える。カップをテーブルに置くと、僕はCDの積まれたラックから一枚選んでコンポにセットした。ラフマニノフ「2台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』」を一度手に取ったが、なんとなくふと目に付いたjizue『Bookshelf』が聴きたくなってそちらをセットした。
カーテンを開けて再びベッドに座り、リモコンで音楽を再生した。煙草を消してコーヒーを一口飲む。陽だまりで緩やかな時間の流れを感じていると思わずため息が漏れる。ピアノとギターの美しい調べに身をあずけて、ゆりかごで眠る赤子のように旋律に揺られながら口にするコーヒーは苦味さえも優しくて、僕は目をつむり、そのまま後ろに倒れ込んだ。
ふいに、この前の休みの日に飲みに行った友人の言葉が耳をかすめた。お前、このままじゃまずいぞ、と。その目には僕に対する明らかな優越感があった。子どもを躾ける親の気持ちという表現では綺麗すぎる、もっと劣悪で愚かな、そして差別的なニュアンスをふんだんに盛り込んだ眼差しだった。彼は友人として、できるだけそれを隠そうと努めていたが、己の内から湧き上がる承認欲求に惜敗し、ついに僕はそれを見破った。僕はジム・ビームのロックを舐めた。喉が熱くなると同時にロッジにいるような木の温もりを舌で感じた。友人は言った。いまのままでずっといられるなんて考えが甘すぎる。
僕は腕を組んで考えるフリをした。敢えて俯いて、呟くように確かにそうだよなと口にした。友人は新車ディーラーとして支社でかなりの成績を上げているらしく、こういう客にこうして買わせた、という話から始まり、交渉のときの心理術の話になり、僕はそれを感嘆して聴いていた。するとどういうわけかいつの間にか僕の仕事の話になり、非正規のガードマンという彼と比べればおそらくは世間一般でもこちらに票を入れてくれる人はごく少数であろう僕の生活に彼は忠告めいた発言を始めた。確かにそうだよなという僕の呟きに対して、彼はいまからでも正規の仕事を見つけろよと、いささか熱っぽく言った。そうだねえ、と僕は返す。
「『私たちにとって、清貧とは自由を意味しています。清貧こそは私たちの力であり、幸福の源なのです』マザーテレサの言葉だよ。なにも金だけが人生じゃない」
「詭弁だ」友人は吐き捨てるように言った。それからスマホを取り出して、なにやらいじりはじめた。
そういえば、彼は最近子どもが生まれたらしい。スマホで写真を見せてもらった。「すやすや」という言葉がこれ以上ないくらいに安らかに眠っている姿はとても愛らしかった。僕がかわいいねと言う前に、マジで天使だよこの子はと彼が言った。この子のためなら、って思うと仕事にも張りがでるんだよ。
僕は組んでいた腕を解いてまたウイスキーを舐めた。子どもかあと、僕は独り言つ。すると友人は自分のスマホをこちらに向けて、生まれたばかりの自分の子どもの写真をスライドして見せてくれた。しばらく見ていたが、僕はゆっくりと背中を背もたれにあずけてまた腕を組んだ。視線は画面のまま、感歎詞を口にしながら煙草に火をつけた。
彼はスマホをしまうとまた僕に向き直った。そしてまた、僕に向けて今度は先ほどのような躊躇いはなく、不躾と言っても差し支えない、まるで正義は完全にこちらにあるとでもいいたげな様子で言った。お前、結婚なんてできねえだろ。
僕は煙草の煙を吐き、ゆっくりと灰を落とした。煙草を灰皿に置いて再び腕を組んだ。まあ、結婚したいとは思ってないからね。
「『結婚は鳥カゴのようなものだ。カゴの外の鳥は餌箱をついばみたくて中へ入りたがり、カゴの中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる』モンテーニュの言葉だよ。僕は自由でいたいんだ。だから結婚はしない」
「それは『しない』んじゃなくて『できない』からだろ?」
「確かにいまのままではそうだよ。でも、そもそもしたいと思ってないんだから、現状を変える理由がない。僕はそれなりにいまの生活を楽しんでるからね」
彼はふんと鼻を鳴らした。くだらねえと小さく呟いたのを僕は聞いた。
彼はキューバリバーの残りを飲み干してマッカランのロックをダブルで頼んだ。僕はジントニックを頼んだ。店員がいなくなるとお互いに口を開かなかった。僕はミックスナッツをひとつまみ口に入れて咀嚼した。彼は不機嫌そうになにかを考えているようだった。
店員が来て酒を置いていった。僕らは黙ってそれに口をつける。やっぱり居酒屋のジントニックは飲めたものではない。僕はよくひとりで行く近所のバーのジントニックの味を思い出していた。学生のころに通い始めて、そこでジントニックを飲んだときの感動はいまでも忘れられない。ジンとトニックウォーターのバランスはもちろん、ほどよくステアされたことによる絶妙な炭酸の抜け具合、そして一口飲んだときの甘さとほろ苦さの妙。そのあとにそこはかとなくライムの清涼が訪れるあのジントニック。
メニューを見ながらマスターにいろいろ訊いた。これはどんなカクテルなのか、たとえばジンフィズとスロージンフィズの違いは、など。あとはウイスキーについても、おすすめを教えてもらい、飲みながらこれはどういうウイスキーなのかを訊いたりもした。
それから数年して社会人になってからもたまにその店に行くことがあった。あるとき店で流れていたジャズが僕の琴線に触れて、マスターに誰なのかを訊いた。狭間美帆というニューヨークで活動しているジャズアーティストらしい。なんとなくゴリゴリした、アドリブ合戦のようなイメージだったジャズが、このアルバムを聴いて一変した。静謐な華やかさを纏いながらもときに猛々しく聞き手を圧倒する、ダイナミックでかつデリケートな音楽だった。日本人だからということもあるのだろうか、とても入り込みやすくて楽しい印象だった。
マスターが狭間美帆の『ジャーニー・トゥ・ジャーニー』を流してくれて、それを聴きながら僕はギムレットを飲んでいた。
「今日はお仕事終わり?」マスターがグラスを拭きながら訊ねた。
「そうなんです。夜勤だったんですけど、少し寝てから来ました」
「へえ……仕事はなにをしてるの?」
「ガードマンです」
「あの、道路工事の?」
「そうですそうです」
「大変だよねえ……怖くないの?」
このときは繁忙期で、昼も夜もなく働いていてようやく作れた自分の時間だった。疲れているので寝ていてもよかったのだが、それでは味気ないと思い少し腹ごしらえをしてからバーで飲むことにした。マスターが話してくれるお酒やジャズの話はとても興味深くて、僕もジャズのCDを集めるようになった。バーはお酒を飲むだけでなく、いろいろなことを教えてくれる、とても貴重な場所だ。
視線を安いジントニックから友人へと移す。と、目が合った。相変わらず不機嫌そうな表情だった。彼は大きくため息をついた。お前も変わっちまったな。
ジントニックをすすっていると友人は言った。
「お前の、ほら、高校のときのライブ、覚えてるだろ? あのときの勢いはもうないのか? お前はまだやれると思うんだよ。俺はお前が好きだから、またお前のあのときみたいなカッコいいところが見たいんだよ」
昔のことだとは口には出さなかった。確かにあのときはとても楽しかった。がなりたてるような友人のギターに、負けじと食らいついていくベース。そして先頭をきって突き進んでいくようなドラム。僕はボーカルとして、その演奏陣に負けないように必死に叫び続けた。
高校生のころ、僕と友人は軽音楽部に入っていた。友人とはそこで知り合った。友人がギターを持ち練習を重ねて上達していくのを尻目に、僕は持っているギターでなにをすればいいのかがわからなかった。なし崩し的にバンドを組むことになり、一年生のころの最初の視聴覚室でのライブで、弾けないままステージに立ち、散々な結果に終わった。同時にそのバンドもそこで解散となり、それから僕はギターを弾くことはなかった。
バンドもなく、ひとりで活動するわけでもなく、僕はローディーとして在籍していた。機材を運んだりセッティングしたりと文化祭や新歓のときのライブの準備を手伝ったり、音響を担当したりしていた。学年が上がってもそれは変わらず、後輩のライブのために裏方として働いていた。
二年生の三学期、先輩の卒業ライブが数ヶ月先に控えての、部内で行う視聴覚室でのライブのときだった。僕は相変わらず音響を担当していて、横でステージを見ていた。そこへ友人がやってきて僕の耳元で言った。
「つまんねえライブだよな」
友人はこのころでは部内でも中心的なバンドのギタリストとして活躍していた。歌もうまいので、ボーカルをやることもあった。確かに、友人のバンド以外のライブはまるで発表会のような代物で、見ていても面白くもなんともなかった。
「お前ならやれんだろ?」
薄暗い中だったが、友人の目が意地悪く、そしてなにか確信に満ちた輝きがあるのがわかった。僕はふっと笑ってしまった。僕は楽器できないから。
「歌え」友人は言った。「俺がギター弾いてやるから、お前は歌え。ドラムとベースはアテがあるから、卒業ライブに出るぞ」
卒業ライブ当日。SEが流れる。映画『ゴッドファーザー』の『愛のテーマ』だ。ゆっくりとメンバーが持ち場につく。僕はステージの真ん中に立った。見回すと観客の表情がひとつひとつわかるようだった。お前になにができる、ろくにバンド活動もしてこなかったくせに、また去年みたいな酷いライブになるんじゃねえの……気のせいだと思いたいが、全員がそう思っているような気がしてならない。後ろを向く。ドラムが笑いながら頷く。ベースは静かに親指を立てた。ギターを見ると、彼は「行くぞ」と言った。僕はPAに手を挙げて合図をした。静寂が広がり、あたりが暗くなる。
スネアの音がして、直後、爆音が静けさを蹴散らした。『デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ』。ギターリフが始まると僕は叫んだ。すると歓声が上がり、拳を突き上げて観客が応えてくれた。僕はその瞬間、身体中からいままで無意識のうちに積もっていたあらゆる感情がはじけて飛んでいくのを感じた。その勢いのまま僕は歌い続けた。
このライブのために僕らは部活の活動時間ではなく、放課後にスタジオに入って秘密裏に練習を重ねた。だから観客である部員たちは僕らがどういうライブをやるのか、そのときになってみないとわからない。そして、僕らはコピーするバンドにミッシェルガンエレファントを選んだ。
ライブは成功し、それから僕らは定期的に行われるライブハウスを貸し切ってのライブに出るようになった。評判は想像以上によく、僕らの代の卒業ライブではトリを務めることになった。
あのときのエモーショナルな感動を忘れたわけではない。ただ、あれはあのときにしかできないことで、恒常的にできるものではない。事実、高校卒業と同時に音楽からは遠のいてしまった。いまでも聴くのは好きだが、またライブをやるとなると話は違ってくる。大学に入り、僕は昔から本を読んでいたが、さらに多くの本を読むようになった。
そう、あのライブはもう、昔のことなんだよ。
乱暴に煙草に火をつけて気だるそうに紫煙を吐く友人を見て、僕は胸の内でそう呟いた。
目を開くとそのときの友人の、怒りとも違う、悔しさとも違う、とにかくやるせない気持ちでいっぱいの顔がぼんやりと天井に浮かんでいた。
Jizueのアルバムが終わろうとしている。僕は起き上がって冷めたコーヒーを飲んだ。小さくため息をつく。変化なんかいらない。僕はそう思う。これ以上、なにを望むべくもない。
CDをトレイから出してまたラックにしまった。僕はキッチンで鍋に火をつけた。お湯を沸かしている間にラヴェルのピアノ協奏曲をかけた。そして、狭いキッチンなのでコンロと流しに間がなく、流しにまな板を渡してそこで鷹の爪を切ってニンニクをみじん切りにした。灰皿を持ってきてキッチンで鍋を見ながら煙草を吸う。『泥棒かささぎ』でも口笛で吹けば、もう少し違う人生だったかもしれないが、僕はその曲を知らない。
第一楽章が終わるころ、お湯が沸いた。パスタを鍋に入れて塩をそこへ加えた。第二楽章を聴いていると、本当においしく出来上がるのか不安な気持ちになってくる。ゆらゆらと茹でられているパスタ。憂いを帯びたこの第二楽章は、パスタの気持ちなのではないか。あるいは乾燥して固くなっているのを、お湯を通して柔らかくなり踊るように茹でられている、ある種のメタファーなのではないか。
と、そこへスマホの着信があった。僕はしばらく無視をしていたが、一向に止む気配はない。十三回鳴らせたところで電話に出た。まさかとは思いながらも、内心はやや緊張していた。電話に出ることで変な事件に巻き込まれるのではないか。
出るとなんのことはない、明後日の現場が中止になったとの連絡だった。
ふっと笑ってしまった。くだらない。コンロから鍋をあげてまな板の上に置いた。電話のせいで茹で過ぎたこともなく、順調に進んでいる。今度はフライパンにオリーブオイルを入れて、そこへ鷹の爪とニンニクを加えて火にかけた。弱火でゆっくりと炒める。次第に香ばしい匂いがたちこめてきた。鞭の音が聞こえた。軽やかで楽しげな旋律が流れていく。パスタの鍋から少しお湯をすくってフライパンへ入れた。弾けるような音がして、僕はそれをなだめるようにフライパンを揺する。それからパスタをフライパンへ入れてトングで手早く混ぜ合わせる。塩を加えて味をととのえて盛り付けたのと同時にピアノ協奏曲が終わった。
CDをしまってテレビをつけた。ふいに映画が観たくなったので『黒いジャガー』を流した。車の流れる大通りを我が物顔で横断するシャフト。ワウを効かせたシブいギターリフが彼のタフさを物語っている。
出来上がったペペロンチーノは少し味が薄かった。コーヒーメーカーのポットからコーヒーを注いで、それで流し込む。うまくないパスタには苦いコーヒーがよく合う。塩を足しながら食べて、コーヒーの最後の一口でようやく食べ終わった。
食器を片付けて映画の続きを観た。観ながらスマホでSNSを見ていると、様々な書き込みの中でニュース記事のリンクと一緒に「こんなクズが世の中に存在させているのが悪い。さっさと死刑にすればいい」という書き込みがあった。その人のほかの書き込みを見ると芸能人の不倫スクープ記事にも下世話な書き込みがされていて、僕は不快感と憐憫の情を抱いた。そして、その人をブロックした。
タイムラインに戻ると「いいね! の数だけハンバーガーを買ってきます!」とか「いいね! の数だけ質問に答えます」とか、どうにか拡散をさせようとしている記事が目に付いた。僕は煙草を吸いながらそういう人たちのフォローを外していった。彼らの気持ちはなんとなくわかる。流行らせたい一心なのだろう。しかしそれにしては悪手が過ぎる。これではどんなに拡散されたって、誰にも見向きもされない。ポスティングされるゴミ同然のDMのようなものだ。満たされていないのだな、という印象だけが残る。
SNSを見ているうちにパスタを食べたせいか、やけに眠くなってきた。僕はもう一度横になり、目をつむった。
夕方に目が覚めた。昼過ぎには新宿の紀伊國屋書店に行こうと思っていたのだが、いまから行くのもおっくうだ。しかし、さりとてなにを買うでもなし、まあいいかと僕は煙草に火をつけた。
煙草を吸いながら僕はまた、以前友人に言われたことを思い出していた
お前、このままじゃまずいそ。
彼がそう言うのならそうなのだろう。彼の中では。紫煙を吐き出して僕は時計を見た。午後六時の少し前だった。
夕食の準備をしようと思ったのだが、食欲がない。なんとなく飲みに行きたい気分だったから着替えて近所のバーに行くことにした。久しぶりにカクテルが飲みたかった。ギムレットには早すぎる時間だったが。
バーへは歩いて行ける距離だが、駅の反対口に出る必要がある。アパートのある住宅街からバス通りで出て駅まで向かう。平日の夕方ともあり、家路へ向かう人が多く通り過ぎていった。皆、足早に家路へと向かっている。一心不乱に。門限でもあるのだろうか。僕はこれから飲むお酒のことを考えながら悠長に歩みを進めていた。
陽は徐々に沈んでいき、ぽつりぽつりと街灯が点きはじめている。人々の一日が終わりを告げるころ、僕の一日は始まる。それはとても気分のいいものだった。
バス通りを真っ直ぐ歩いていくのだが、その途中の路地に軽トラックが駐まっていた。背面には「Bar リンドウ」と書かれていた。祭りなどでやっているケバブ屋のような佇まいだった。僕は路地へ入り、その軽トラックの様子を見に行った。会議室にあるようなパイプ椅子がひとつと、トラックの側面はカウンターになっていた。バーとあったが、ウイスキーやラムなどのお酒が並んでいるということはなく、マスターと思しき年かさ三十代後半といったところの端正な顔立ちの男が文庫本を読んでいた。カウンターの隅に間接照明が置いてあり、柔らかい光が胸懐に安らぎを与えてくれた。僕はすみませんとマスターに声をかけた。文庫本を閉じて、どうぞと言い、僕に席を勧めた。言われるがままパイプ椅子に座ると、マスターはカウンターの下からジンを出してグラスに注いだ。僕は発する言葉もなくただただマスターがお酒を作るさまを見ていた。
トニックウォーターを注ぎ、軽くライムを絞ってそれをグラスへ入れ、ステアすると僕の前に置かれた。ジントニック。僕はそれに口をつけた。甘いジンの風味が慰めてくれるような優しさで、ライムの香りに抱擁してくれるような温かさを感じさせられた。
「『自然は、われわれを幸せにするために、体の器官をうまく整えてくれたが、自惚れまでおまけにつけてくれた。われわれが自分の欠点を知って苦しまなくてすむように、こんな配慮までしてくれたらしい』」
グラスを置くとマスターは言った。ラ・ロシュフコーだよ。
僕はなにも言えなかった。黙ってジントニックに口をつけた。マスターは無表情だった。表情がないというよりは、淡々としていると表現したほうが適当だろう。
「それは、どういう意味ですか」
さあね、と返ってきた。それから
「幸せの第一の条件は、健康であること。しかしそれだけでは飽き足らず人は自惚れる」
グラスの氷が柔らかい音を立てた。
「君も誰かの自惚れによって嫌な思いをしなかった? 言われる筋合いのないことを言われたりさ」
ふいに、というかその言葉によって促されるように僕はこの間、友人と飲みに行ったときのことをためらいがちに話し始めた。マスターは表情を変えることなく聞いてくれていた。それがかえって心地よかった。
「『誰もが自分自身の視野の限界を世界の限界だと思い込んでいる』……ショーペンハウアーの言葉だよ」
僕が話し終えるとマスターは言った。
「もったいなことだよね。もっと深く知ろうとすれば、世界は広がるのに。それをしないで見えているものだけですべてを知った気でいる。君はどう思う?」
グラスを持ったがそれを戻して僕は考えた。『誰もが自分自身の視野の限界を世界の限界だと思い込んでいる』
その言葉がすべてなのではないかと思った。だから僕はなにも言えなかった。
「さっきの自惚れの話もそうだけど、自分の見えているものの中には自分の欠点は存在しないんだよね。――だから人は生きていける部分もあるんだけどね」
煙草の箱を出すと、そっと小さな灰皿を出してくれた。火をつけてゆっくりと吸い込む。マスターは氷を砕きはじめた。規則的に聞こえてくる音は寧静で、煙草を吸っている安らぎをさらに明媚なものにしてくれた。
僕はマスターのさっきの話を反芻していた。このままじゃやばいぞ、という友人の言葉を肯定するでもなく否定するでもなく、だけど僕にある種の光を与えてくれた。いままでコールタールのようなものが煮えていたのが、やがて冷えて固まり、そのまま心の奥で閉ざされていたものが再び温度を取り戻してドロドロと排出されていくような感覚だった。
飲み終わり、僕はマスターにギムレットを頼んだ。
「うちはジントニックだけなんだよ。それと、一杯だけしか出さないんだ」
僕は勘定をした。それから
「いつもここでやってるんですか?」
「さあ……君が飲みたくなればきっとまた来られるよ」
その日の仕事は銀座の中央通りの工事現場だった。三日ぶりの仕事だった。街灯を交換するらしく、その掘削の工事だった。片側一車線と歩道の一部を規制して、僕は歩道側に立っていた。歩行者が通るたびにどうぞと手で通行を促す。
連休は本を読んで過ごした。前に買った、書店でフェアをやっていて、それで買った恋愛小説だ。二日かけて読み終えた。それなりに楽しめる内容だった。
恋愛ねえ、と自分の現状を鑑みていると作用員から次の規制を指示された。僕はハッとしてコーンバーを外してコーンを重ねていき、それを次の規制場所へと運んだ。早くしろよと怒鳴られた。改めてコーンを設置してバーをそこへ取り付けた。作業員が機材を規制帯へ運び、作業が始まった。
再び僕は規制帯内で歩行者の誘導を行った。
夜の銀座は高踏的な人々が闊歩していて、僕の誘導など眼中に無いようだった。それでも僕は通る人が来るたびにどうぞと声をかけいった。
歩行者が来たのでまた声をかけようとすると、スギヤマさんだった。お疲れ様ですと言うと、三十分行ってきていいよと僕に言い、規制帯の中へ入った。僕はお願いしますと規制帯から出て、作業車へと向かった。
車はエンジンがかかっていて、暖房がついていた。僕はガラスを少し開けて煙草に火をつけた。今日はどのくらいで終わるのだろうか。車の時計では二十二時ちょうどだった。
三十分の休憩ではとくにすることがない。ほかの人は弁当を食べたりスマホでゲームをしたりしているが、僕は食事を済ませてから仕事に入るし、ゲームはやらない。誰かとコミュニケーションアプリでやりとりをするわけでもなし、ただただ煙草を吸って銀座の煌びやかな街並みをぼうっと見ているだけだった。
ゆらめく紫煙の向こうの景色は、あまりにも自分の生活とかけ離れていてまるで現実味がなかった。こんなところ、仕事以外ではまず訪れないだろう。全体、なにを目的に来ればいいのかさえわからない。周辺にはレストランやショッピングモール、飲み屋などいろいろな店があるが、わざわざここまで来るべくもない。
銀座という街が生活圏にある人たちというのは、一体どのような暮らしをしているのだろう。ステレオタイプの、いわゆる上流階級の生活が目に浮かぶ。しかし、過ぎていく人を見ていると、僕と同世代の人たちもいる。彼らは金持ちとは遠くはないだろうが、近くもないだろう。まだまだこれからの結果如何でそれが決まる。小奇麗なスーツを着て、シャンとした姿勢で、目は活力に満ち、将来への強い期待を全身にオーラのように纏っている。
煙草を消してため息をつく。ふと、僕は若い彼らは果たして幸せなのだろうかと考えた。人生は楽しいかというという問いにはおそらくイエスと答えるだろう。しかしそれが果たして幸せと直結するのだろうか。そもそも、幸福な生活とはなんなのだろうか。ショーペンハウアーの『幸福な生活とは何かといえば、生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである』という言葉。僕はこの言葉に大いに賛同するが、おそらく彼らは違う。もっと鮮烈で、激越で、闘争的なものを言うのだろう。
ペットボトルの二リットルの水を飲む。そして煙草に手を伸ばし、もう一度ため息をついて火をつけた。
人々はそのほとんどが誰かと連れ立っている。そして笑いながら街を行く。人間とは社会的動物であると社会学の講義で言っていたのを思い出した。「あなた」がいるから「わたし」が存在する。「あなた」という概念が無ければ、そもそも「わたし」という概念も存在し得ない。
人は一人じゃ生きていけないとはよく言うが、大局的に考えればそうだろう。しかしミクロな視点で考えれば、必ずしもそうとは限らないと思う。
笑い声が聞こえる。休憩時間が終わろうとしている。僕はヘルメットをかぶり直してチョッキの電気をつけて、誘導棒を持つと外へ出た。グローブをつけながら歩く。比較的暖かいが、それでも立ちっぱなしでは身体は冷える。ヤナガワさんのいる道路側の規制帯へ入り、交代した。よろしくねとだけ言って、さっさと行ってしまった。
通り過ぎる車には誘導棒で通行を促す。片側交互通行ではないので、車を止めることはない。作業の様子を見ると、ユンボで穴を掘っていた。ある程度まで掘ると、今度はスコップで掘る。電話線などがあるため、手作業でないと危険なのだろう。そして時折掘った深さを見て、大きなメジャーで数字を見て、それと一緒に写真で記録する。それの繰り返しだった。
当然、作業ばかり見てはいられないので、車のないときにチラチラと見るだけだったが、果たしていつ終わるのかはわからない。件名板には午前五時と書いてあるが、それはあくまで形式的なもので、そこまで作業をしていると規制帯の撤去が遅れてしまう。行政から許可を貰っているのがその時間までということで、その前に作業を終わらせなければならない。だから作業員は時間に追われていてピリピリしている。棒を振っているだけの僕は、どこか居心地が悪かった。運が良ければものの三、四時間ほどで終わってしまう場合もある。しかし、それは神のみぞ知る、といったところだ。
都会の生暖かい風が体温を隠然とさらっていく。車の交通量が減ってきて、僕は作業のほうを見ていることのほうが多くなった。歩道を見ると赤い顔をした人たちがおぼろげな足取りで過ぎてくのが見えた。腕時計を見ると二十三時をとうに過ぎていた。
冷えた体がこわばっていて、僕は伸びをした。首を上げて空を見た。ペンキで塗ったような厚い雲がのっぺりと、空を覆っていた。さっきと比べて空気に湿り気があるような気がする。
店の灯りは消えていき、それでも街は燦然と光り輝いていた。しかしどことなく今日という日の名残りがおぼろげになっていって、街は眠たげだった。飲み屋から出てきた人がやけに大きな声でまたお願いしますといったような意味の言葉を叫んで、地下鉄の構内へと入っていった。
スギヤマさんが来た。今日は早く終わりそうだねと笑っていた。僕には皆目見当がつかなかったが、スギヤマさんにはわかるらしい。僕はお願いしますと言ってチョッキと誘導棒の電気を切った。
作業車のフロントガラスが細かい水滴で覆われていた。降り始めていたのだろうか。気づかなかったが、ガラスを開けて手を伸ばすと霧雨が降っていた。中止にならないかなと淡い期待を抱いた。
外へ出て、自販機でコーヒーを買った。車内でそれを飲みながら煙草を吸った。二十三時半。いつもなら寝る仕度をしている時間だ。あくびが出た。それをコーヒーと煙草でごまかす。雨は次第に強まり、とはいっても小雨程度なのだが、それでも開けたガラスの隙間からは冷たい夜風が舞い込んでくる。甘ったるくて温かいコーヒーは凍えている身体にしみた。眠気を飛ばすには気休めにしかならないが、甘くて温かければそれでよかった。それと煙草。僕は一日で一箱は吸ってしまう。特に仕事のときは休憩時間といっても煙草を吸うくらいしかすることがないので本数は増える。
残りの休憩時間はあと十分だった。前からヤナガワさんが走って来るのが見えた。僕は急いでグローブをつけ、ヘルメットを被り、チョッキと誘導棒の電気をつけて外へ出た。撤去するよ! と言い、ヤナガワさんは規制帯へと走っていった。僕もそれに続いて走った。走りながら誘導棒をズボンのベルトにさしてグローブをつけた。すでに撤去作業は始まっていた。歩道側やって! とヤナガワさんが叫ぶ。僕は歩道のコーンなどを片付けていった。コーンバーを外してまとめておき、コーンを重ねていく。それを作業車へ積んでいく。それから、工事予告標識を回収して、ひまわり、タロウ、件名板を片付けた。僕は規制帯の先頭に立って誘導棒を振った。そのうちにスギヤマさんが矢印板(やいた)を片付ける。終わると走って作業車へと乗り込んだ。
撤去終了の報告をヤナガワさんが運転しながら行った。車は荒々しくがらんどうの道路を走っていく。○時を少し過ぎたころだった。
家に着いたのは一時半過ぎだった。フロに入ってすぐに寝た。次の仕事は日付が変わっているので、今日の夜勤だ。同じ現場なので、今回のように早く終わればいいなと思っているうちに眠ってしまった。
着信音で目が覚めた。寝ぼけ眼でスマホを取り、電話に出た。女の人の声だった。久しぶり、覚えてる?
まったく覚えていなかった。どうやら高校のときの同級生らしい。三年生のときに同じクラスになったと言っていた。話していくうちに僕もおぼろげに記憶が蘇ってきた。
「――いまは? 仕事してるの?」
僕は非正規だけどね、と答えた。
「それってさ、いまはいいだろけど、今後どうするの?」
わからないと答えた。
「私さ、お店をやりたかったんだよね。カフェなんだけどさ。夢だったの。それで、やっぱり資金って必要じゃない? それで知り合いから教えてもらって仕事を始めたの。難しい仕事じゃないよ。全然怪しくもないし。ほら、こういうので詐欺まがいみたいなのってよくあるじゃない? そういうのじゃなくて、ちゃんとした会社だし。それでそこで働いて、資金が貯まったからいまお店やってるんだ。よかったら来てよ! そこでその会社の話もしたいし。どうかな?」
僕は煙草に火をつけて、聞えよがしに紫煙を吐き出した。そしてもう一度、吸って、吐いた。
「悪いけど、興味ないな」
「このままでいいの? 失礼だけど、いつどうなるかわからないじゃん」
「うん。それでも俺はいいや」
彼女は、お金はあるに越したことはない、この仕事なら私みたいにほかにやりたいことをしながらできる、私は夢を叶えられた云々、激越な調子で捲し立てた。どうしてこんなに人は僕の人生をとやかく言うのだろうか。税金だって年金だって収めているし、ぽつりぽつりと貯金もしている。僕はいつもの調子で聞いていた。
やがて彼女は諦めたのか喋り疲れたのか、興味がわいたら連絡してと言って電話を切った。終話音は僕に苦い虚しさを届けた。僕はそれを煙草で誤魔化そうとした。
釈然としないが腹は減る。僕はジャガイモを一口大に切って、玉ねぎと一緒に電子レンジで加熱した。それを先に炒めたベーコンと一緒にして、塩コショウをする。味をみてブラックペッパーも加えた。冷凍しておいたごはんを温めて、いささか心にしこりを残したまま昼食をとった。
こんなときはカスピアンを聴くのがいい。刺激的なメロディとそれを覆うかのように鳴り響く轟音。静かでいてエモーショナル。無秩序なようで調和のある音。なにも考えずにただそれに沈むようにして聴き浸る。
心の中の乱された平静。カスピアンのメロディがそれを整えて、さんざめくギターが鼓舞してくれる。アルバムを一枚聴き終わるころには調子が戻っていた。
午後六時を過ぎたころに目を覚ました。いつの間にか寝ていたようだった。煙草を買いに外へ出て、そのついでになんとなく前にあった路地まで行ったが、そこにはなかった。あのジントニックの味を思い出していた。歩いて街のあちこちを探したが、どこにもなかった。
「また君が飲みたくなればきっとまた来られるよ」
マスターの言葉が蘇る。しかしどこにもない。僕は家路へとついた。その途中、もう一度路地へ入ったが、やはりそこにはリンドウはなかった。が、ちょうどリンドウの軽トラックがあった場所で女性がうずくまっていた。泣いているのだろうか。そっと近づいて様子を伺う。泣いているようではなかった。眠っている? 女性は微動だにしない。声をかけるべきか、逡巡した末、大丈夫ですかとなるべく冷静に言った。反応はなかった。もう一度言う。すると女性は顔を上げてこちらを見た。色素の薄い、触ろうとすると通り過ぎてしまうような印象だった。
「大丈夫ですか」
僕の言葉は聞こえていないのか、こちらを見たまま空疎な表情を変えることはなかった。
「お腹すいた」
女性は空にでも喋るかのようにそう言った。僕は近くにファミレスがありますけど、と答えた。女性は立ち上がり、僕の手を取って歩き出した。
道中、お互いに喋ることはなかった。無言でファミレスまで歩いた。手は繋いだままだった。
女性はBLTサンドとコーヒーを注文した。僕はカルボナーラとアイスティーを頼んだ。
「――あそこでなにをしてたんですか」
女性は虚ろな目でこちらを見た。そして、疲れちゃったのと囁くように言った。
間が持たない。僕は煙草を吸った。それを見た彼女は一本ちょうだいと言ったので、渡して火をつけてあげた。慣れた感じで煙草を吸っていた。
「名前を教えてもらえますか?」
僕は自分の名前を告げてから彼女にそう訊ねた。ロベリアとだけ言った。
「ロベリア?」
「みんなわたしのことをそう呼ぶわ」
「みんなっていうのは?」
と、料理が来た。テーブルに並べられると彼女は僕の質問には答えず食べ始めた。僕は諦めて自分の料理に手をつけた。うまくもなくまずくもなかった。彼女もほうもたいしてうまそうには食べていなかった。ただ黙々と口へ運び、咀嚼していた。
食べ終わるとロベリアはふっと笑って言った。
「あなたって人がいいのね」
さあ、と僕は言った。
「これからどうするの?」
さあ、と今度は彼女が答えた。
「帰る場所はあるの?」
「うん。とっておきの場所がね」
僕はため息をついた。そして席を立ち、カウンターで勘定を済ませた。店の外で彼女は笑った。
「また会えるといいね」
その表情は深沈とした美しさがあった。まるで夜の帳がおりていくときのような。
家に帰り、サンタナを流して煙草を吸った。
ロベリア。
僕はなぜ素性のわからない女にメシなぞ奢ったのだろう。そっと紫煙を吐き出す。僕の疑問は煙と一緒に幻のように消えていった。サンタナの『Se A Cabo』のビートが、状況にそぐわないにしても、聴いていると考えているのがくだらなく思えてくる。まあ、いいやと僕はコーヒーを淹れた。
『また会えるといいね』
全身が温かくなり、やけに切ない情緒にさせられたのは、コーヒーの苦味だけのせいではないだろう。彼女のことを考えようとしたが、あのときの思いはあのときのままとっておきたい気持ちだった。なんだか、考えるとそれが砂の城が風で崩れていくように、ロベリアのことも消えていってしまうように思った。
サンタナのギターとパーカッションのリズムに身をあずけた。椅子に沈むように座り、目を閉じた。
考えてたってしょうがねえよ、さあ、踊ろうぜ。
YouTubeで観たウッドストックでの『Soul Sacrifice』。ステージの下でレンガのようなものでビートを刻んでいた少年が印象的だった。永遠に続くのではと思わせるようなリフレインに、必死についていこうとビートを刻み続ける少年。演者であるサンタナも、周りのメンバーも、疲れを知らないのか、サンタナはひたすらにリフを弾き続けていた。
それを観たときの映像が目に浮かぶ。考えるな、感じろ。
『このままじゃまずいぞ』
『本当にこのままでいいの?』
十二月に入って、仕事が増えている。来月の給料がいまから楽しみだ。
『――このままでいいの?』
わからない。でも、変える理由もない。『Samba Pa Ti』の甘いギターが雪山でスキットルで飲むウォッカのようにしみわたる。
これでいいんだと僕は呟いた。そろそろ出勤準備の時間だ。
股引きとヒートテックの肌着の上に作業用品店で買った冬用の薄い服を上下着て、その上にライトダウンジャケットを羽織り、そのさらに上から作業着を着る。そして支給された厚手の上着を着込む。ヘルメットとヘッドライトとグローブ、それから買っておいた2リットルのペットボトルの水をバッグに詰めて家を出た。
原付、アドレスV125に跨り、出発した。集合場所へはものの十分あれば着く。信号待ちをしている車をすり抜けて先頭に立ち、青になったら発進する。
集合時間の十五分前に着いた。一番かと思ったらヤナガワさんの原付が駐まっていた。トラックの準備をしようと倉庫開けて鍵を取ろうとしたがない。トラックの中を覗くとヤナガワさんが後部座席で寝ていた。積み込みは前の夜勤のときにしておいたので問題ない。僕は自分のバイクのそばで煙草を吸った。
スギヤマさんが自転車で来た。おはようございますと挨拶をすると、笑いながら早いねえと言った。それからヤナガワさんは? と。
「トラックで寝てます」
「昼もやってたみたいだからねえ。すごいよ、あの人は。規制の鬼だよ」
それだけ言うと、ちょっと弁当買ってくるねと、正面にあるコンビニへ行ってしまった。
トラックのドアが閉まる音がした。疲れきった様子のヤナガワさんが、もう来てたんだと言った。僕は挨拶をして、前とやり方は一緒ですよねと、規制の確認をした。
「いや、今度は場所が変わるから……まあ、基本的には車道と歩道の規制だけど、歩道側は上から物が落ちてくるかもしれないから気をつけて」
わかりました。僕はトラックへ乗り、規制図を確認した。使う機材などは変わらない。ただ、歩道側の規制が広い。
僕が規制図を戻したころ、二人が乗り込んできた。さあて行きましょうかとスギヤマさん。ヤナガワさんは今日もさっさと終わらねえかなと呟く。トラックが発進した。
時計を見るとすでに午前○時を回っていた。人もめっきりと減り、作業は粛々と行われている。と、すみませんと声をかけられた。
「有楽町の駅まで行きたいんですけど」
なぜそれを僕に訊くんだと思いながらも、すみません、このあたり詳しくないのでと言った。それから、向こうに案内板がありますよと十一時の方角を指差して、そこで確認してもらった。ありがとうございますと言い、その人は去っていった。
歩行者もなく、やるべきこともないので、銀座の街並みを眺めていた。「ここが銀座かあ」というような感慨はなく、ただただ人工的で無機質な環境にえも言われぬ違和感を覚えた。セッションで不協和音を出してしまったのを聴いたような、そういう類の、心にしこりが残るような違和感だった。
終電が過ぎていよいよ人がいなくなった。作業は続いている。採掘した穴を戻して、合材と呼ばれるアスファルトの砂利のようなものを敷き、それをプレスして固める。機材の音とエンジンのけたたましい音が耳をつんざく。道路側を見ても車は通っていないようだった。ヤナガワさんがコーンを直しているのが見えた。その向こう、反対側の歩道にロベリアが歩いているのが見えた。電車もないし、なにをしているのか。もしかしたら人違いかもしれない。そのロベリアと思しき女性は街路樹の並ぶ歩行者専用道路へと曲がっていった。ロベリア。また会えるといいねというあの言葉が耳に蘇る。
「ごめんごめん、お待たせ、行ってきていいよ」
スギヤマさんが慌てて誘導棒の電気をつけながら言った。お願いしますとだけ言って、僕はトラックへと歩いた。時計を見ると○時二十分だった。
途中自販機で缶コーヒーを買ってトラックへ乗った。煙草をつけて缶コーヒーを飲む。早く終わらないかなとふと思う。
街は眠り、人々も眠るころ、その幽しい夜の雰囲気を毀壊する重機の轟音が響き、それがかえって僕にしてみればごく自然な現象のように思えた。無機質な煌びやかさのほうが不自然で、ある種の恐怖さえ感じる。
運送トラックが通った。ヤナガワさんがそれに対して誘導棒を振る。通行を妨げているわけではなし、その行為に意味はない。ないが、やらなければならない。
休憩時間が終わり、準備をして持ち場へと行くと、作業員が「今日はもう無理だね」と言うのが聞こえた。そしてヤナガワさんに作業終了ですと告げた。僕は急いで撤去作業を行った。最後に南京縛りで看板を固定して、ネットを被せてトラックへ乗った。一時半少し前だった。
「毎日こうだといいんですけどねえ」
スギヤマさんが煙草を吸いながら言った。
「ずっとこの現場続かねえかな」
ヤナガワさんも笑っている。
この作業によって変わりゆく銀座の街並みには目もくれず、トラックは走り去っていく。
「明日も入ってるの?」
スギヤマさんにそう訊かれて、僕は休みですと答えた。なにして過ごしてるの? 本を読んだり、ですかね。 外に出ないの? 出ないですねえ。
ふうんという紫煙と一緒に吐き出された言葉で会話は終わった。それからはスギヤマさんとヤナガワさんとで現場の話や同僚の悪口で盛り上がっていた。僕は煙草を吸いながら、帰ったらいま読んでいるヴァージニア・ウルフ『船出』を読もうと心を躍らせていた。叙情的で静謐さを漂わせる怜悧な文章に、僕は夢中になっていた。いまから帰れば三時には寝られる。そこから九時くらいまで寝れば充分だ。明日はゆっくりと本を読もう。その前に読んだ恋愛小説とはまた毛色の違う小説で、そうすんなりとは読めないが、ゆっくりと味わうように読んでいくのがいいのだろう。
資材置き場に着き、次の現場の準備をして解散だった。僕は途中でスーパーに寄って弁当を買った。ちらし寿司だ。それを足の間に置いてさらに原付を走らせる。と、右へ曲がれば自分のアパートのある住宅街なのだが、その反対、左側の路地にリンドウがあった。最初は車が来ないか確認のために見たのだが、そのときにリンドウという字と見覚えのある軽トラックがチラリと見えてさらにもう一度見た。間違いない、あのリンドウだ。
クラクションを鳴らされた。僕は急いで右折した。そして家に着くなり荷物を置いてさっきのリンドウがあった路地まで行った。
「どうぞ」
マスターはそう言うなりジントニックを作り始めた。
「毎度場所を変えているんですか?」
マスターはジントニックを僕に出すと、さあと答えた。
「必要としているところでやっているだけだよ」
「失礼ですけど……僕のほかにお客さんはいるんですか?」
マスターはふっと笑った。きっとそれが答えなのだろう。
「『動物的個我の幸福の否定こそ人間の生命の法則である』――トルストイの言葉だよ」
僕はジントニックを飲んだ。炭酸が強く、ライムの香りもつんと鼻を刺激して、前に飲んだジントニックとはまた違うものだった。しかし、仕事終わりでの疲れた身体には炭酸とライムの刺激は気持ちよかった。
「ショーペンハウアーに通ずるものがありますね……なんだか」
「賢者と呼ばれる人たちはその時代時代で違えど、内容は同じことを言っているんだよ――それを人々が受け入れるかどうかは別としてね」
前のよりもジンが強い。それが身に染み渡る。
「『自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ』。ウィリアム・ワーズワースの言葉だよ。君は論理的に過ぎるところがあるみたいだね」
「考えてないと怖いんですよ。見る前に跳べなんて、僕には……」
「それはそうかもしれないね」
マスターはそれ以上なにも言わなかった。僕はお酒を飲み終えると勘定をして家に帰った。
熱いフロに入ってマスターからの言葉を思い返していた。
『動物的個我の幸福の否定こそ人間の生命の法則である』
人間らしく生きるということは、実は無味乾燥とした生き方なのかもしれない。
そこまで考えて、僕は湯船で寝ていた。お湯はぬるくなっていた。身体を洗ってフロからあがった。それから弁当を食べてベッドへ入ると、すぐに寝てしまった。
「海を見に行かない?」
ロベリアは言った。僕は頷いた。すると彼女は僕の手を取って外へと出た。手を繋いだまま駅まで歩き、車内ではロベリアは僕の肩で眠ってしまった。窓からは朝焼けが差し込んでいる。冷たくも美しい冬の朝だ。
降りる駅に着いたのでロベリアを起こした。寝ちゃったんだと寝ぼけ眼の緩んだ表情を見ると、僕のなかのなにかが溶けて霧消して、掌中の珠のように彼女を大切にしようと決心をした。
冬の海は凪いでいて、さざめく波の音だけが僕らを受け入れてくれた。ロベリアは手を繋いだままだ。なにも言わない。
空の青、海のコバルト、そして透き通ったロベリア。
目と目が合う。ロベリアは雪の結晶のような笑顔を見せた。たまらなくなり、抱きしめようとしたところで目が覚めた。
煙草のヤニで黄ばんだ天井。本とCDばかりの床とテーブル。朝日が差さず薄暗い部屋。
『また会えたらいいね』
甘く頭の中で漂うようにその言葉がこだまする。会いたかった。いますぐに。会いたい。会いたい。会いたい? 本当に? わからない。
ベッドに腰をかけたまま煙草に火をつけた。煙草を咥えたままCDを手に取り、→Pia-no-jaC←の『First Contact』を手にとった。『組曲『 』』が聴きたかった。セットして椅子に座って足を伸ばしてオットマンに置いた。音楽が流れる。自然と身体が揺れる。光の粒が弾けるようなピアノの音色とリズミカルなカホンの音が心地いい。そして後半、転調するところで僕はいつも鳥肌が立つ。ペットボトルの水を飲みながら音に浸る。
曲が終わり、次の曲も続けて聴いた。ピアノとカホンだけでこんなに表現ができるとは。僕は聴きながらまた寝入ってしまった。
目が覚めたのは昼前だった。なんとなく家に居たくない気分だった。そういうときは新宿御苑に行くことにしている。仕度をして家を出た。雲一つない晴天だったが空気が張り詰めている。僕は冬が好きだ。
駅まで歩き、電車に乗る。平日の昼前ということもあって空いていた。地下鉄乗り入れで新宿までひと駅で行ける。僕は文庫本を出して着くまで読んでいた。
昼間の新宿駅は敢無い気持ちにさせられる。どこからくるのか、下水のような臭いと街の人々や店などからの洒落た匂いが混ざり合って悪臭と化していて非常に不快だった。それは僕を撫でるようにして流れていった。途中コンビニへ寄って新宿御苑へと向かった。入園料を払って中へ入る。粋然とした緑の匂いが迎え入れてくれた。海のように広がる芝生を眺めながら西休憩所の方面へ歩く。冬の花がちらほらと咲いている。控えめで、繚乱とは言えないが、わびさびを思わせる今昔の感のような情緒だった。休憩所を過ぎて曲がり、レストランを過ぎる。カメラを持った年寄りや外国人とよくすれ違った。道なりに進んで中央休憩所まで来た。僕の指定席だ。ベンチに座ってビールを出す。遠くに見える、奥深くも静かな趣のある池を眺めながらプルタブを開けて一口すすった。刺さるような冷たさが喉を通り過ぎる。空気は凛としていて、仕事で感じる寒さとは違い、非常に快い寒さだった。煙草を吸いながらビールを飲む。時折さきいかを挟みながらゆっくりと缶を口に傾ける。
半分ほど飲んだところでふうと一息ついた。小鳥のさえずりが聞こえる。遠くで車の走る音が聞こえる。行き交う人たちのひそやかな話し声が聞こえる。僕はイヤホンをつけてキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴いた。伝説の即興のライブの名盤だ。
予想だにできない演奏に、調和のとれた園内。そしてビール。次第に身体が温まってきた。それと同時に気分もよくなってきた。足元には缶が四つ転がっていた。
家に着いたころには酔いも覚めて、ただやるせなさだけが残っていた。映画でも観ようかと思ったがそういう気分ではない。飲みに行く気分でもない。ふてくされるようにベッドで横になり、目をつむった。
ほんの少し寝ていたようだった。いくぶん頭はクリアになっていた。時計を見ると十八時過ぎだった。スマホを手に取り、SNSを見てみた。十二月ともあり、みんなボーナスが出たようだった。車や時計を買ったりレストランで食事をしたりと各々が悠々と金を使ったさまをアップしていた。
夕飯にしようと、どこかへ食べに行こうと思ったが、財布を見たら小銭しかなかった。給料日は明日だ。僕はペペロンチーノを作って、それを食べた。
食器を片付けて、僕は読んでいた本の続きを読み始めた。うっすらとショパンのノクターンを流した。美しい文章には美しい音楽がよく似合う。それに酔いしれるようにページを繰っていく。
ボーナス。
ふいに頭によぎった。僕には縁のないものだ。欲しいとも思わない。車も時計も興味はない。そんなおもちゃになぞ。『私が子供の頃、親父におもちゃを買ってもらえないって不満を言うと、親父はいつもこう言った、「ここ」に人間が創りだした最も偉大なおもちゃがあるんだって、ここに幸せの秘密があるんだって』――チャップリン『ライムライト』の中のセリフにこういうのがある。「ここ」とは頭のことだ。そう、僕は自分の頭の中が好きなんだ。それ以外にない。
再び本に集中しようとした。が、ダメだった。このままじゃまずいぞ……本当にこのままでいいの?……という声が耳から脳を通って耳から出て行き、まるでかまいたちのように傷を残して去っていく。ノクターンの音色がやけに頭に響く。飲みに行きたかったが金がない。それでもこれ以上家にいることはできなかった。
夜空には星が見えた。なにも買えないし、なにも食べられない。それでも、あてはないがとりあえず駅のほうへと歩き出した。
街がやけに明るい。それに、人も多い。どこからか流れてきた音楽で今日はクリスマスだということを思い出した。ケーキもチキンもプレゼントも、なにもかも僕には関係のないことだった。人々の表情はイルミネーションよりも輝いていた。
反対口へ通じる地下道に入った。そのまま通って抜けようとすると、出口のところでロベリアがこちらを向いて立っていた。
「また会えたね」
どこかペシミスティックな微笑みをたたえて彼女は言った。
「行こう」
と、僕の手を取って歩き出した。反対口へ出て賑やかなロータリー周辺を抜けて住宅街へと入った。あちこちから料理の匂いがした。子どものはしゃぐ声がした。ロベリアは気にもとめず歩き続ける。細い路地へと入り、入り組んだ道を、確信をもった足取りで進む。路地を抜けるとそこはぽっかりと空き地になっていた。小さな家一軒分くらいの広さで、隅には車が捨ててあった。周りの建物はすべてここから背を向けて建っていて、場所なき場所とでもいうようなところだった。
ロベリアは車の後部座席のドアを開けて入った。僕もそれに続いた。車の中は意外にも綺麗だった。とはいえ、不潔ではない程度ではあったが。ロベリアは助手席にあったクーラーボックスから缶ビールを二本出して、一本を僕にくれた。
「メリークリスマス」
僕もそう呟くように言った。そしてビールをすすった。
「ここがとっておきの場所なんだね」
ロベリアは小さく頷いた。
「いつでもいるから――寂しいときはここに来て」
わかったと僕は言った。
「――でも、寂しいってなんだろう。僕にはよくわからないな」
「いつも独りで寂しくないの?」
「わからない。考えたこともなかった。それが当たり前だから」
「親はいるんでしょ?」
「いるけど……あんまり関わりはないかな」
ふうんと彼女はビールをすすった。それから、僕の肩に頭をあずけた。ロベリアの長い髪は僕の鼻をくすぐり、花の蜜のような淡くて甘い匂いが通り過ぎた。ロベリアは腕を伸ばして後ろから毛布を取った。僕はそれを受け取って二人でくるまった。二人の体温ですぐに温かくなった。
「ロベリアは寂しいって思ったことはあるの?」
僕の胸の中で頭をむずむずと動かして、目をこちらに向けた。クリスタルのような冴え冴えしい瞳だった。
「そう思わないほうが珍しいと思うけど」
そっかと僕は言った。それから顔をロベリアの髪に当てて、腕を回した。ロベリアの体温が伝わってくる。僕の鼓動が聞こえた。それと同時にロベリアの鼓動も伝わってきた。およそ三十六度の優しさは僕の胸の奥のなにかをも、そっと抱きしめてくれたような気がした。それに気づくと肩が震えた。ロベリアは僕の頭を撫でた。
「ひとり上手じゃなかったんだよ、あなたは」
いつの間にか嗚咽していた。ロベリアの髪は濡れていた。それでも彼女は撫でるのをやめなかった。
「優しい人……でも、度が過ぎると馬鹿だと言われるわ」
僕は腕を強く回して必死でロベリアの体温を感じようとした。温かった。撫でられるのは心地よかった。ロベリア、と震える声で呼んだ。なあにという声が耳をくすぐった。もう一度呼んだ。馬鹿な人とロベリアは言った。
髪をくすぐる柔らかい感触で気がついた。温かい。なにもかもが。上半身を上げてロベリアを見た。近づいただけで割れてしまいそうな笑顔だった。
「寝ちゃってた?」
「かわいい顔でね」
僕が言葉に詰まると彼女はクスクスと笑った。ねえ、もう一回さっきみたいにして。
「さっきみたいに?」
「うん、ぎゅうって」
改めて腕を回して彼女を抱きしめた。小さく声が漏れるのが聞こえた。
波音を立てず、穏やかに、目立たないように、慎ましやかに。そこはかとなく、いじらしく。これが僕のモットーだ。
彼女はそれを馬鹿だと言った。しかしそのあとで、もしかしたら本当にそれがすべてなのかもしれないねと。
さっきまで寝ていたときに、夢を見ていた。いろいろな映像が、ザッピングしているように忙しなく映し出されている。昔のこと、いまのこと、脈絡のないこと……。そのどれもが温度をもっていて、触れると柔らかい温もりが伝わってきた。神様よりも君を信じるよ。
「ありがとね、こんなわたしだけど、よろしくね」
「ありがとう?」
わからないならいいのと彼女は言った。いや、わかってるよ。
「神様より君を信じる」
ロベリアは両手で僕の頬を包んで、唇を重ねた。あえかな感触で、それでもなにか確固たるものを感じた。
唇が離れて見つめ合うと、同時に笑った。
「ねえ、お腹がすいた」
うちに来なよと僕は言った。なにか作るからさ。ロベリアは笑って毛布を取った。そして車から出ると手をつないで歩き出した。
「あ、ちょっと待って」
ロベリアは車へと走って戻った。なにかを探しているようだった。
戻ってきた彼女の手にはゴッホの画集があった。
「ゴッホが好きなの?」
うん、と彼女は頷いた。
「将来はね、黄色い家に住みたいの。ゴッホとゴーギャンが住んでいたような、黄色い家。周りにはひまわりの畑が広がっていて、夕暮れになると夕陽の色とひまわりの色が重なって、黄金色の世界が広がって。わたしはそれを見て明日もがんばろうって思える……そんな気がするの」
家に着くと僕は『ラプソディー・イン・ブルー』を流した。そしてパスタを茹で始めた。
「面白い曲だね。楽しくなってくるね」
買い置きしていたトマト缶とニンニク、鷹の爪、それと余っていたキノコでトマトのパスタを作った。曲はちょうど終わっていた。僕はCDを変えてマーラーの『交響曲1番『巨人』』を流した。
「どうぞ」
いただきますと言ってロベリアはパスタに手をつけた。おいしい! と満面の笑みで言ってくれた。嬉しそうに食べる彼女を見ているとこちらまで嬉しくなってくる。
食べ終わると食後にデカフェを出した。それを飲みながら話をした。
「黄色い家に住みたいって言ってたよね」
「うん。黄色ってね、ゴッホにとってはユートピアの象徴の色だと思うの。実際、黄色い家でゴーギャンと住んだけど喧嘩ばかりでうまくいかなかったし――ゴッホは切磋琢磨できると期待してたんだけどね――それで耳を切り落として……ひまわりって有名な絵があるじゃない? あの黄色もきっと、黄色い家のようにゴッホにとっての救済というか、ある種の希望の絵だったんだと思う。黄色はゴッホにとってはやっぱりユートピアの象徴なんだと思うんだよね」
僕は煙草に火をつけた。
「君の言う黄色い家も、君にとってのユートピアなんだね」
そうだねえとロベリアは言う。いつかそんな家に住みたいな。
「黄色い家じゃないけど、ここならいつでも来なよ。布団もあるし、食事だって用意する。――もちろん、車の中がよければそれはそれでいいんだけど」
ううんと彼女はかぶりを振った。ありがとう。じゃあ、寂しくなったら来るね。
飲み終わると、マーラーの交響曲の最終楽章が部屋を満たした。
「居心地のいい部屋だね」
「他人を招くような部屋じゃないけど?」
ロベリアはまた笑った。じゃあ、ごちそうさま。もう行くね。
「泊まっていけばいいのに」
ありがとうと彼女は言った。でも今日は帰るわ。
彼女がいなくなった部屋は途端に無味乾燥した場所のように感じた。本があって、音楽があって、お酒もある。それで充分なはずだったが、なんとなく散文的な思いがした。
『自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ』
以前リンドウのマスターに言われた言葉が、僕を奮い立たせた。こんな僕だけど、僕は彼女を信じると決めたんだ。
着信音が鳴った。友人からだった。いまらか飲みに行かないか。
といった内容だった。時計は十九時半を指していた。行くよと言い、僕は身支度を整えた。
場所は新宿の西口の思い出横丁を抜けてさらに進んだところにある居酒屋だった。着くと友人はすでにいて、ビールを飲んでいた。おうとだけ言い、僕もビールを注文した。
「子どもは平気なの?」
「今日は嫁がいるから」
煙草を吸った。友人も吸っている。外でしか吸わないらしい。ハイライトのメンソール。
僕のビールが来て乾杯をした。
「ボーナスはどうだったのよ」
ああ、と友人は笑った。ほとんど養育費とかでトんだよ。でも、と友人は続けた。
「時計買っちゃった」
フレデリックコンスタントだった。控えめながら威厳のあるその時計。美しかった。思わずすげえじゃんと僕は言った。
「バレたら殺されるけどな」
友人は笑っていた。
「――で、最近はお前はどうなのよ?」
「最近? まあ、つつがなくやってるよ」
「そうか? なんとなく浮ついてるぞ」
「そう?」
僕はビールをすすった。
「何年の付き合いだと思ってんだよ」
僕は観念してロベリアのことを話した。ところどころ甘い記憶の部分は端折って。
それを聞いていた友人は煙草を消すと言った。
「大丈夫なのかよ、それ」
「なにが」
「いろいろあるけど、収入とかあとは信用できるのかとか」
「『『自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ』』
なんだそれ。
「ウィリアム・ワーズワース。イギリスの詩人の言葉だよ」
へえ、と友人はビールを飲み干し、もう一杯注文した。テーブルにはちょっとしたアテが並んでいた。僕らにはそれで充分だった。いつもそうだ。テーブルにちょっとしたものがないと寂しい、その程度の感覚なので、あまり料理は頼まない。
「お前はボーナスなんてないんだろ?」
うんと僕は頷いた。
「時給――日給かもしれないけど、お前、それバカらしいぞ。いまからでも正規の仕事探せよ。確かに自由はあるかもしれないけど、収入で言ったら、正社員だったらボーナスもあるし、年収で言ったら本当に比べ物にならないぞ」
僕はビールを飲み干した。熱燗を一合頼んだ。おお、いいねと友人が言った。
「『人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ』――チャップリンの言葉だよ。僕はそこまで金を必要としていない」
はあ、とため息をつくのが聞こえた。お前さあ
「自分の言葉で話せよ。誰かの言葉を借りるんじゃなくて」
熱燗が来た。友人にも注ぎ、僕も飲んだ。ポカポカと身体に染み渡った。最高だなと友人。
「……大体の事柄は昔の言葉で事足りるんだよ」
「そうじゃなくて、俺はお前の言葉を聞きたいんだよ。お前自身の言葉をさ」
熱燗をあおって揚げ出し茄子を口に入れた。僕は喋らなかった。友人は不機嫌そうに煙草に火をつけた。
飲み足りない気分だったがあれ以上友人といるのは苦痛だった。僕のしていることを全否定されたような気がして、胸のつかえが降りなかった。帰って飲み直そうと思った。
新宿駅へ向かう道中、ひっそりとした路地でリンドウがあった。いつものようにマスターは黙ってジントニックを作る。僕は煙草を吸いながらそれを見ていた。
出されたジントニックはほのかに甘く、トニックウォーターのほうが強いのかもしれない。その爽やかな甘さにライムの清涼がよく合った。
「『自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる』――ゲーテの言葉だよ」
僕は煙草を吸った。
「でも、僕には信じる人がいます」
ほうとマスターは微笑んだ。
「『夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る』坂本龍馬の言葉だよ。いまは夢中になってもいいんじゃないかな。その先に見えてくるものがあるはずだから」
そうですねと僕はジントニックをすすった。ジントニックが心地いい。優しく抱擁されるような温もりを感じた。
「うまくいくといいね」
勘定を済ませたときにマスターは言った。そうですね、ありがとうございますと僕は席を立った。
翌日、温かいコーヒーと肉まんを買って、ロベリアのいる空き地へ行った。ロベリアは車の中で寝ていた。ドアをノックする。彼女はゆっくりと起き上がり、手招きをした。僕は中へ入った。
「来てくれるとは思わなかった」
「寂しくなったから」
僕がそう言って笑うと、ロベリアもクスクスと笑った。
「そんな感情、無かったんじゃないの?」
「君と出会ってから気づいたんだよ」
僕はコーヒーと肉まんを渡した。ありがとうと言って彼女は肉まんをほおばった。おいしいねと彼女は言う。僕はそれだけで胸がいっぱいになった。
二人で肉まんを食べながら肌を寄せ合った。
「ねえ、『『ローヌ川の星月夜』っていう作品知ってる? 優しくきらめく星たちに見守られるように照らされている恋人たちと美しいローヌ川の水面、そして夜空が描かれていて、この絵を見てると、どこからか悲しさも感じさせられるんだよね。やがては訪れる別れの瞬間を予感しているような、夜明けには夢から覚めてしまうような、刹那的な幸福が描かれているように感じがしてさ」
ロベリアは画集からその『ローヌ川の星月夜』を開いて僕に見せた。おぼろげな星空、ゆらめく水面、そして恋人たち。どこかセンチメンタルで彼女の言うことはなんとなく理解できた。
「悲しい絵だね」と僕は言った。
「それでもそれが人生なんじゃない?」
僕らはまた二人で一緒の毛布にくるまった。ねえとロザリアが言った。
「ゴッホがなんで耳を切ったかわかる?」
僕は考えた。一般的には精神的に錯乱していたからと言われているが、それは彼女の求める答えではない気がした。なんでだろう、僕は呟いた。
「……寂しかったのかな」
僕の言葉に彼女は頷いた。
「報われない人生だったからね……生前売れた絵は一枚だけだったし……」
僕は缶コーヒーを飲み干した。
「なんでその話を僕に?」
「なんか――似てる気がして」
「僕はなにもしてないよ。ただ仕事して、たまに飲みに行くくらいで。ゴッホのようになにかに熱中するわけでもなし」
それでも似てるのと彼女は言った。そして、身体を僕の胸にあずけた。
「ゴッホはね、最初は炭鉱地帯で伝道師をやってたんだよ。そこで毎日危険な仕事に携わっている人たちに道を説いて行くんだけど……それがお偉いさんが気に食わなくてね。結局打ち切られちゃったの」
ロザべリアの声は子守唄のような安寧を与えてくれる声だった。
「自分もボロ切れを来て、怪我人が出たらそれをちぎって包帯の代わりにしたり……優しい人だったのよ。それでとても繊細」
そんなゴッホと僕は似ていると彼女は言う。僕にはいまいち理解ができなかった。ゴッホのように情熱的になにかに打ち込むこともなし、ただ慎ましやかに暮らしているだけだというのに。
声をかけようとしたが、ロザリアは僕の胸で寝息を立てていた。まだ昼前だというのに、僕はため息をついてそっと彼女の身体を引き寄せて髪に顔を埋めた。
昼食はうちで食べた。ごはんとあり合わせの食材で炒め物を作った。それとコーヒー。今日はマンデリンを淹れた。音楽はブラームスの交響曲第1番。
「ロべリアは普段はなにをしてるの?」
彼女はカップを置いて、煙草をちょうだいと言った。渡して火をつけた。
「なにもしてないわよ。誰からも必要とされてないから――ただあそこでゴッホの画集を見ているだけ」
そう言って彼女は微笑んだ。ある種の諦念を帯びた、泣きそうな笑顔だった。
「収入は? 仕事はしてるの?」
「仕事ってほどじゃないけど……まあ、食べるには困らない程度にね」
そっかと僕は言った。これ以上深入りすることもないだろう。
「このコーヒー、おいしい」
「僕も好きなんだ。コクがあって、酸味はそれほどでもないけど、しっかりした味で」
「詳しいのね」
「そうでもないよ、好きなだけで」
ロベリアはまた笑った。
「本当に、自分だけの生活で完結してるのね」
そうだねと僕は言った。誰にも邪魔をされたくないんだ。
「わたしにも?」
その言葉に惶惑した。そういう意味で言ったんじゃないよ。
「少しずつ、なんていうか、気持ちも変わってきたというか……君といるのはとても心地いいし、ずっと続けばいいと思ってる。……だけど、独りでいるのが長すぎたから、少しずつ、時間をかけたいんだ」
ロべリアはクスクスと笑った。冗談だよ。
「――だって……」
「恥ずかしいから言わないで」
「じゃあ、あの言葉はウソだったの?」
「本心だよ……からかわないでよ」
ごめんごめんと彼女はまた笑った。ブラームスを交響曲が終わろうとしている。終わるのを待ってから、僕はCDをしまった。映画でも観ようか。ロべリアはうんと言った。
僕はタブレット端末で検索をして、『最高の人生の見つけ方』を流した。タブレットをスタンドに立てて、座っているロザリアの後ろから抱きしめる形で一緒に見始めた。彼女は笑って肩が揺れるのと僕も囁くように笑う。ひとりで酒を飲みながらぼうっと観るのとではまったく違い、とても気分がよかった。ひとりで観るのも好きだが、彼女と一緒に観ていると凍えきった心が解かされていくような感覚がした。
観終わったら夕方になっていた。僕はまたコーヒーを淹れた。今度はモカブレンドを淹れた。それを飲みながら映画について話した。あんなふうに自由になれたらいいのになあという彼女の言葉が印象的だった。
「ねえ、旅をしたいと思わない?」
「旅?」
「そう。どこか遠くにさ。もう仕事はしばらく無いんでしょ? どっか行こうよ」
「……考えておくよ」
ロべリアはあからさまに不満げな表情を見せた。
「行きたくないの?」
「ううん、考えたこともなかったからさ」
たまには外に出ないとダメだよ。
「でも、君と出会ってから、なんていうか、自分の中でなにかが変わろうとしてるんだよね」
わたしはなにもしてないけど。
「そんなことはないよ。いろいろなものを僕に与えてくれた。それで、僕の中で、うまく言えないけど、小さくて静かな革命が起きてるような感じがしてるんだ」
革命かあ。ロべリアはコーヒーをすすった。
「――なんにしても、あなたは内にこもりすぎてる。もっと外を見ないと」
そうだね。確かにそうかもしれない。でも怖いんだ。
「わたしが居ても?」
目と目が合った。先に笑ったのは僕だった。
「なんで笑うの」
いや、とても心強いよ。ありがとう。
ふふっとロべリアは笑った。
「あなたって本当に馬鹿な人ね」
電車の中でロベリアは僕の肩に頭をあずけて寝ていた。僕はうつらうつらとしながらも停車駅を過ぎないように気をつけて起きるようにしていた。とはいえ目的の駅まではまだあと三十分以上ある。僕の最寄駅からは結構な距離がある。
「海を見に行こうよ」
そうロベリアは言った。冬の海。おそらく寒々しいだけだろうが、むしろそれがいまの僕らにとっては必要なことなのかもしれない。僕はいいよと言った。旅行ではないが、遠くへ行って、海を見ればなにかが変わる気がした。
朝早くに家を出たので、車窓からは朝日が差し込んいる。ガラス越しの光は暖かく、ロベリアの髪の甘い匂いと相まってとても穏やかな心持ちだった。
降りる駅に着いたのでロベリアを起こした。もぞもぞと身体を動かして起きると目をこすった。寝ちゃったんだと寝ぼけ眼の緩んだたおやかな表情を見ると、改めて見初めてしまった。
駅から手を繋いで海まで向かった。夏のねばつくような感じとは違い、冬の潮風はさらりと僕らの間を流れて去っていった。海は凪いでいて、さざめく波の音だけが僕らを受け入れてくれた。ロベリアは手を繋いだままだ。なにも言わない。
空の青、海のコバルト、そして透き通ったロベリア。
目と目が合う。ロベリアは雪の結晶のような笑顔を見せた。
僕も微笑みざっか返した。すると彼女はクスクスと笑った。あなたって笑うのが下手なのかしら。
「さあ……いままであんまり笑わなかったから」
こうして女性と二人でいることも本当に久々だから。
「恋人はいなかったの?」
「昔……高校生のときに一人だけ」
ロベリアはそれ以上なにも言わなかった。砂浜と道路の境目になっている段差に腰を下ろした。寄せては離れていく波。穏やかな潮風。横にはロベリア。
海風は冷たかったが、それよりもロベリアの体温のほうが温かかった。遠くで船が見えた。
肩に乗せていた頭を持ち上げて、ロベリアはこちらを見た。ねえ、いまどんな気持ち?
言うのは気恥しかったが、それでも僕は自分を奮い立たせて言った。とても幸せな気持ちだよ。
「『あなたと一緒にいられること、それ以外の何を人は“幸せ”と呼ぶのだろう?』」
バカみたいと彼女は笑った。どことなく嬉しそうな表情で。
「俺はお前の言葉を聞きたいんだよ。お前自身の言葉をさ」
この満ち足りた心持ちにつうっと心に一本の氷柱がさしこまれていくような感じがした。賢者はいつも同じことを言う。ただそれが一般に受け入れられるかどうかは別として。言葉を理解して、それを伝えることになんの悪いことがあるのだろうか。自分の言葉を使うべくもない。
「ねえ、いまなにを考えてるの?」
僕はなんでもないよと言った。
ロベリアはそれ以上深く訊いてこなかった。もう一度僕の肩に頭を乗せて、波の音を聞いた。
お互いになにも話さなかったが、それが心地よかった。無限にも思えるほどの広い海、囁くような寒潮。カモメだろうか、どこか遠くへ飛び立っていった。
「寒いね」
ロベリアはこちらを向いてそう言った。僕は思わず笑ってしまった。笑っているとロベリアは僕の頬に繊柔な唇をそっと当てた。彼女のほうを向くと、ばーかと言って立ち上がった。手を伸ばして僕はその手を掴んだ。
「帰ろう」
どことなく彼女の足取りは軽やかだった。
「わたしね、画家になりたかったの」
僕の家に着いて、コーヒーを飲みながら喋っていると、おもむろに彼女は言った。
「でも両親は反対でね。かろうじて学費は出してもらって専門学校に行ったんだけど、それだけじゃ画家になんかなれない。イラストレーターの仕事とかもしたんだけど、やりたいことと違ってすぐにやめちゃった。親はすごく怒ってね。家を追い出されちゃった。で、いまはこの有様」
僕はコーヒーを飲みながら黙って聞いていた。
「わたしはね、ゴッホになりたかったの。絵だけに打ち込んで。売れるか売れないかなんて二の次で、とにかく絵が書きたかった。――でもそれでももうダメ」
どうして?
「手首がもうダメなの。腱鞘炎を放っておいたらもう、いうことをきかなくなっちゃった」
そうなんだ、としか言えなかった。気の利いた言葉でもかけてあげたかったが、なにも思いつかない。でも、きっと彼女は慰めの言葉なんて欲しくないのだろう。必要なのは傾聴だ。
「あなたは? なにかやりたいこととかないの?」
「これといっては……音楽と本と酒があれば、僕はそれでいい」
ふう、と彼女は息を漏らした。ある意味それが一番幸せなのかもね。
昼食にパスタを作った。キノコと顆粒出汁の和風パスタ。それを食べるとロベリアは、もう行くねと家を出ていった。
久しぶりに外出したせいか、やけに疲れた。本を読もうと思ったが集中できなかった。僕はベッドに仰向けになった。
「俺はお前の言葉を聞きたいんだよ。お前自身の言葉をさ」
さっきからやけに頭に響く。僕の言葉? すべて賢人が代弁してくれている。それのなにが不満なのだろう。わからない。
だんだんと思考がぼやけていき、目をつむるとそのまま眠りに落ちた。
三週間ぶりの仕事は高速道路の規制だった。作業車に積まれたコーンを、低速で走る車に乗って規則的にコーンを並べていく。距離にしておよそ二キロはあるだろう。そのあとに工事の案内板を専用の金具を使って設置していく。高速道路を横断するので車が来ないのを確認して、班長のホイッスルを合図に一斉に走って設置場所へ向かう。モタモタしていると怒鳴られるので、余計に焦る。それ以外は通常の規制と同じ手順だ。ただ、規制帯が広いうえ、車は容赦なく猛スピードで走っていくのでかなり怖い。規制帯に突っ込む車もいるらしい。
僕はビクビクしながら規制帯の中で棒を振っていた。今回は長丁場になりそうだった。班長のヤマモトさんが休憩を一時間で回そうと言っていた。
長い長い夜だった。寒空の下、猛スピードで走り去る車やバイクに向けて棒を振る。作業は遠くで行われていて、なにをしているのかはわからない。休憩時間は煙草を吸いながらロベリアのことを考えていた。考えていると胸が心地よく痛んだ。
夜の高速道路は都内から離れると途端に頻闇に包まれる。周囲は僕らを避けるようになりをひそめ、常夜灯はマッチの火のように心細い。時折、車のヘッドライトの光がナイフで切り裂くように過ぎていく。
闇はそれだけで骨を刺す。闇のしじまは意識せずとも永遠を彷彿とさせる。永遠とも思える距離――たとえば一万の一万乗キロメートルを歩き続ければ天国への扉が開くとして、僕は歩き通すだろうか? それとも諦めて――決して己の信条からではなく――その場で一万の一万乗年もの時間を眠り続けるだろうか?
ふいに人の声がして驚いて振り向くと、代わるよと言われ、僕は会釈をして作業車へと向かった。
「あなたは内にこもりすぎている」
いつかのロベリアの言葉が頭をよぎって、そのまま夜空に溶けていった。
予定時間通りに仕事が終わり、原付を走らせる。夜の間ロベリアのことを考えていたら、無性に会いたくなったので、そのままロベリアがいつもいる空き地へと向かった。
ロベリアの過ごしている車のそばに原付を止めた。まだ寝てるかな、などと思いつつ、窓から車内を覗き込む。
いない。
そんなはずはないと、一周してみたが、ロベリアらしき人はおろか、中には誰もいなかった。
いつもここにいるって言ってたのに……。
もう一度覗く。やはりいない。それに、ゴッホの画集もない。
ロベリア……。
どこかでちゃんとした家が見つかったのだろうか。それならそれでいい。彼女にとって、それはいいことだ。しかし、あまりに突然すぎる。それに僕になにも言わずに去っていくなんて、あんまりではないか。
錯綜する頭で原付にまたがり、スターターを押す。軽い排気音がして、アクセルを回すと、小気味良く動き出した。
なんなんだよ、と呟く。なにがどうなってるんだ。
自宅のアパートにはすぐに着いた。ため息をついて玄関まで行くと、ロベリアがうずくまっていた。
「ロベリア……」
僕の声にゆっくりと頭をもたげる。目を目が合うとロベリアは微笑んだ。
「お仕事、お疲れ様」
「ロベリア……」
僕はいろいろな感情が渦巻いて、泣き出しそうになった。しかし彼女はそんなこと構うことなく、
「寒いから中に入れてよ」
と言うのだった。
暖房をつけて、コーヒーメーカーでコーヒーを作った。狭い部屋なのですぐに暖かくなった。
「……さっき、ロベリアの車に行ったら誰もいなくて、どこかに行っちゃったかと思ったよ」
ロベリアはくすくすと笑った。
「わたしはずうっとあそこで待ってたんだよ。インターフォン押しても出ないし、夜勤なのかなって思って、じゃあ帰ってくるまで待とうと思ったの」
「寒くなかったの?」
「そりゃ寒いよ。でも、一秒でも早く会いたくて。車で待ってたら、来ないかもしれないでしょ?」
その言葉に僕は、心をくすぐられるような思いがした。よかった。彼女はここに、いる。
コーヒーを飲むと、僕たちはベッドに座って寄り添った。ロベリアの頭が僕の肩に乗っており、長い髪からは甘い香りがする。
なにも喋らなかった。
言葉なんていらない。
ふと、ロベリアは頭を持ち上げ、こちらを向いた。僕も彼女のほうを向いて、互いに見つめ合った。すぐにロベリアが照れたように笑う。僕はロベリアの細い腰を抱きすくめた。ロベリアも僕の背中に腕を回した。
仕事を探そう。そう思った。ロベリアと二人で暮らしていけるように。いつまでもあんな車の中で生活させてはおけない。
「ロベリア」
なに? とくぐもった声で返事をする。
「一緒に暮らそう」
「いいの?」
「うん」
ロベリアは僕を強く抱きしめた。僕はロベリアの髪を指で梳きながら、もう一度言った。「一緒に暮らそう」
どれくらいの時間、そうしていたかはわからない。気がつくと僕はベッドで眠っていた。掛け布団をかけていてくれていた。
「ロベリア?」
返事はない。帰ったのか?
起き上がると、テーブルにはコーヒーカップが二つと、僕の財布があった。財布?
なんの気なしに中身を見てみると、金がすっかり無くなっていた。CDを買いに行こうと、夜勤の前にいくらかおろしておいたのだった。ふとまたテーブルに目をやると、ゴッホの画集があった。画集の横に便箋があり、ごめんね、とだけ書いてあった。僕はため息をついた。
彼女はもう、戻ってはこない。
別にかまわないさ、と呟いた。日常に戻っただけだ。僕の、僕だけの生活に。
ゴッホの画集をパラパラとめくる。絵に魂を吹き込んだ画家。いつだったか、ロベリアはゴッホと僕が似ていると言っていたことがある。その真意はわからずじまいだ。僕には情熱的になれるものなんてない。
煙草に火をつけたがやけに酸っぱく感じてすぐに消した。そのままベッドに倒れこむ。別にかまわないさ、ともう一度言った。
着信音で目が覚めた。友人からだった。飲みの誘いだった。また余計な小言を言われるのかと思うとおっくうだったが、このままひとりでいるのも嫌だったので、行くことにした。
場所はいつもの、新宿西口を降りてしばらく歩いたところにある居酒屋だ。すでに友人は来ていて、ビールを飲んでいた。僕のビールが来ると乾杯をした。
「なんか、変わったな、お前」
唐突なその言葉に僕は戸惑った。
「どこが?」
「いや、どこがってわけじゃねえんだけど……なんか、うん、変わったよ」
「どんな風に?」
「わからねえけど、少なくとも悪くはないよ」
ふうんと言って俺はビールをすする。
「逃げられたよ」
友人がこちらを見た。
「ほら、ロベリアだよ。財布の金、全部取って、どっか行っちまった」
「マジかよ。警察には?」
「いいんだよ。別にかまわない。『信じるということは、裏切られる覚悟を持つということ』」
友人はお通しをつつきながら言った。
「誰の言葉?」
俺はふっと笑って、言った。
「いま思いついた」
友人は笑いだした。「ひねくれた言葉だな」
僕もつられて笑う。
「でも」友人は言った。「俺は好きだよ」
(了)
だだっ広い三車線の道路を、今日は二車線を規制している。規制帯には六トントラックやもう少し小さいトラック、ユンボが入っていて規制の前後に一人ずつ立って交通誘導をしている。僕ら交通規制工は三人で、休憩は一人ずつローテーションで回している。現場へ向かうとき、班長のヤナガワさんが「長くなるから、休憩は四十五分で回そう」と言っていた。だいたいにおいて三十分で回すのが相場だが要するに規制図に書かれている人数、立っていればいいので今日のように長くなることもままある。
車はほとんど通らず、遠くにタワーマンションやランドマークが建ち並んでいるのが見えて、なんとなく無機質な空しさを感じた。ただただ重機がうなる音だけが響き、潮風が体温を奪う。作業着の中にフリースやダウンベストなどを着込んできたのだが、なにもせずに立っているだけなのでやはりどうしても寒かった。もう四時だし、あとちょっとの辛抱だと法定速度をはるかに超えて走り去るトラックへ誘導棒を振りながら独り言つ。
作業をしている様子を見ていても、進んでいるのかどうなのかさっぱりわからなかった。穴を掘って、深さを測って、たまに写真を撮って……そしてまた掘る。分離帯を挟んで反対側の道を、下品にカスタムしたバイクが轟音をあげて走っていった。疲労と眠気とでこたえている身体にはきつかった。前の日の昼間も現場に入っていて、そのまま夜勤でこの現場なので気を抜くと眠ってしまいそうだった。
次の休憩まで特にやるべきことはない。車が来たら誘導棒を振って、たまにコーンが倒れていたりしていないかを見たりして。要するにただ立っていればいいのだが、本当に立っているだけではダメだというところが難しい。いろいろ思案が浮かぶが考え込むとやってきた車を見落としてしまったり、作業している人の指示を聞き流してしまったりするからだ。かといってぼうっとしていると眠くなる。なので、なるべくどうでもいいことを考えるようにしている。それもなるべく楽しいことを。たとえばこの現場が終われば、明日は丸一日休みだ。朝に帰ってきて、少し寝て、それからなにをしようか、といったようなことを考える。ゆっくりと読みかけの本を読むでもいいし、たまには映画を観に行くのもいいかもしれない。書店に足を運ぶのも楽しい。気の済むまで寝ているのもいいだろう。平日なので外へ出かけるのもよし、家でゆっくりするのもよし。土日に外へ出るのは嫌いだ。人混みが苦手なので必要以上に疲れてしまう。しかし今日明日は平日だ。自由な時間に加え選択肢も広がっている。僕は自由なのだ。
しばらく明日のことを考えていた。車はほとんど通らなかった。作業は続いている。時計を見ると交代してから三十分経っていた。スギヤマさんはこの仕事を始めてもう五、六年になるらしい。自営業をやっているのだけどそれだけでは経営が厳しく、空いている日にこうしてこの仕事をしていると言っていた。「最近はヒマだから、こっちの仕事ばかりでどっちが本業だかわからないよ」とよく笑っている。それでも昔はその仕事でかなり稼いでいたらしく、移動中によく当時の話をするが、僕くらいの歳のころはかなり羽振りのいい生活をしていた。すごいですねと相槌を打つが、僕は取り立てて羨ましいとは思わなかった。まだ若いんだからとはよく言われるがなにせ時代が違う。がんばれば報われるわけでは決してない。ヘタをすれば登った矢先にハシゴを外されてしまうことだってある。それはスギヤマさんだってわかるはずだ。僕はそういうときは返す言葉もなく曖昧な笑みでごまかす。
高校生のころも大学生のころも、やりたいことも特になく、いつも図書館で本を読んでいた。高校ではバンドをやっていたが、卒業と同時に遠ざかってしまった。僕は大学生のような、こういう生活が続けられればそれでよかった。だから適当に大学に入り、なんとなく過ごして、四年になっても就活はせず、卒業すると居酒屋のバイトを始めた。しかし騒がしいし忙しいしですぐにやめた。それからコンビニやパチンコ屋、カラオケ、ネカフェなどを転々として、いまは交通規制工に落ち着いている。
テレビの砂嵐のようなノイズが聞こえた。首から下げたトランシーバーからだと気づくのに時間がかかった。耳に当てて聞き返す。ヤナガワさんの声だった。作業終了らしい。走って先頭まで行くとヤナガワさんがトラックが出るのを誘導していた。光っ子取って! と言われたので隅に置いてあるカゴを持って回収を始めた。カゴにはロープがついていてそれを引きずりながら光っ子と呼ばれている保安灯をコーンから外してカゴへ入れていく。スギヤマさんも駆け足でこちらへやってきた。スギヤマさんは台車を転がしながら僕の後ろでコーンを回収する。
設置と撤去はかなり急いで行われる。走っていないと怒鳴られる。僕はそんなに急いでいたら危ないし、どうせあとは帰るだけだから、と思うのだがどうやらそうはいかないらしい。走って保安灯を外していくがなかには固くてなかなか外れないものもあり、手こずっていると怒鳴られるのではとさらに焦る。だいたい二百メートルくらいの規制帯をダッシュするので結構しんどい。前を見るとヤナガワさんが標識車の後ろの件名板と言われる工事情報看板、工事説明看板を片付けていた。ようやくそれに追いつき、カゴを標識車の荷台に乗せるとすぐに警告灯を片付けて交通誘導ロボットを解体した。ヤナガワさんは荷台に乗っていて、スギヤマさんがクッションドラムを持ち上げてそれを受け止めている。僕ももうひとつあるクッションドラムをヤナガワさんに渡す。それからスギヤマさんと二人で畳んだタロウを持ち上げてヤナガワさんに渡した。コーンはすでに片付けてあり、残るのは矢印板だけだった。棒振って! とヤナガワさんに言われたので最後尾まで走ってそこで大きく誘導棒を振った。スギヤマさんが急いで矢印板を片付ける。乗って! と言われ僕も走って標識車へと乗り込んだ。
乗るやいなやトラックは走り出し、僕はフロントガラスに頭をぶつけそうになった。ヤナガワさんがギアを操作しながら思いっきりアクセルを吹かして走らせている。Uターンをしてさらに加速する。作業していた道路を過ぎて信号が黄色になったところでまたUターンをした。そしてトラックを左に寄せると僕とスギヤマさんは飛び降りて工事予告板を回収した。僕は走って「百メートル先」と「五十メートル先」を回収した。看板はガードレールに紐でくくりつけてあり、手袋をしていると縛るのも解くのも手こずる。僕も最初はなかなかうまくいかず遅せえよとよく怒鳴られた。
二枚の看板を抱えて二百メートルをダッシュする。そしてトラックに積み込み、ロープで南京縛りをして固定させた。すぐに乗り込んで終わりましたと言うとトラックはまた荒々しく走り出した。撤去作業終了。ヤナガワさんが携帯でその報告をする。スギヤマさんは真ん中で煙草を吸っていた。
「今日は早く終わりましたねえ」
スギヤマさんがそう言うとヤナガワさんは笑いながら煙草に火をつけて、いっつもギリギリまでやるのにと返した。僕はそれを聞きながら誘導棒とチョッキの電気を消して、ヘルメットを外した。少し汗をかいていた。
トラックはETCレーンを通過して首都高速に乗った。時計を見ると五時手前だった。対向車線で工事をやっていた。
「二車線規制ですか……」
「終わらねえんだ」
「高速は嫌ですよねえ」
道路は空いておりトラックはぐんぐんスピードを上げて走っている。六時までに着くかなあとヤナガワさんが言った。走行車線と追い越し車線を行ったり来たりして、レースゲームのように車を抜いていく。
ヤナガワさんはおそらく一番の古株だ。よく「二級」と言われている交通誘導警備業務検定二級を持っている。日勤も夜勤もこなしていて、トラックの中で仮眠を取ってそのまま現場に行ったりもしている。そのためかいつも疲れていて、なにかにイライラしているような印象で、現場が一緒だと独特の緊張感がある。特に撤去や帰りの車内ではそうだ。
僕は煙草に火をつけた。獰猛に走るトラックの窓からは海が見える。気が遠くなるほど大きな倉庫や外に並べられたコンテナ、空まで届きそうなクレーンの数々。それらが流れていくとマンションの郡が見える。よく電車の広告にある「高級」を絵に描いたようなマンション。まだこんな時間なのにちらほらと明かりが灯っている。朝食の時間だろうか。きっとそこに暮らす人たちは、いつも僕が食べているそこらへんのスーパーのプライベートブランドの安い食パンなど食べることはないだろう。瀟洒な街の通りに面したベーカリーで買ってきた、一口で食べられるようなパンが五、六百円くらいする店の食パンを食べていることだろう。ジャムだってアヲハタではないだろう。わからないが、セレクトショップみたいなところで買った直輸入の、僕には味も想像できないようなジャムを食べているのだろう。僕にはアヲハタだって高級なジャムだというのに……。
埼玉の外れにあるボロいアパートに帰る道すがら、こうして上流国民の暮らしを想像するのも楽しい。村上龍の小説のような、クスリをキメてバカみたいに高いシャンパンを水よりも粗末に扱って女を酔わせて人格を破壊するようなえげつないセックスに興じる、やらないにしてもやろうと思えばできる金持ちの生活に思いを馳せ、僕はパソコンでストリーミング配信されている画質の荒いエロ動画を見ながら粗末なものを握っているのがせいぜいだと思うと、ある種のマゾヒスティックな快感を覚える。
ヤナガワさんとスギヤマさんも外を見ながら話している。ここは昔はただの海だったのにとかあそこのマンションのそばに大きな道路が通るらしいとか。まるでそのマンションにはひとつひとつ、それぞれの暮らしがあることを認識していないかのような話し方だった。それから話題は同僚の悪口へと移った。使えない、一緒に入りたくない、という言葉がよく出てきて僕もいないところではそう言われているような気がした。ため息と一緒に紫煙を吐き出して、吸殻を灰皿に捨てた。
前の車が遅いと、その度にヤナガワさんは舌打ちをして追い越す。なにに彼はそこまで急き立てられているのだろうか。
「今日は……日勤あるんですか?」
スギヤマさんがそう尋ねるとヤナガワさんはこれから日勤と夜勤があり、明日は明日で夜勤があると答えた。へえ、とスギヤマさんは笑った。
首都高速を降りてすぐのガソリンスタンドで給油をした。このときに発電機と携行缶にもガソリンを入れる。僕は荷台に登ってそれを行った。
「ピッタリに入れてね」
スギヤマさんがニヤニヤしている。僕はメーターを見ながらレバーを調節して、千円ピッタリになるように入れる。メーターはゆっくりと上がっていき、あと四円、三円、二円……
結果は一円オーバーだった。まだまだ甘いねとスギヤマさんは笑っている。僕も一緒に笑った。いいから早く乗ってと言うヤナガワさんの声は苛立っていた。
午前六時過ぎ、資材置き場兼駐車場といった、砂利の広場にトラックを止め、僕はサイドミラーを畳んで右前輪のタイヤに輪止めをした。ヤナガワさんから日報を受け取り、そこに名前を書いて今日は解散だった。お疲れ様でしたと言って僕は原付を走らせた。
空気が冷たく張り詰めていて顔に受けると切り裂かれそうな感覚がした。それでも仕事終わりの開放感から、気持ちは高揚していた。途中で二十四時間営業のスーパーに寄って、半額以下にまで値引きされた弁当を買った。昨日の夜の値引きでもまだ売れ残った弁当だ。おそらくコンビニではとうに廃棄されていることだろう。しかし傷んでいるわけでもなし、こうして夜勤明けの日には重宝していた。弁当を足の間に置いてさらに原付を走らせる。とにかく熱いフロに入りたかった。それから少し寝て、そのあとのことはそれから考える。
アパートに着き、部屋へ入った。まず暖房をつけてから、浴槽にお湯を張った。熱湯を出してから水を少しずつ出していって温度を調節する。手がかじかんでいてよくわからなかったが手を温めながら水をひねっていく。温度でいえばいまの季節なら四十二、三度くらいのお湯がいいのだが、ウチには温度設定できる設備はない。なので感覚で湯温を決める。
お湯を張っている間に買ってきた弁当を食べた。今日はそぼろとたまごの二色弁当だ。割り箸を入れると固くて折れそうだった。ごはんは四角く固まっていて、それを箸で寄せてかぶりつくように食べる。口の中で少し温まり、味がするようになる。古いせいで乾燥しており、喉につっかえそうになるのを水で流し込む。
食べ終わったころにはフロにお湯が溜まっていた。作業着を脱ぐと、まだ部屋は温まっておらず、寒さで歯が噛み合わず身体が震えた。スピーカーを持ち込んでとにもかくにも湯船に入った。芯まで凍りついた身体が徐々に解けていく感じがした。全身の表面がお湯の熱でチクチクと刺激されている。包まれるような温かさに思わず目を閉じた。そのまま力を抜いて身をあずける。お湯の熱がだんだんと身体の中にまで入っていく感じがして、寒さと労働で凝り固まった筋肉がほぐれていくのがわかった。
終わった、と天井を見上げて呟いた。長い一日だった。日中は水道管の交換のために片側交互通行の規制をした。トランシーバーでやり取りをして行く車や来る車を誘導する、神経を使う現場だった。その後会社のトラック置き場の正面のコンビニで弁当を買って、トラックの中で食べたあと、夜勤の現場へと向かった。長くて寒い、皆が嫌がる現場だった。
狭い浴槽で、胎児のような格好でお湯に浸かっている。姿勢を変えて伸びをすると筋肉がほぐれて急に血行がよくなったせいか少しクラクラした。寒い寒い現場のあとの、この熱いフロが僕にとってとても幸せなひとときだ。
スピーカーからはパガニーニ『ヴァイオリン協奏曲 第2番 ロ短調 作品7 《ラ・カンパネラ》』の第1楽章が流れている。あいにく楽譜は読めないし知識もまったくないが、なんとなく無数の音符(オタマジャクシ)が軽やかにかつ、伸び伸びと踊っている姿が浮かんでくるようだ。ときに死んだかと思わせられるが、すぐにまた踊りだす。再び目をつむれば晴天の下、草原が一面に広がっている。宙を待っているオタマジャクシはキラキラと輝いていて、白昼の星のようだ。無秩序に、各々が自由に踊っているかと思えば、ときに息を合わせて隊列を作って擬態することもあった。それはクジラだったりキリンであったりと様々だ。第2楽章へと移り場面は深海に変わる。深い青の中で緩やかに泳いでいる。そして彼らは一斉に光のある方へと昇っていく。闇にも似た青からだんだんと淡い光が溶けた透明なコバルト色へと変わり、やがてオタマジャクシは海面を飛び出して空へと舞った。海原で天使のように踊っている。風雅だと思った。空で舞い、純白の太陽とひとつになり、砕けるようにして消えた。
目を開くと、じんわりと汗をかいていることに気がついた。浴槽から上がるときにまた少しクラクラとした。こわばっていた身体はすっかり軽くなり、ポカポカしている。さっさと身体を洗ってシャンプーを済ませてフロから出た。
昼過ぎに目を覚ました。身体は軽く、頭もすっきりとしている。布団から出てベッドに腰をかけた。煙草を吸う。カーテンから光が滲んで淡く部屋を照らしていた。さて、これからどうしようか。
煙草を咥えたままコーヒーメーカーでコーヒーを淹れた。サンアントニオプレミアムショコラの甘くて香ばしい匂いが、凪いだ海のような穏やかな福音に思える。カップをテーブルに置くと、僕はCDの積まれたラックから一枚選んでコンポにセットした。ラフマニノフ「2台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』」を一度手に取ったが、なんとなくふと目に付いたjizue『Bookshelf』が聴きたくなってそちらをセットした。
カーテンを開けて再びベッドに座り、リモコンで音楽を再生した。煙草を消してコーヒーを一口飲む。陽だまりで緩やかな時間の流れを感じていると思わずため息が漏れる。ピアノとギターの美しい調べに身をあずけて、ゆりかごで眠る赤子のように旋律に揺られながら口にするコーヒーは苦味さえも優しくて、僕は目をつむり、そのまま後ろに倒れ込んだ。
ふいに、この前の休みの日に飲みに行った友人の言葉が耳をかすめた。お前、このままじゃまずいぞ、と。その目には僕に対する明らかな優越感があった。子どもを躾ける親の気持ちという表現では綺麗すぎる、もっと劣悪で愚かな、そして差別的なニュアンスをふんだんに盛り込んだ眼差しだった。彼は友人として、できるだけそれを隠そうと努めていたが、己の内から湧き上がる承認欲求に惜敗し、ついに僕はそれを見破った。僕はジム・ビームのロックを舐めた。喉が熱くなると同時にロッジにいるような木の温もりを舌で感じた。友人は言った。いまのままでずっといられるなんて考えが甘すぎる。
僕は腕を組んで考えるフリをした。敢えて俯いて、呟くように確かにそうだよなと口にした。友人は新車ディーラーとして支社でかなりの成績を上げているらしく、こういう客にこうして買わせた、という話から始まり、交渉のときの心理術の話になり、僕はそれを感嘆して聴いていた。するとどういうわけかいつの間にか僕の仕事の話になり、非正規のガードマンという彼と比べればおそらくは世間一般でもこちらに票を入れてくれる人はごく少数であろう僕の生活に彼は忠告めいた発言を始めた。確かにそうだよなという僕の呟きに対して、彼はいまからでも正規の仕事を見つけろよと、いささか熱っぽく言った。そうだねえ、と僕は返す。
「『私たちにとって、清貧とは自由を意味しています。清貧こそは私たちの力であり、幸福の源なのです』マザーテレサの言葉だよ。なにも金だけが人生じゃない」
「詭弁だ」友人は吐き捨てるように言った。それからスマホを取り出して、なにやらいじりはじめた。
そういえば、彼は最近子どもが生まれたらしい。スマホで写真を見せてもらった。「すやすや」という言葉がこれ以上ないくらいに安らかに眠っている姿はとても愛らしかった。僕がかわいいねと言う前に、マジで天使だよこの子はと彼が言った。この子のためなら、って思うと仕事にも張りがでるんだよ。
僕は組んでいた腕を解いてまたウイスキーを舐めた。子どもかあと、僕は独り言つ。すると友人は自分のスマホをこちらに向けて、生まれたばかりの自分の子どもの写真をスライドして見せてくれた。しばらく見ていたが、僕はゆっくりと背中を背もたれにあずけてまた腕を組んだ。視線は画面のまま、感歎詞を口にしながら煙草に火をつけた。
彼はスマホをしまうとまた僕に向き直った。そしてまた、僕に向けて今度は先ほどのような躊躇いはなく、不躾と言っても差し支えない、まるで正義は完全にこちらにあるとでもいいたげな様子で言った。お前、結婚なんてできねえだろ。
僕は煙草の煙を吐き、ゆっくりと灰を落とした。煙草を灰皿に置いて再び腕を組んだ。まあ、結婚したいとは思ってないからね。
「『結婚は鳥カゴのようなものだ。カゴの外の鳥は餌箱をついばみたくて中へ入りたがり、カゴの中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる』モンテーニュの言葉だよ。僕は自由でいたいんだ。だから結婚はしない」
「それは『しない』んじゃなくて『できない』からだろ?」
「確かにいまのままではそうだよ。でも、そもそもしたいと思ってないんだから、現状を変える理由がない。僕はそれなりにいまの生活を楽しんでるからね」
彼はふんと鼻を鳴らした。くだらねえと小さく呟いたのを僕は聞いた。
彼はキューバリバーの残りを飲み干してマッカランのロックをダブルで頼んだ。僕はジントニックを頼んだ。店員がいなくなるとお互いに口を開かなかった。僕はミックスナッツをひとつまみ口に入れて咀嚼した。彼は不機嫌そうになにかを考えているようだった。
店員が来て酒を置いていった。僕らは黙ってそれに口をつける。やっぱり居酒屋のジントニックは飲めたものではない。僕はよくひとりで行く近所のバーのジントニックの味を思い出していた。学生のころに通い始めて、そこでジントニックを飲んだときの感動はいまでも忘れられない。ジンとトニックウォーターのバランスはもちろん、ほどよくステアされたことによる絶妙な炭酸の抜け具合、そして一口飲んだときの甘さとほろ苦さの妙。そのあとにそこはかとなくライムの清涼が訪れるあのジントニック。
メニューを見ながらマスターにいろいろ訊いた。これはどんなカクテルなのか、たとえばジンフィズとスロージンフィズの違いは、など。あとはウイスキーについても、おすすめを教えてもらい、飲みながらこれはどういうウイスキーなのかを訊いたりもした。
それから数年して社会人になってからもたまにその店に行くことがあった。あるとき店で流れていたジャズが僕の琴線に触れて、マスターに誰なのかを訊いた。狭間美帆というニューヨークで活動しているジャズアーティストらしい。なんとなくゴリゴリした、アドリブ合戦のようなイメージだったジャズが、このアルバムを聴いて一変した。静謐な華やかさを纏いながらもときに猛々しく聞き手を圧倒する、ダイナミックでかつデリケートな音楽だった。日本人だからということもあるのだろうか、とても入り込みやすくて楽しい印象だった。
マスターが狭間美帆の『ジャーニー・トゥ・ジャーニー』を流してくれて、それを聴きながら僕はギムレットを飲んでいた。
「今日はお仕事終わり?」マスターがグラスを拭きながら訊ねた。
「そうなんです。夜勤だったんですけど、少し寝てから来ました」
「へえ……仕事はなにをしてるの?」
「ガードマンです」
「あの、道路工事の?」
「そうですそうです」
「大変だよねえ……怖くないの?」
このときは繁忙期で、昼も夜もなく働いていてようやく作れた自分の時間だった。疲れているので寝ていてもよかったのだが、それでは味気ないと思い少し腹ごしらえをしてからバーで飲むことにした。マスターが話してくれるお酒やジャズの話はとても興味深くて、僕もジャズのCDを集めるようになった。バーはお酒を飲むだけでなく、いろいろなことを教えてくれる、とても貴重な場所だ。
視線を安いジントニックから友人へと移す。と、目が合った。相変わらず不機嫌そうな表情だった。彼は大きくため息をついた。お前も変わっちまったな。
ジントニックをすすっていると友人は言った。
「お前の、ほら、高校のときのライブ、覚えてるだろ? あのときの勢いはもうないのか? お前はまだやれると思うんだよ。俺はお前が好きだから、またお前のあのときみたいなカッコいいところが見たいんだよ」
昔のことだとは口には出さなかった。確かにあのときはとても楽しかった。がなりたてるような友人のギターに、負けじと食らいついていくベース。そして先頭をきって突き進んでいくようなドラム。僕はボーカルとして、その演奏陣に負けないように必死に叫び続けた。
高校生のころ、僕と友人は軽音楽部に入っていた。友人とはそこで知り合った。友人がギターを持ち練習を重ねて上達していくのを尻目に、僕は持っているギターでなにをすればいいのかがわからなかった。なし崩し的にバンドを組むことになり、一年生のころの最初の視聴覚室でのライブで、弾けないままステージに立ち、散々な結果に終わった。同時にそのバンドもそこで解散となり、それから僕はギターを弾くことはなかった。
バンドもなく、ひとりで活動するわけでもなく、僕はローディーとして在籍していた。機材を運んだりセッティングしたりと文化祭や新歓のときのライブの準備を手伝ったり、音響を担当したりしていた。学年が上がってもそれは変わらず、後輩のライブのために裏方として働いていた。
二年生の三学期、先輩の卒業ライブが数ヶ月先に控えての、部内で行う視聴覚室でのライブのときだった。僕は相変わらず音響を担当していて、横でステージを見ていた。そこへ友人がやってきて僕の耳元で言った。
「つまんねえライブだよな」
友人はこのころでは部内でも中心的なバンドのギタリストとして活躍していた。歌もうまいので、ボーカルをやることもあった。確かに、友人のバンド以外のライブはまるで発表会のような代物で、見ていても面白くもなんともなかった。
「お前ならやれんだろ?」
薄暗い中だったが、友人の目が意地悪く、そしてなにか確信に満ちた輝きがあるのがわかった。僕はふっと笑ってしまった。僕は楽器できないから。
「歌え」友人は言った。「俺がギター弾いてやるから、お前は歌え。ドラムとベースはアテがあるから、卒業ライブに出るぞ」
卒業ライブ当日。SEが流れる。映画『ゴッドファーザー』の『愛のテーマ』だ。ゆっくりとメンバーが持ち場につく。僕はステージの真ん中に立った。見回すと観客の表情がひとつひとつわかるようだった。お前になにができる、ろくにバンド活動もしてこなかったくせに、また去年みたいな酷いライブになるんじゃねえの……気のせいだと思いたいが、全員がそう思っているような気がしてならない。後ろを向く。ドラムが笑いながら頷く。ベースは静かに親指を立てた。ギターを見ると、彼は「行くぞ」と言った。僕はPAに手を挙げて合図をした。静寂が広がり、あたりが暗くなる。
スネアの音がして、直後、爆音が静けさを蹴散らした。『デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ』。ギターリフが始まると僕は叫んだ。すると歓声が上がり、拳を突き上げて観客が応えてくれた。僕はその瞬間、身体中からいままで無意識のうちに積もっていたあらゆる感情がはじけて飛んでいくのを感じた。その勢いのまま僕は歌い続けた。
このライブのために僕らは部活の活動時間ではなく、放課後にスタジオに入って秘密裏に練習を重ねた。だから観客である部員たちは僕らがどういうライブをやるのか、そのときになってみないとわからない。そして、僕らはコピーするバンドにミッシェルガンエレファントを選んだ。
ライブは成功し、それから僕らは定期的に行われるライブハウスを貸し切ってのライブに出るようになった。評判は想像以上によく、僕らの代の卒業ライブではトリを務めることになった。
あのときのエモーショナルな感動を忘れたわけではない。ただ、あれはあのときにしかできないことで、恒常的にできるものではない。事実、高校卒業と同時に音楽からは遠のいてしまった。いまでも聴くのは好きだが、またライブをやるとなると話は違ってくる。大学に入り、僕は昔から本を読んでいたが、さらに多くの本を読むようになった。
そう、あのライブはもう、昔のことなんだよ。
乱暴に煙草に火をつけて気だるそうに紫煙を吐く友人を見て、僕は胸の内でそう呟いた。
目を開くとそのときの友人の、怒りとも違う、悔しさとも違う、とにかくやるせない気持ちでいっぱいの顔がぼんやりと天井に浮かんでいた。
Jizueのアルバムが終わろうとしている。僕は起き上がって冷めたコーヒーを飲んだ。小さくため息をつく。変化なんかいらない。僕はそう思う。これ以上、なにを望むべくもない。
CDをトレイから出してまたラックにしまった。僕はキッチンで鍋に火をつけた。お湯を沸かしている間にラヴェルのピアノ協奏曲をかけた。そして、狭いキッチンなのでコンロと流しに間がなく、流しにまな板を渡してそこで鷹の爪を切ってニンニクをみじん切りにした。灰皿を持ってきてキッチンで鍋を見ながら煙草を吸う。『泥棒かささぎ』でも口笛で吹けば、もう少し違う人生だったかもしれないが、僕はその曲を知らない。
第一楽章が終わるころ、お湯が沸いた。パスタを鍋に入れて塩をそこへ加えた。第二楽章を聴いていると、本当においしく出来上がるのか不安な気持ちになってくる。ゆらゆらと茹でられているパスタ。憂いを帯びたこの第二楽章は、パスタの気持ちなのではないか。あるいは乾燥して固くなっているのを、お湯を通して柔らかくなり踊るように茹でられている、ある種のメタファーなのではないか。
と、そこへスマホの着信があった。僕はしばらく無視をしていたが、一向に止む気配はない。十三回鳴らせたところで電話に出た。まさかとは思いながらも、内心はやや緊張していた。電話に出ることで変な事件に巻き込まれるのではないか。
出るとなんのことはない、明後日の現場が中止になったとの連絡だった。
ふっと笑ってしまった。くだらない。コンロから鍋をあげてまな板の上に置いた。電話のせいで茹で過ぎたこともなく、順調に進んでいる。今度はフライパンにオリーブオイルを入れて、そこへ鷹の爪とニンニクを加えて火にかけた。弱火でゆっくりと炒める。次第に香ばしい匂いがたちこめてきた。鞭の音が聞こえた。軽やかで楽しげな旋律が流れていく。パスタの鍋から少しお湯をすくってフライパンへ入れた。弾けるような音がして、僕はそれをなだめるようにフライパンを揺する。それからパスタをフライパンへ入れてトングで手早く混ぜ合わせる。塩を加えて味をととのえて盛り付けたのと同時にピアノ協奏曲が終わった。
CDをしまってテレビをつけた。ふいに映画が観たくなったので『黒いジャガー』を流した。車の流れる大通りを我が物顔で横断するシャフト。ワウを効かせたシブいギターリフが彼のタフさを物語っている。
出来上がったペペロンチーノは少し味が薄かった。コーヒーメーカーのポットからコーヒーを注いで、それで流し込む。うまくないパスタには苦いコーヒーがよく合う。塩を足しながら食べて、コーヒーの最後の一口でようやく食べ終わった。
食器を片付けて映画の続きを観た。観ながらスマホでSNSを見ていると、様々な書き込みの中でニュース記事のリンクと一緒に「こんなクズが世の中に存在させているのが悪い。さっさと死刑にすればいい」という書き込みがあった。その人のほかの書き込みを見ると芸能人の不倫スクープ記事にも下世話な書き込みがされていて、僕は不快感と憐憫の情を抱いた。そして、その人をブロックした。
タイムラインに戻ると「いいね! の数だけハンバーガーを買ってきます!」とか「いいね! の数だけ質問に答えます」とか、どうにか拡散をさせようとしている記事が目に付いた。僕は煙草を吸いながらそういう人たちのフォローを外していった。彼らの気持ちはなんとなくわかる。流行らせたい一心なのだろう。しかしそれにしては悪手が過ぎる。これではどんなに拡散されたって、誰にも見向きもされない。ポスティングされるゴミ同然のDMのようなものだ。満たされていないのだな、という印象だけが残る。
SNSを見ているうちにパスタを食べたせいか、やけに眠くなってきた。僕はもう一度横になり、目をつむった。
夕方に目が覚めた。昼過ぎには新宿の紀伊國屋書店に行こうと思っていたのだが、いまから行くのもおっくうだ。しかし、さりとてなにを買うでもなし、まあいいかと僕は煙草に火をつけた。
煙草を吸いながら僕はまた、以前友人に言われたことを思い出していた
お前、このままじゃまずいそ。
彼がそう言うのならそうなのだろう。彼の中では。紫煙を吐き出して僕は時計を見た。午後六時の少し前だった。
夕食の準備をしようと思ったのだが、食欲がない。なんとなく飲みに行きたい気分だったから着替えて近所のバーに行くことにした。久しぶりにカクテルが飲みたかった。ギムレットには早すぎる時間だったが。
バーへは歩いて行ける距離だが、駅の反対口に出る必要がある。アパートのある住宅街からバス通りで出て駅まで向かう。平日の夕方ともあり、家路へ向かう人が多く通り過ぎていった。皆、足早に家路へと向かっている。一心不乱に。門限でもあるのだろうか。僕はこれから飲むお酒のことを考えながら悠長に歩みを進めていた。
陽は徐々に沈んでいき、ぽつりぽつりと街灯が点きはじめている。人々の一日が終わりを告げるころ、僕の一日は始まる。それはとても気分のいいものだった。
バス通りを真っ直ぐ歩いていくのだが、その途中の路地に軽トラックが駐まっていた。背面には「Bar リンドウ」と書かれていた。祭りなどでやっているケバブ屋のような佇まいだった。僕は路地へ入り、その軽トラックの様子を見に行った。会議室にあるようなパイプ椅子がひとつと、トラックの側面はカウンターになっていた。バーとあったが、ウイスキーやラムなどのお酒が並んでいるということはなく、マスターと思しき年かさ三十代後半といったところの端正な顔立ちの男が文庫本を読んでいた。カウンターの隅に間接照明が置いてあり、柔らかい光が胸懐に安らぎを与えてくれた。僕はすみませんとマスターに声をかけた。文庫本を閉じて、どうぞと言い、僕に席を勧めた。言われるがままパイプ椅子に座ると、マスターはカウンターの下からジンを出してグラスに注いだ。僕は発する言葉もなくただただマスターがお酒を作るさまを見ていた。
トニックウォーターを注ぎ、軽くライムを絞ってそれをグラスへ入れ、ステアすると僕の前に置かれた。ジントニック。僕はそれに口をつけた。甘いジンの風味が慰めてくれるような優しさで、ライムの香りに抱擁してくれるような温かさを感じさせられた。
「『自然は、われわれを幸せにするために、体の器官をうまく整えてくれたが、自惚れまでおまけにつけてくれた。われわれが自分の欠点を知って苦しまなくてすむように、こんな配慮までしてくれたらしい』」
グラスを置くとマスターは言った。ラ・ロシュフコーだよ。
僕はなにも言えなかった。黙ってジントニックに口をつけた。マスターは無表情だった。表情がないというよりは、淡々としていると表現したほうが適当だろう。
「それは、どういう意味ですか」
さあね、と返ってきた。それから
「幸せの第一の条件は、健康であること。しかしそれだけでは飽き足らず人は自惚れる」
グラスの氷が柔らかい音を立てた。
「君も誰かの自惚れによって嫌な思いをしなかった? 言われる筋合いのないことを言われたりさ」
ふいに、というかその言葉によって促されるように僕はこの間、友人と飲みに行ったときのことをためらいがちに話し始めた。マスターは表情を変えることなく聞いてくれていた。それがかえって心地よかった。
「『誰もが自分自身の視野の限界を世界の限界だと思い込んでいる』……ショーペンハウアーの言葉だよ」
僕が話し終えるとマスターは言った。
「もったいなことだよね。もっと深く知ろうとすれば、世界は広がるのに。それをしないで見えているものだけですべてを知った気でいる。君はどう思う?」
グラスを持ったがそれを戻して僕は考えた。『誰もが自分自身の視野の限界を世界の限界だと思い込んでいる』
その言葉がすべてなのではないかと思った。だから僕はなにも言えなかった。
「さっきの自惚れの話もそうだけど、自分の見えているものの中には自分の欠点は存在しないんだよね。――だから人は生きていける部分もあるんだけどね」
煙草の箱を出すと、そっと小さな灰皿を出してくれた。火をつけてゆっくりと吸い込む。マスターは氷を砕きはじめた。規則的に聞こえてくる音は寧静で、煙草を吸っている安らぎをさらに明媚なものにしてくれた。
僕はマスターのさっきの話を反芻していた。このままじゃやばいぞ、という友人の言葉を肯定するでもなく否定するでもなく、だけど僕にある種の光を与えてくれた。いままでコールタールのようなものが煮えていたのが、やがて冷えて固まり、そのまま心の奥で閉ざされていたものが再び温度を取り戻してドロドロと排出されていくような感覚だった。
飲み終わり、僕はマスターにギムレットを頼んだ。
「うちはジントニックだけなんだよ。それと、一杯だけしか出さないんだ」
僕は勘定をした。それから
「いつもここでやってるんですか?」
「さあ……君が飲みたくなればきっとまた来られるよ」
その日の仕事は銀座の中央通りの工事現場だった。三日ぶりの仕事だった。街灯を交換するらしく、その掘削の工事だった。片側一車線と歩道の一部を規制して、僕は歩道側に立っていた。歩行者が通るたびにどうぞと手で通行を促す。
連休は本を読んで過ごした。前に買った、書店でフェアをやっていて、それで買った恋愛小説だ。二日かけて読み終えた。それなりに楽しめる内容だった。
恋愛ねえ、と自分の現状を鑑みていると作用員から次の規制を指示された。僕はハッとしてコーンバーを外してコーンを重ねていき、それを次の規制場所へと運んだ。早くしろよと怒鳴られた。改めてコーンを設置してバーをそこへ取り付けた。作業員が機材を規制帯へ運び、作業が始まった。
再び僕は規制帯内で歩行者の誘導を行った。
夜の銀座は高踏的な人々が闊歩していて、僕の誘導など眼中に無いようだった。それでも僕は通る人が来るたびにどうぞと声をかけいった。
歩行者が来たのでまた声をかけようとすると、スギヤマさんだった。お疲れ様ですと言うと、三十分行ってきていいよと僕に言い、規制帯の中へ入った。僕はお願いしますと規制帯から出て、作業車へと向かった。
車はエンジンがかかっていて、暖房がついていた。僕はガラスを少し開けて煙草に火をつけた。今日はどのくらいで終わるのだろうか。車の時計では二十二時ちょうどだった。
三十分の休憩ではとくにすることがない。ほかの人は弁当を食べたりスマホでゲームをしたりしているが、僕は食事を済ませてから仕事に入るし、ゲームはやらない。誰かとコミュニケーションアプリでやりとりをするわけでもなし、ただただ煙草を吸って銀座の煌びやかな街並みをぼうっと見ているだけだった。
ゆらめく紫煙の向こうの景色は、あまりにも自分の生活とかけ離れていてまるで現実味がなかった。こんなところ、仕事以外ではまず訪れないだろう。全体、なにを目的に来ればいいのかさえわからない。周辺にはレストランやショッピングモール、飲み屋などいろいろな店があるが、わざわざここまで来るべくもない。
銀座という街が生活圏にある人たちというのは、一体どのような暮らしをしているのだろう。ステレオタイプの、いわゆる上流階級の生活が目に浮かぶ。しかし、過ぎていく人を見ていると、僕と同世代の人たちもいる。彼らは金持ちとは遠くはないだろうが、近くもないだろう。まだまだこれからの結果如何でそれが決まる。小奇麗なスーツを着て、シャンとした姿勢で、目は活力に満ち、将来への強い期待を全身にオーラのように纏っている。
煙草を消してため息をつく。ふと、僕は若い彼らは果たして幸せなのだろうかと考えた。人生は楽しいかというという問いにはおそらくイエスと答えるだろう。しかしそれが果たして幸せと直結するのだろうか。そもそも、幸福な生活とはなんなのだろうか。ショーペンハウアーの『幸福な生活とは何かといえば、生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである』という言葉。僕はこの言葉に大いに賛同するが、おそらく彼らは違う。もっと鮮烈で、激越で、闘争的なものを言うのだろう。
ペットボトルの二リットルの水を飲む。そして煙草に手を伸ばし、もう一度ため息をついて火をつけた。
人々はそのほとんどが誰かと連れ立っている。そして笑いながら街を行く。人間とは社会的動物であると社会学の講義で言っていたのを思い出した。「あなた」がいるから「わたし」が存在する。「あなた」という概念が無ければ、そもそも「わたし」という概念も存在し得ない。
人は一人じゃ生きていけないとはよく言うが、大局的に考えればそうだろう。しかしミクロな視点で考えれば、必ずしもそうとは限らないと思う。
笑い声が聞こえる。休憩時間が終わろうとしている。僕はヘルメットをかぶり直してチョッキの電気をつけて、誘導棒を持つと外へ出た。グローブをつけながら歩く。比較的暖かいが、それでも立ちっぱなしでは身体は冷える。ヤナガワさんのいる道路側の規制帯へ入り、交代した。よろしくねとだけ言って、さっさと行ってしまった。
通り過ぎる車には誘導棒で通行を促す。片側交互通行ではないので、車を止めることはない。作業の様子を見ると、ユンボで穴を掘っていた。ある程度まで掘ると、今度はスコップで掘る。電話線などがあるため、手作業でないと危険なのだろう。そして時折掘った深さを見て、大きなメジャーで数字を見て、それと一緒に写真で記録する。それの繰り返しだった。
当然、作業ばかり見てはいられないので、車のないときにチラチラと見るだけだったが、果たしていつ終わるのかはわからない。件名板には午前五時と書いてあるが、それはあくまで形式的なもので、そこまで作業をしていると規制帯の撤去が遅れてしまう。行政から許可を貰っているのがその時間までということで、その前に作業を終わらせなければならない。だから作業員は時間に追われていてピリピリしている。棒を振っているだけの僕は、どこか居心地が悪かった。運が良ければものの三、四時間ほどで終わってしまう場合もある。しかし、それは神のみぞ知る、といったところだ。
都会の生暖かい風が体温を隠然とさらっていく。車の交通量が減ってきて、僕は作業のほうを見ていることのほうが多くなった。歩道を見ると赤い顔をした人たちがおぼろげな足取りで過ぎてくのが見えた。腕時計を見ると二十三時をとうに過ぎていた。
冷えた体がこわばっていて、僕は伸びをした。首を上げて空を見た。ペンキで塗ったような厚い雲がのっぺりと、空を覆っていた。さっきと比べて空気に湿り気があるような気がする。
店の灯りは消えていき、それでも街は燦然と光り輝いていた。しかしどことなく今日という日の名残りがおぼろげになっていって、街は眠たげだった。飲み屋から出てきた人がやけに大きな声でまたお願いしますといったような意味の言葉を叫んで、地下鉄の構内へと入っていった。
スギヤマさんが来た。今日は早く終わりそうだねと笑っていた。僕には皆目見当がつかなかったが、スギヤマさんにはわかるらしい。僕はお願いしますと言ってチョッキと誘導棒の電気を切った。
作業車のフロントガラスが細かい水滴で覆われていた。降り始めていたのだろうか。気づかなかったが、ガラスを開けて手を伸ばすと霧雨が降っていた。中止にならないかなと淡い期待を抱いた。
外へ出て、自販機でコーヒーを買った。車内でそれを飲みながら煙草を吸った。二十三時半。いつもなら寝る仕度をしている時間だ。あくびが出た。それをコーヒーと煙草でごまかす。雨は次第に強まり、とはいっても小雨程度なのだが、それでも開けたガラスの隙間からは冷たい夜風が舞い込んでくる。甘ったるくて温かいコーヒーは凍えている身体にしみた。眠気を飛ばすには気休めにしかならないが、甘くて温かければそれでよかった。それと煙草。僕は一日で一箱は吸ってしまう。特に仕事のときは休憩時間といっても煙草を吸うくらいしかすることがないので本数は増える。
残りの休憩時間はあと十分だった。前からヤナガワさんが走って来るのが見えた。僕は急いでグローブをつけ、ヘルメットを被り、チョッキと誘導棒の電気をつけて外へ出た。撤去するよ! と言い、ヤナガワさんは規制帯へと走っていった。僕もそれに続いて走った。走りながら誘導棒をズボンのベルトにさしてグローブをつけた。すでに撤去作業は始まっていた。歩道側やって! とヤナガワさんが叫ぶ。僕は歩道のコーンなどを片付けていった。コーンバーを外してまとめておき、コーンを重ねていく。それを作業車へ積んでいく。それから、工事予告標識を回収して、ひまわり、タロウ、件名板を片付けた。僕は規制帯の先頭に立って誘導棒を振った。そのうちにスギヤマさんが矢印板(やいた)を片付ける。終わると走って作業車へと乗り込んだ。
撤去終了の報告をヤナガワさんが運転しながら行った。車は荒々しくがらんどうの道路を走っていく。○時を少し過ぎたころだった。
家に着いたのは一時半過ぎだった。フロに入ってすぐに寝た。次の仕事は日付が変わっているので、今日の夜勤だ。同じ現場なので、今回のように早く終わればいいなと思っているうちに眠ってしまった。
着信音で目が覚めた。寝ぼけ眼でスマホを取り、電話に出た。女の人の声だった。久しぶり、覚えてる?
まったく覚えていなかった。どうやら高校のときの同級生らしい。三年生のときに同じクラスになったと言っていた。話していくうちに僕もおぼろげに記憶が蘇ってきた。
「――いまは? 仕事してるの?」
僕は非正規だけどね、と答えた。
「それってさ、いまはいいだろけど、今後どうするの?」
わからないと答えた。
「私さ、お店をやりたかったんだよね。カフェなんだけどさ。夢だったの。それで、やっぱり資金って必要じゃない? それで知り合いから教えてもらって仕事を始めたの。難しい仕事じゃないよ。全然怪しくもないし。ほら、こういうので詐欺まがいみたいなのってよくあるじゃない? そういうのじゃなくて、ちゃんとした会社だし。それでそこで働いて、資金が貯まったからいまお店やってるんだ。よかったら来てよ! そこでその会社の話もしたいし。どうかな?」
僕は煙草に火をつけて、聞えよがしに紫煙を吐き出した。そしてもう一度、吸って、吐いた。
「悪いけど、興味ないな」
「このままでいいの? 失礼だけど、いつどうなるかわからないじゃん」
「うん。それでも俺はいいや」
彼女は、お金はあるに越したことはない、この仕事なら私みたいにほかにやりたいことをしながらできる、私は夢を叶えられた云々、激越な調子で捲し立てた。どうしてこんなに人は僕の人生をとやかく言うのだろうか。税金だって年金だって収めているし、ぽつりぽつりと貯金もしている。僕はいつもの調子で聞いていた。
やがて彼女は諦めたのか喋り疲れたのか、興味がわいたら連絡してと言って電話を切った。終話音は僕に苦い虚しさを届けた。僕はそれを煙草で誤魔化そうとした。
釈然としないが腹は減る。僕はジャガイモを一口大に切って、玉ねぎと一緒に電子レンジで加熱した。それを先に炒めたベーコンと一緒にして、塩コショウをする。味をみてブラックペッパーも加えた。冷凍しておいたごはんを温めて、いささか心にしこりを残したまま昼食をとった。
こんなときはカスピアンを聴くのがいい。刺激的なメロディとそれを覆うかのように鳴り響く轟音。静かでいてエモーショナル。無秩序なようで調和のある音。なにも考えずにただそれに沈むようにして聴き浸る。
心の中の乱された平静。カスピアンのメロディがそれを整えて、さんざめくギターが鼓舞してくれる。アルバムを一枚聴き終わるころには調子が戻っていた。
午後六時を過ぎたころに目を覚ました。いつの間にか寝ていたようだった。煙草を買いに外へ出て、そのついでになんとなく前にあった路地まで行ったが、そこにはなかった。あのジントニックの味を思い出していた。歩いて街のあちこちを探したが、どこにもなかった。
「また君が飲みたくなればきっとまた来られるよ」
マスターの言葉が蘇る。しかしどこにもない。僕は家路へとついた。その途中、もう一度路地へ入ったが、やはりそこにはリンドウはなかった。が、ちょうどリンドウの軽トラックがあった場所で女性がうずくまっていた。泣いているのだろうか。そっと近づいて様子を伺う。泣いているようではなかった。眠っている? 女性は微動だにしない。声をかけるべきか、逡巡した末、大丈夫ですかとなるべく冷静に言った。反応はなかった。もう一度言う。すると女性は顔を上げてこちらを見た。色素の薄い、触ろうとすると通り過ぎてしまうような印象だった。
「大丈夫ですか」
僕の言葉は聞こえていないのか、こちらを見たまま空疎な表情を変えることはなかった。
「お腹すいた」
女性は空にでも喋るかのようにそう言った。僕は近くにファミレスがありますけど、と答えた。女性は立ち上がり、僕の手を取って歩き出した。
道中、お互いに喋ることはなかった。無言でファミレスまで歩いた。手は繋いだままだった。
女性はBLTサンドとコーヒーを注文した。僕はカルボナーラとアイスティーを頼んだ。
「――あそこでなにをしてたんですか」
女性は虚ろな目でこちらを見た。そして、疲れちゃったのと囁くように言った。
間が持たない。僕は煙草を吸った。それを見た彼女は一本ちょうだいと言ったので、渡して火をつけてあげた。慣れた感じで煙草を吸っていた。
「名前を教えてもらえますか?」
僕は自分の名前を告げてから彼女にそう訊ねた。ロベリアとだけ言った。
「ロベリア?」
「みんなわたしのことをそう呼ぶわ」
「みんなっていうのは?」
と、料理が来た。テーブルに並べられると彼女は僕の質問には答えず食べ始めた。僕は諦めて自分の料理に手をつけた。うまくもなくまずくもなかった。彼女もほうもたいしてうまそうには食べていなかった。ただ黙々と口へ運び、咀嚼していた。
食べ終わるとロベリアはふっと笑って言った。
「あなたって人がいいのね」
さあ、と僕は言った。
「これからどうするの?」
さあ、と今度は彼女が答えた。
「帰る場所はあるの?」
「うん。とっておきの場所がね」
僕はため息をついた。そして席を立ち、カウンターで勘定を済ませた。店の外で彼女は笑った。
「また会えるといいね」
その表情は深沈とした美しさがあった。まるで夜の帳がおりていくときのような。
家に帰り、サンタナを流して煙草を吸った。
ロベリア。
僕はなぜ素性のわからない女にメシなぞ奢ったのだろう。そっと紫煙を吐き出す。僕の疑問は煙と一緒に幻のように消えていった。サンタナの『Se A Cabo』のビートが、状況にそぐわないにしても、聴いていると考えているのがくだらなく思えてくる。まあ、いいやと僕はコーヒーを淹れた。
『また会えるといいね』
全身が温かくなり、やけに切ない情緒にさせられたのは、コーヒーの苦味だけのせいではないだろう。彼女のことを考えようとしたが、あのときの思いはあのときのままとっておきたい気持ちだった。なんだか、考えるとそれが砂の城が風で崩れていくように、ロベリアのことも消えていってしまうように思った。
サンタナのギターとパーカッションのリズムに身をあずけた。椅子に沈むように座り、目を閉じた。
考えてたってしょうがねえよ、さあ、踊ろうぜ。
YouTubeで観たウッドストックでの『Soul Sacrifice』。ステージの下でレンガのようなものでビートを刻んでいた少年が印象的だった。永遠に続くのではと思わせるようなリフレインに、必死についていこうとビートを刻み続ける少年。演者であるサンタナも、周りのメンバーも、疲れを知らないのか、サンタナはひたすらにリフを弾き続けていた。
それを観たときの映像が目に浮かぶ。考えるな、感じろ。
『このままじゃまずいぞ』
『本当にこのままでいいの?』
十二月に入って、仕事が増えている。来月の給料がいまから楽しみだ。
『――このままでいいの?』
わからない。でも、変える理由もない。『Samba Pa Ti』の甘いギターが雪山でスキットルで飲むウォッカのようにしみわたる。
これでいいんだと僕は呟いた。そろそろ出勤準備の時間だ。
股引きとヒートテックの肌着の上に作業用品店で買った冬用の薄い服を上下着て、その上にライトダウンジャケットを羽織り、そのさらに上から作業着を着る。そして支給された厚手の上着を着込む。ヘルメットとヘッドライトとグローブ、それから買っておいた2リットルのペットボトルの水をバッグに詰めて家を出た。
原付、アドレスV125に跨り、出発した。集合場所へはものの十分あれば着く。信号待ちをしている車をすり抜けて先頭に立ち、青になったら発進する。
集合時間の十五分前に着いた。一番かと思ったらヤナガワさんの原付が駐まっていた。トラックの準備をしようと倉庫開けて鍵を取ろうとしたがない。トラックの中を覗くとヤナガワさんが後部座席で寝ていた。積み込みは前の夜勤のときにしておいたので問題ない。僕は自分のバイクのそばで煙草を吸った。
スギヤマさんが自転車で来た。おはようございますと挨拶をすると、笑いながら早いねえと言った。それからヤナガワさんは? と。
「トラックで寝てます」
「昼もやってたみたいだからねえ。すごいよ、あの人は。規制の鬼だよ」
それだけ言うと、ちょっと弁当買ってくるねと、正面にあるコンビニへ行ってしまった。
トラックのドアが閉まる音がした。疲れきった様子のヤナガワさんが、もう来てたんだと言った。僕は挨拶をして、前とやり方は一緒ですよねと、規制の確認をした。
「いや、今度は場所が変わるから……まあ、基本的には車道と歩道の規制だけど、歩道側は上から物が落ちてくるかもしれないから気をつけて」
わかりました。僕はトラックへ乗り、規制図を確認した。使う機材などは変わらない。ただ、歩道側の規制が広い。
僕が規制図を戻したころ、二人が乗り込んできた。さあて行きましょうかとスギヤマさん。ヤナガワさんは今日もさっさと終わらねえかなと呟く。トラックが発進した。
時計を見るとすでに午前○時を回っていた。人もめっきりと減り、作業は粛々と行われている。と、すみませんと声をかけられた。
「有楽町の駅まで行きたいんですけど」
なぜそれを僕に訊くんだと思いながらも、すみません、このあたり詳しくないのでと言った。それから、向こうに案内板がありますよと十一時の方角を指差して、そこで確認してもらった。ありがとうございますと言い、その人は去っていった。
歩行者もなく、やるべきこともないので、銀座の街並みを眺めていた。「ここが銀座かあ」というような感慨はなく、ただただ人工的で無機質な環境にえも言われぬ違和感を覚えた。セッションで不協和音を出してしまったのを聴いたような、そういう類の、心にしこりが残るような違和感だった。
終電が過ぎていよいよ人がいなくなった。作業は続いている。採掘した穴を戻して、合材と呼ばれるアスファルトの砂利のようなものを敷き、それをプレスして固める。機材の音とエンジンのけたたましい音が耳をつんざく。道路側を見ても車は通っていないようだった。ヤナガワさんがコーンを直しているのが見えた。その向こう、反対側の歩道にロベリアが歩いているのが見えた。電車もないし、なにをしているのか。もしかしたら人違いかもしれない。そのロベリアと思しき女性は街路樹の並ぶ歩行者専用道路へと曲がっていった。ロベリア。また会えるといいねというあの言葉が耳に蘇る。
「ごめんごめん、お待たせ、行ってきていいよ」
スギヤマさんが慌てて誘導棒の電気をつけながら言った。お願いしますとだけ言って、僕はトラックへと歩いた。時計を見ると○時二十分だった。
途中自販機で缶コーヒーを買ってトラックへ乗った。煙草をつけて缶コーヒーを飲む。早く終わらないかなとふと思う。
街は眠り、人々も眠るころ、その幽しい夜の雰囲気を毀壊する重機の轟音が響き、それがかえって僕にしてみればごく自然な現象のように思えた。無機質な煌びやかさのほうが不自然で、ある種の恐怖さえ感じる。
運送トラックが通った。ヤナガワさんがそれに対して誘導棒を振る。通行を妨げているわけではなし、その行為に意味はない。ないが、やらなければならない。
休憩時間が終わり、準備をして持ち場へと行くと、作業員が「今日はもう無理だね」と言うのが聞こえた。そしてヤナガワさんに作業終了ですと告げた。僕は急いで撤去作業を行った。最後に南京縛りで看板を固定して、ネットを被せてトラックへ乗った。一時半少し前だった。
「毎日こうだといいんですけどねえ」
スギヤマさんが煙草を吸いながら言った。
「ずっとこの現場続かねえかな」
ヤナガワさんも笑っている。
この作業によって変わりゆく銀座の街並みには目もくれず、トラックは走り去っていく。
「明日も入ってるの?」
スギヤマさんにそう訊かれて、僕は休みですと答えた。なにして過ごしてるの? 本を読んだり、ですかね。 外に出ないの? 出ないですねえ。
ふうんという紫煙と一緒に吐き出された言葉で会話は終わった。それからはスギヤマさんとヤナガワさんとで現場の話や同僚の悪口で盛り上がっていた。僕は煙草を吸いながら、帰ったらいま読んでいるヴァージニア・ウルフ『船出』を読もうと心を躍らせていた。叙情的で静謐さを漂わせる怜悧な文章に、僕は夢中になっていた。いまから帰れば三時には寝られる。そこから九時くらいまで寝れば充分だ。明日はゆっくりと本を読もう。その前に読んだ恋愛小説とはまた毛色の違う小説で、そうすんなりとは読めないが、ゆっくりと味わうように読んでいくのがいいのだろう。
資材置き場に着き、次の現場の準備をして解散だった。僕は途中でスーパーに寄って弁当を買った。ちらし寿司だ。それを足の間に置いてさらに原付を走らせる。と、右へ曲がれば自分のアパートのある住宅街なのだが、その反対、左側の路地にリンドウがあった。最初は車が来ないか確認のために見たのだが、そのときにリンドウという字と見覚えのある軽トラックがチラリと見えてさらにもう一度見た。間違いない、あのリンドウだ。
クラクションを鳴らされた。僕は急いで右折した。そして家に着くなり荷物を置いてさっきのリンドウがあった路地まで行った。
「どうぞ」
マスターはそう言うなりジントニックを作り始めた。
「毎度場所を変えているんですか?」
マスターはジントニックを僕に出すと、さあと答えた。
「必要としているところでやっているだけだよ」
「失礼ですけど……僕のほかにお客さんはいるんですか?」
マスターはふっと笑った。きっとそれが答えなのだろう。
「『動物的個我の幸福の否定こそ人間の生命の法則である』――トルストイの言葉だよ」
僕はジントニックを飲んだ。炭酸が強く、ライムの香りもつんと鼻を刺激して、前に飲んだジントニックとはまた違うものだった。しかし、仕事終わりでの疲れた身体には炭酸とライムの刺激は気持ちよかった。
「ショーペンハウアーに通ずるものがありますね……なんだか」
「賢者と呼ばれる人たちはその時代時代で違えど、内容は同じことを言っているんだよ――それを人々が受け入れるかどうかは別としてね」
前のよりもジンが強い。それが身に染み渡る。
「『自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ』。ウィリアム・ワーズワースの言葉だよ。君は論理的に過ぎるところがあるみたいだね」
「考えてないと怖いんですよ。見る前に跳べなんて、僕には……」
「それはそうかもしれないね」
マスターはそれ以上なにも言わなかった。僕はお酒を飲み終えると勘定をして家に帰った。
熱いフロに入ってマスターからの言葉を思い返していた。
『動物的個我の幸福の否定こそ人間の生命の法則である』
人間らしく生きるということは、実は無味乾燥とした生き方なのかもしれない。
そこまで考えて、僕は湯船で寝ていた。お湯はぬるくなっていた。身体を洗ってフロからあがった。それから弁当を食べてベッドへ入ると、すぐに寝てしまった。
「海を見に行かない?」
ロベリアは言った。僕は頷いた。すると彼女は僕の手を取って外へと出た。手を繋いだまま駅まで歩き、車内ではロベリアは僕の肩で眠ってしまった。窓からは朝焼けが差し込んでいる。冷たくも美しい冬の朝だ。
降りる駅に着いたのでロベリアを起こした。寝ちゃったんだと寝ぼけ眼の緩んだ表情を見ると、僕のなかのなにかが溶けて霧消して、掌中の珠のように彼女を大切にしようと決心をした。
冬の海は凪いでいて、さざめく波の音だけが僕らを受け入れてくれた。ロベリアは手を繋いだままだ。なにも言わない。
空の青、海のコバルト、そして透き通ったロベリア。
目と目が合う。ロベリアは雪の結晶のような笑顔を見せた。たまらなくなり、抱きしめようとしたところで目が覚めた。
煙草のヤニで黄ばんだ天井。本とCDばかりの床とテーブル。朝日が差さず薄暗い部屋。
『また会えたらいいね』
甘く頭の中で漂うようにその言葉がこだまする。会いたかった。いますぐに。会いたい。会いたい。会いたい? 本当に? わからない。
ベッドに腰をかけたまま煙草に火をつけた。煙草を咥えたままCDを手に取り、→Pia-no-jaC←の『First Contact』を手にとった。『組曲『 』』が聴きたかった。セットして椅子に座って足を伸ばしてオットマンに置いた。音楽が流れる。自然と身体が揺れる。光の粒が弾けるようなピアノの音色とリズミカルなカホンの音が心地いい。そして後半、転調するところで僕はいつも鳥肌が立つ。ペットボトルの水を飲みながら音に浸る。
曲が終わり、次の曲も続けて聴いた。ピアノとカホンだけでこんなに表現ができるとは。僕は聴きながらまた寝入ってしまった。
目が覚めたのは昼前だった。なんとなく家に居たくない気分だった。そういうときは新宿御苑に行くことにしている。仕度をして家を出た。雲一つない晴天だったが空気が張り詰めている。僕は冬が好きだ。
駅まで歩き、電車に乗る。平日の昼前ということもあって空いていた。地下鉄乗り入れで新宿までひと駅で行ける。僕は文庫本を出して着くまで読んでいた。
昼間の新宿駅は敢無い気持ちにさせられる。どこからくるのか、下水のような臭いと街の人々や店などからの洒落た匂いが混ざり合って悪臭と化していて非常に不快だった。それは僕を撫でるようにして流れていった。途中コンビニへ寄って新宿御苑へと向かった。入園料を払って中へ入る。粋然とした緑の匂いが迎え入れてくれた。海のように広がる芝生を眺めながら西休憩所の方面へ歩く。冬の花がちらほらと咲いている。控えめで、繚乱とは言えないが、わびさびを思わせる今昔の感のような情緒だった。休憩所を過ぎて曲がり、レストランを過ぎる。カメラを持った年寄りや外国人とよくすれ違った。道なりに進んで中央休憩所まで来た。僕の指定席だ。ベンチに座ってビールを出す。遠くに見える、奥深くも静かな趣のある池を眺めながらプルタブを開けて一口すすった。刺さるような冷たさが喉を通り過ぎる。空気は凛としていて、仕事で感じる寒さとは違い、非常に快い寒さだった。煙草を吸いながらビールを飲む。時折さきいかを挟みながらゆっくりと缶を口に傾ける。
半分ほど飲んだところでふうと一息ついた。小鳥のさえずりが聞こえる。遠くで車の走る音が聞こえる。行き交う人たちのひそやかな話し声が聞こえる。僕はイヤホンをつけてキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴いた。伝説の即興のライブの名盤だ。
予想だにできない演奏に、調和のとれた園内。そしてビール。次第に身体が温まってきた。それと同時に気分もよくなってきた。足元には缶が四つ転がっていた。
家に着いたころには酔いも覚めて、ただやるせなさだけが残っていた。映画でも観ようかと思ったがそういう気分ではない。飲みに行く気分でもない。ふてくされるようにベッドで横になり、目をつむった。
ほんの少し寝ていたようだった。いくぶん頭はクリアになっていた。時計を見ると十八時過ぎだった。スマホを手に取り、SNSを見てみた。十二月ともあり、みんなボーナスが出たようだった。車や時計を買ったりレストランで食事をしたりと各々が悠々と金を使ったさまをアップしていた。
夕飯にしようと、どこかへ食べに行こうと思ったが、財布を見たら小銭しかなかった。給料日は明日だ。僕はペペロンチーノを作って、それを食べた。
食器を片付けて、僕は読んでいた本の続きを読み始めた。うっすらとショパンのノクターンを流した。美しい文章には美しい音楽がよく似合う。それに酔いしれるようにページを繰っていく。
ボーナス。
ふいに頭によぎった。僕には縁のないものだ。欲しいとも思わない。車も時計も興味はない。そんなおもちゃになぞ。『私が子供の頃、親父におもちゃを買ってもらえないって不満を言うと、親父はいつもこう言った、「ここ」に人間が創りだした最も偉大なおもちゃがあるんだって、ここに幸せの秘密があるんだって』――チャップリン『ライムライト』の中のセリフにこういうのがある。「ここ」とは頭のことだ。そう、僕は自分の頭の中が好きなんだ。それ以外にない。
再び本に集中しようとした。が、ダメだった。このままじゃまずいぞ……本当にこのままでいいの?……という声が耳から脳を通って耳から出て行き、まるでかまいたちのように傷を残して去っていく。ノクターンの音色がやけに頭に響く。飲みに行きたかったが金がない。それでもこれ以上家にいることはできなかった。
夜空には星が見えた。なにも買えないし、なにも食べられない。それでも、あてはないがとりあえず駅のほうへと歩き出した。
街がやけに明るい。それに、人も多い。どこからか流れてきた音楽で今日はクリスマスだということを思い出した。ケーキもチキンもプレゼントも、なにもかも僕には関係のないことだった。人々の表情はイルミネーションよりも輝いていた。
反対口へ通じる地下道に入った。そのまま通って抜けようとすると、出口のところでロベリアがこちらを向いて立っていた。
「また会えたね」
どこかペシミスティックな微笑みをたたえて彼女は言った。
「行こう」
と、僕の手を取って歩き出した。反対口へ出て賑やかなロータリー周辺を抜けて住宅街へと入った。あちこちから料理の匂いがした。子どものはしゃぐ声がした。ロベリアは気にもとめず歩き続ける。細い路地へと入り、入り組んだ道を、確信をもった足取りで進む。路地を抜けるとそこはぽっかりと空き地になっていた。小さな家一軒分くらいの広さで、隅には車が捨ててあった。周りの建物はすべてここから背を向けて建っていて、場所なき場所とでもいうようなところだった。
ロベリアは車の後部座席のドアを開けて入った。僕もそれに続いた。車の中は意外にも綺麗だった。とはいえ、不潔ではない程度ではあったが。ロベリアは助手席にあったクーラーボックスから缶ビールを二本出して、一本を僕にくれた。
「メリークリスマス」
僕もそう呟くように言った。そしてビールをすすった。
「ここがとっておきの場所なんだね」
ロベリアは小さく頷いた。
「いつでもいるから――寂しいときはここに来て」
わかったと僕は言った。
「――でも、寂しいってなんだろう。僕にはよくわからないな」
「いつも独りで寂しくないの?」
「わからない。考えたこともなかった。それが当たり前だから」
「親はいるんでしょ?」
「いるけど……あんまり関わりはないかな」
ふうんと彼女はビールをすすった。それから、僕の肩に頭をあずけた。ロベリアの長い髪は僕の鼻をくすぐり、花の蜜のような淡くて甘い匂いが通り過ぎた。ロベリアは腕を伸ばして後ろから毛布を取った。僕はそれを受け取って二人でくるまった。二人の体温ですぐに温かくなった。
「ロベリアは寂しいって思ったことはあるの?」
僕の胸の中で頭をむずむずと動かして、目をこちらに向けた。クリスタルのような冴え冴えしい瞳だった。
「そう思わないほうが珍しいと思うけど」
そっかと僕は言った。それから顔をロベリアの髪に当てて、腕を回した。ロベリアの体温が伝わってくる。僕の鼓動が聞こえた。それと同時にロベリアの鼓動も伝わってきた。およそ三十六度の優しさは僕の胸の奥のなにかをも、そっと抱きしめてくれたような気がした。それに気づくと肩が震えた。ロベリアは僕の頭を撫でた。
「ひとり上手じゃなかったんだよ、あなたは」
いつの間にか嗚咽していた。ロベリアの髪は濡れていた。それでも彼女は撫でるのをやめなかった。
「優しい人……でも、度が過ぎると馬鹿だと言われるわ」
僕は腕を強く回して必死でロベリアの体温を感じようとした。温かった。撫でられるのは心地よかった。ロベリア、と震える声で呼んだ。なあにという声が耳をくすぐった。もう一度呼んだ。馬鹿な人とロベリアは言った。
髪をくすぐる柔らかい感触で気がついた。温かい。なにもかもが。上半身を上げてロベリアを見た。近づいただけで割れてしまいそうな笑顔だった。
「寝ちゃってた?」
「かわいい顔でね」
僕が言葉に詰まると彼女はクスクスと笑った。ねえ、もう一回さっきみたいにして。
「さっきみたいに?」
「うん、ぎゅうって」
改めて腕を回して彼女を抱きしめた。小さく声が漏れるのが聞こえた。
波音を立てず、穏やかに、目立たないように、慎ましやかに。そこはかとなく、いじらしく。これが僕のモットーだ。
彼女はそれを馬鹿だと言った。しかしそのあとで、もしかしたら本当にそれがすべてなのかもしれないねと。
さっきまで寝ていたときに、夢を見ていた。いろいろな映像が、ザッピングしているように忙しなく映し出されている。昔のこと、いまのこと、脈絡のないこと……。そのどれもが温度をもっていて、触れると柔らかい温もりが伝わってきた。神様よりも君を信じるよ。
「ありがとね、こんなわたしだけど、よろしくね」
「ありがとう?」
わからないならいいのと彼女は言った。いや、わかってるよ。
「神様より君を信じる」
ロベリアは両手で僕の頬を包んで、唇を重ねた。あえかな感触で、それでもなにか確固たるものを感じた。
唇が離れて見つめ合うと、同時に笑った。
「ねえ、お腹がすいた」
うちに来なよと僕は言った。なにか作るからさ。ロベリアは笑って毛布を取った。そして車から出ると手をつないで歩き出した。
「あ、ちょっと待って」
ロベリアは車へと走って戻った。なにかを探しているようだった。
戻ってきた彼女の手にはゴッホの画集があった。
「ゴッホが好きなの?」
うん、と彼女は頷いた。
「将来はね、黄色い家に住みたいの。ゴッホとゴーギャンが住んでいたような、黄色い家。周りにはひまわりの畑が広がっていて、夕暮れになると夕陽の色とひまわりの色が重なって、黄金色の世界が広がって。わたしはそれを見て明日もがんばろうって思える……そんな気がするの」
家に着くと僕は『ラプソディー・イン・ブルー』を流した。そしてパスタを茹で始めた。
「面白い曲だね。楽しくなってくるね」
買い置きしていたトマト缶とニンニク、鷹の爪、それと余っていたキノコでトマトのパスタを作った。曲はちょうど終わっていた。僕はCDを変えてマーラーの『交響曲1番『巨人』』を流した。
「どうぞ」
いただきますと言ってロベリアはパスタに手をつけた。おいしい! と満面の笑みで言ってくれた。嬉しそうに食べる彼女を見ているとこちらまで嬉しくなってくる。
食べ終わると食後にデカフェを出した。それを飲みながら話をした。
「黄色い家に住みたいって言ってたよね」
「うん。黄色ってね、ゴッホにとってはユートピアの象徴の色だと思うの。実際、黄色い家でゴーギャンと住んだけど喧嘩ばかりでうまくいかなかったし――ゴッホは切磋琢磨できると期待してたんだけどね――それで耳を切り落として……ひまわりって有名な絵があるじゃない? あの黄色もきっと、黄色い家のようにゴッホにとっての救済というか、ある種の希望の絵だったんだと思う。黄色はゴッホにとってはやっぱりユートピアの象徴なんだと思うんだよね」
僕は煙草に火をつけた。
「君の言う黄色い家も、君にとってのユートピアなんだね」
そうだねえとロベリアは言う。いつかそんな家に住みたいな。
「黄色い家じゃないけど、ここならいつでも来なよ。布団もあるし、食事だって用意する。――もちろん、車の中がよければそれはそれでいいんだけど」
ううんと彼女はかぶりを振った。ありがとう。じゃあ、寂しくなったら来るね。
飲み終わると、マーラーの交響曲の最終楽章が部屋を満たした。
「居心地のいい部屋だね」
「他人を招くような部屋じゃないけど?」
ロベリアはまた笑った。じゃあ、ごちそうさま。もう行くね。
「泊まっていけばいいのに」
ありがとうと彼女は言った。でも今日は帰るわ。
彼女がいなくなった部屋は途端に無味乾燥した場所のように感じた。本があって、音楽があって、お酒もある。それで充分なはずだったが、なんとなく散文的な思いがした。
『自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ』
以前リンドウのマスターに言われた言葉が、僕を奮い立たせた。こんな僕だけど、僕は彼女を信じると決めたんだ。
着信音が鳴った。友人からだった。いまらか飲みに行かないか。
といった内容だった。時計は十九時半を指していた。行くよと言い、僕は身支度を整えた。
場所は新宿の西口の思い出横丁を抜けてさらに進んだところにある居酒屋だった。着くと友人はすでにいて、ビールを飲んでいた。おうとだけ言い、僕もビールを注文した。
「子どもは平気なの?」
「今日は嫁がいるから」
煙草を吸った。友人も吸っている。外でしか吸わないらしい。ハイライトのメンソール。
僕のビールが来て乾杯をした。
「ボーナスはどうだったのよ」
ああ、と友人は笑った。ほとんど養育費とかでトんだよ。でも、と友人は続けた。
「時計買っちゃった」
フレデリックコンスタントだった。控えめながら威厳のあるその時計。美しかった。思わずすげえじゃんと僕は言った。
「バレたら殺されるけどな」
友人は笑っていた。
「――で、最近はお前はどうなのよ?」
「最近? まあ、つつがなくやってるよ」
「そうか? なんとなく浮ついてるぞ」
「そう?」
僕はビールをすすった。
「何年の付き合いだと思ってんだよ」
僕は観念してロベリアのことを話した。ところどころ甘い記憶の部分は端折って。
それを聞いていた友人は煙草を消すと言った。
「大丈夫なのかよ、それ」
「なにが」
「いろいろあるけど、収入とかあとは信用できるのかとか」
「『『自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ』』
なんだそれ。
「ウィリアム・ワーズワース。イギリスの詩人の言葉だよ」
へえ、と友人はビールを飲み干し、もう一杯注文した。テーブルにはちょっとしたアテが並んでいた。僕らにはそれで充分だった。いつもそうだ。テーブルにちょっとしたものがないと寂しい、その程度の感覚なので、あまり料理は頼まない。
「お前はボーナスなんてないんだろ?」
うんと僕は頷いた。
「時給――日給かもしれないけど、お前、それバカらしいぞ。いまからでも正規の仕事探せよ。確かに自由はあるかもしれないけど、収入で言ったら、正社員だったらボーナスもあるし、年収で言ったら本当に比べ物にならないぞ」
僕はビールを飲み干した。熱燗を一合頼んだ。おお、いいねと友人が言った。
「『人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ』――チャップリンの言葉だよ。僕はそこまで金を必要としていない」
はあ、とため息をつくのが聞こえた。お前さあ
「自分の言葉で話せよ。誰かの言葉を借りるんじゃなくて」
熱燗が来た。友人にも注ぎ、僕も飲んだ。ポカポカと身体に染み渡った。最高だなと友人。
「……大体の事柄は昔の言葉で事足りるんだよ」
「そうじゃなくて、俺はお前の言葉を聞きたいんだよ。お前自身の言葉をさ」
熱燗をあおって揚げ出し茄子を口に入れた。僕は喋らなかった。友人は不機嫌そうに煙草に火をつけた。
飲み足りない気分だったがあれ以上友人といるのは苦痛だった。僕のしていることを全否定されたような気がして、胸のつかえが降りなかった。帰って飲み直そうと思った。
新宿駅へ向かう道中、ひっそりとした路地でリンドウがあった。いつものようにマスターは黙ってジントニックを作る。僕は煙草を吸いながらそれを見ていた。
出されたジントニックはほのかに甘く、トニックウォーターのほうが強いのかもしれない。その爽やかな甘さにライムの清涼がよく合った。
「『自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる』――ゲーテの言葉だよ」
僕は煙草を吸った。
「でも、僕には信じる人がいます」
ほうとマスターは微笑んだ。
「『夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る』坂本龍馬の言葉だよ。いまは夢中になってもいいんじゃないかな。その先に見えてくるものがあるはずだから」
そうですねと僕はジントニックをすすった。ジントニックが心地いい。優しく抱擁されるような温もりを感じた。
「うまくいくといいね」
勘定を済ませたときにマスターは言った。そうですね、ありがとうございますと僕は席を立った。
翌日、温かいコーヒーと肉まんを買って、ロベリアのいる空き地へ行った。ロベリアは車の中で寝ていた。ドアをノックする。彼女はゆっくりと起き上がり、手招きをした。僕は中へ入った。
「来てくれるとは思わなかった」
「寂しくなったから」
僕がそう言って笑うと、ロベリアもクスクスと笑った。
「そんな感情、無かったんじゃないの?」
「君と出会ってから気づいたんだよ」
僕はコーヒーと肉まんを渡した。ありがとうと言って彼女は肉まんをほおばった。おいしいねと彼女は言う。僕はそれだけで胸がいっぱいになった。
二人で肉まんを食べながら肌を寄せ合った。
「ねえ、『『ローヌ川の星月夜』っていう作品知ってる? 優しくきらめく星たちに見守られるように照らされている恋人たちと美しいローヌ川の水面、そして夜空が描かれていて、この絵を見てると、どこからか悲しさも感じさせられるんだよね。やがては訪れる別れの瞬間を予感しているような、夜明けには夢から覚めてしまうような、刹那的な幸福が描かれているように感じがしてさ」
ロベリアは画集からその『ローヌ川の星月夜』を開いて僕に見せた。おぼろげな星空、ゆらめく水面、そして恋人たち。どこかセンチメンタルで彼女の言うことはなんとなく理解できた。
「悲しい絵だね」と僕は言った。
「それでもそれが人生なんじゃない?」
僕らはまた二人で一緒の毛布にくるまった。ねえとロザリアが言った。
「ゴッホがなんで耳を切ったかわかる?」
僕は考えた。一般的には精神的に錯乱していたからと言われているが、それは彼女の求める答えではない気がした。なんでだろう、僕は呟いた。
「……寂しかったのかな」
僕の言葉に彼女は頷いた。
「報われない人生だったからね……生前売れた絵は一枚だけだったし……」
僕は缶コーヒーを飲み干した。
「なんでその話を僕に?」
「なんか――似てる気がして」
「僕はなにもしてないよ。ただ仕事して、たまに飲みに行くくらいで。ゴッホのようになにかに熱中するわけでもなし」
それでも似てるのと彼女は言った。そして、身体を僕の胸にあずけた。
「ゴッホはね、最初は炭鉱地帯で伝道師をやってたんだよ。そこで毎日危険な仕事に携わっている人たちに道を説いて行くんだけど……それがお偉いさんが気に食わなくてね。結局打ち切られちゃったの」
ロザべリアの声は子守唄のような安寧を与えてくれる声だった。
「自分もボロ切れを来て、怪我人が出たらそれをちぎって包帯の代わりにしたり……優しい人だったのよ。それでとても繊細」
そんなゴッホと僕は似ていると彼女は言う。僕にはいまいち理解ができなかった。ゴッホのように情熱的になにかに打ち込むこともなし、ただ慎ましやかに暮らしているだけだというのに。
声をかけようとしたが、ロザリアは僕の胸で寝息を立てていた。まだ昼前だというのに、僕はため息をついてそっと彼女の身体を引き寄せて髪に顔を埋めた。
昼食はうちで食べた。ごはんとあり合わせの食材で炒め物を作った。それとコーヒー。今日はマンデリンを淹れた。音楽はブラームスの交響曲第1番。
「ロべリアは普段はなにをしてるの?」
彼女はカップを置いて、煙草をちょうだいと言った。渡して火をつけた。
「なにもしてないわよ。誰からも必要とされてないから――ただあそこでゴッホの画集を見ているだけ」
そう言って彼女は微笑んだ。ある種の諦念を帯びた、泣きそうな笑顔だった。
「収入は? 仕事はしてるの?」
「仕事ってほどじゃないけど……まあ、食べるには困らない程度にね」
そっかと僕は言った。これ以上深入りすることもないだろう。
「このコーヒー、おいしい」
「僕も好きなんだ。コクがあって、酸味はそれほどでもないけど、しっかりした味で」
「詳しいのね」
「そうでもないよ、好きなだけで」
ロベリアはまた笑った。
「本当に、自分だけの生活で完結してるのね」
そうだねと僕は言った。誰にも邪魔をされたくないんだ。
「わたしにも?」
その言葉に惶惑した。そういう意味で言ったんじゃないよ。
「少しずつ、なんていうか、気持ちも変わってきたというか……君といるのはとても心地いいし、ずっと続けばいいと思ってる。……だけど、独りでいるのが長すぎたから、少しずつ、時間をかけたいんだ」
ロべリアはクスクスと笑った。冗談だよ。
「――だって……」
「恥ずかしいから言わないで」
「じゃあ、あの言葉はウソだったの?」
「本心だよ……からかわないでよ」
ごめんごめんと彼女はまた笑った。ブラームスを交響曲が終わろうとしている。終わるのを待ってから、僕はCDをしまった。映画でも観ようか。ロべリアはうんと言った。
僕はタブレット端末で検索をして、『最高の人生の見つけ方』を流した。タブレットをスタンドに立てて、座っているロザリアの後ろから抱きしめる形で一緒に見始めた。彼女は笑って肩が揺れるのと僕も囁くように笑う。ひとりで酒を飲みながらぼうっと観るのとではまったく違い、とても気分がよかった。ひとりで観るのも好きだが、彼女と一緒に観ていると凍えきった心が解かされていくような感覚がした。
観終わったら夕方になっていた。僕はまたコーヒーを淹れた。今度はモカブレンドを淹れた。それを飲みながら映画について話した。あんなふうに自由になれたらいいのになあという彼女の言葉が印象的だった。
「ねえ、旅をしたいと思わない?」
「旅?」
「そう。どこか遠くにさ。もう仕事はしばらく無いんでしょ? どっか行こうよ」
「……考えておくよ」
ロべリアはあからさまに不満げな表情を見せた。
「行きたくないの?」
「ううん、考えたこともなかったからさ」
たまには外に出ないとダメだよ。
「でも、君と出会ってから、なんていうか、自分の中でなにかが変わろうとしてるんだよね」
わたしはなにもしてないけど。
「そんなことはないよ。いろいろなものを僕に与えてくれた。それで、僕の中で、うまく言えないけど、小さくて静かな革命が起きてるような感じがしてるんだ」
革命かあ。ロべリアはコーヒーをすすった。
「――なんにしても、あなたは内にこもりすぎてる。もっと外を見ないと」
そうだね。確かにそうかもしれない。でも怖いんだ。
「わたしが居ても?」
目と目が合った。先に笑ったのは僕だった。
「なんで笑うの」
いや、とても心強いよ。ありがとう。
ふふっとロべリアは笑った。
「あなたって本当に馬鹿な人ね」
電車の中でロベリアは僕の肩に頭をあずけて寝ていた。僕はうつらうつらとしながらも停車駅を過ぎないように気をつけて起きるようにしていた。とはいえ目的の駅まではまだあと三十分以上ある。僕の最寄駅からは結構な距離がある。
「海を見に行こうよ」
そうロベリアは言った。冬の海。おそらく寒々しいだけだろうが、むしろそれがいまの僕らにとっては必要なことなのかもしれない。僕はいいよと言った。旅行ではないが、遠くへ行って、海を見ればなにかが変わる気がした。
朝早くに家を出たので、車窓からは朝日が差し込んいる。ガラス越しの光は暖かく、ロベリアの髪の甘い匂いと相まってとても穏やかな心持ちだった。
降りる駅に着いたのでロベリアを起こした。もぞもぞと身体を動かして起きると目をこすった。寝ちゃったんだと寝ぼけ眼の緩んだたおやかな表情を見ると、改めて見初めてしまった。
駅から手を繋いで海まで向かった。夏のねばつくような感じとは違い、冬の潮風はさらりと僕らの間を流れて去っていった。海は凪いでいて、さざめく波の音だけが僕らを受け入れてくれた。ロベリアは手を繋いだままだ。なにも言わない。
空の青、海のコバルト、そして透き通ったロベリア。
目と目が合う。ロベリアは雪の結晶のような笑顔を見せた。
僕も微笑みざっか返した。すると彼女はクスクスと笑った。あなたって笑うのが下手なのかしら。
「さあ……いままであんまり笑わなかったから」
こうして女性と二人でいることも本当に久々だから。
「恋人はいなかったの?」
「昔……高校生のときに一人だけ」
ロベリアはそれ以上なにも言わなかった。砂浜と道路の境目になっている段差に腰を下ろした。寄せては離れていく波。穏やかな潮風。横にはロベリア。
海風は冷たかったが、それよりもロベリアの体温のほうが温かかった。遠くで船が見えた。
肩に乗せていた頭を持ち上げて、ロベリアはこちらを見た。ねえ、いまどんな気持ち?
言うのは気恥しかったが、それでも僕は自分を奮い立たせて言った。とても幸せな気持ちだよ。
「『あなたと一緒にいられること、それ以外の何を人は“幸せ”と呼ぶのだろう?』」
バカみたいと彼女は笑った。どことなく嬉しそうな表情で。
「俺はお前の言葉を聞きたいんだよ。お前自身の言葉をさ」
この満ち足りた心持ちにつうっと心に一本の氷柱がさしこまれていくような感じがした。賢者はいつも同じことを言う。ただそれが一般に受け入れられるかどうかは別として。言葉を理解して、それを伝えることになんの悪いことがあるのだろうか。自分の言葉を使うべくもない。
「ねえ、いまなにを考えてるの?」
僕はなんでもないよと言った。
ロベリアはそれ以上深く訊いてこなかった。もう一度僕の肩に頭を乗せて、波の音を聞いた。
お互いになにも話さなかったが、それが心地よかった。無限にも思えるほどの広い海、囁くような寒潮。カモメだろうか、どこか遠くへ飛び立っていった。
「寒いね」
ロベリアはこちらを向いてそう言った。僕は思わず笑ってしまった。笑っているとロベリアは僕の頬に繊柔な唇をそっと当てた。彼女のほうを向くと、ばーかと言って立ち上がった。手を伸ばして僕はその手を掴んだ。
「帰ろう」
どことなく彼女の足取りは軽やかだった。
「わたしね、画家になりたかったの」
僕の家に着いて、コーヒーを飲みながら喋っていると、おもむろに彼女は言った。
「でも両親は反対でね。かろうじて学費は出してもらって専門学校に行ったんだけど、それだけじゃ画家になんかなれない。イラストレーターの仕事とかもしたんだけど、やりたいことと違ってすぐにやめちゃった。親はすごく怒ってね。家を追い出されちゃった。で、いまはこの有様」
僕はコーヒーを飲みながら黙って聞いていた。
「わたしはね、ゴッホになりたかったの。絵だけに打ち込んで。売れるか売れないかなんて二の次で、とにかく絵が書きたかった。――でもそれでももうダメ」
どうして?
「手首がもうダメなの。腱鞘炎を放っておいたらもう、いうことをきかなくなっちゃった」
そうなんだ、としか言えなかった。気の利いた言葉でもかけてあげたかったが、なにも思いつかない。でも、きっと彼女は慰めの言葉なんて欲しくないのだろう。必要なのは傾聴だ。
「あなたは? なにかやりたいこととかないの?」
「これといっては……音楽と本と酒があれば、僕はそれでいい」
ふう、と彼女は息を漏らした。ある意味それが一番幸せなのかもね。
昼食にパスタを作った。キノコと顆粒出汁の和風パスタ。それを食べるとロベリアは、もう行くねと家を出ていった。
久しぶりに外出したせいか、やけに疲れた。本を読もうと思ったが集中できなかった。僕はベッドに仰向けになった。
「俺はお前の言葉を聞きたいんだよ。お前自身の言葉をさ」
さっきからやけに頭に響く。僕の言葉? すべて賢人が代弁してくれている。それのなにが不満なのだろう。わからない。
だんだんと思考がぼやけていき、目をつむるとそのまま眠りに落ちた。
三週間ぶりの仕事は高速道路の規制だった。作業車に積まれたコーンを、低速で走る車に乗って規則的にコーンを並べていく。距離にしておよそ二キロはあるだろう。そのあとに工事の案内板を専用の金具を使って設置していく。高速道路を横断するので車が来ないのを確認して、班長のホイッスルを合図に一斉に走って設置場所へ向かう。モタモタしていると怒鳴られるので、余計に焦る。それ以外は通常の規制と同じ手順だ。ただ、規制帯が広いうえ、車は容赦なく猛スピードで走っていくのでかなり怖い。規制帯に突っ込む車もいるらしい。
僕はビクビクしながら規制帯の中で棒を振っていた。今回は長丁場になりそうだった。班長のヤマモトさんが休憩を一時間で回そうと言っていた。
長い長い夜だった。寒空の下、猛スピードで走り去る車やバイクに向けて棒を振る。作業は遠くで行われていて、なにをしているのかはわからない。休憩時間は煙草を吸いながらロベリアのことを考えていた。考えていると胸が心地よく痛んだ。
夜の高速道路は都内から離れると途端に頻闇に包まれる。周囲は僕らを避けるようになりをひそめ、常夜灯はマッチの火のように心細い。時折、車のヘッドライトの光がナイフで切り裂くように過ぎていく。
闇はそれだけで骨を刺す。闇のしじまは意識せずとも永遠を彷彿とさせる。永遠とも思える距離――たとえば一万の一万乗キロメートルを歩き続ければ天国への扉が開くとして、僕は歩き通すだろうか? それとも諦めて――決して己の信条からではなく――その場で一万の一万乗年もの時間を眠り続けるだろうか?
ふいに人の声がして驚いて振り向くと、代わるよと言われ、僕は会釈をして作業車へと向かった。
「あなたは内にこもりすぎている」
いつかのロベリアの言葉が頭をよぎって、そのまま夜空に溶けていった。
予定時間通りに仕事が終わり、原付を走らせる。夜の間ロベリアのことを考えていたら、無性に会いたくなったので、そのままロベリアがいつもいる空き地へと向かった。
ロベリアの過ごしている車のそばに原付を止めた。まだ寝てるかな、などと思いつつ、窓から車内を覗き込む。
いない。
そんなはずはないと、一周してみたが、ロベリアらしき人はおろか、中には誰もいなかった。
いつもここにいるって言ってたのに……。
もう一度覗く。やはりいない。それに、ゴッホの画集もない。
ロベリア……。
どこかでちゃんとした家が見つかったのだろうか。それならそれでいい。彼女にとって、それはいいことだ。しかし、あまりに突然すぎる。それに僕になにも言わずに去っていくなんて、あんまりではないか。
錯綜する頭で原付にまたがり、スターターを押す。軽い排気音がして、アクセルを回すと、小気味良く動き出した。
なんなんだよ、と呟く。なにがどうなってるんだ。
自宅のアパートにはすぐに着いた。ため息をついて玄関まで行くと、ロベリアがうずくまっていた。
「ロベリア……」
僕の声にゆっくりと頭をもたげる。目を目が合うとロベリアは微笑んだ。
「お仕事、お疲れ様」
「ロベリア……」
僕はいろいろな感情が渦巻いて、泣き出しそうになった。しかし彼女はそんなこと構うことなく、
「寒いから中に入れてよ」
と言うのだった。
暖房をつけて、コーヒーメーカーでコーヒーを作った。狭い部屋なのですぐに暖かくなった。
「……さっき、ロベリアの車に行ったら誰もいなくて、どこかに行っちゃったかと思ったよ」
ロベリアはくすくすと笑った。
「わたしはずうっとあそこで待ってたんだよ。インターフォン押しても出ないし、夜勤なのかなって思って、じゃあ帰ってくるまで待とうと思ったの」
「寒くなかったの?」
「そりゃ寒いよ。でも、一秒でも早く会いたくて。車で待ってたら、来ないかもしれないでしょ?」
その言葉に僕は、心をくすぐられるような思いがした。よかった。彼女はここに、いる。
コーヒーを飲むと、僕たちはベッドに座って寄り添った。ロベリアの頭が僕の肩に乗っており、長い髪からは甘い香りがする。
なにも喋らなかった。
言葉なんていらない。
ふと、ロベリアは頭を持ち上げ、こちらを向いた。僕も彼女のほうを向いて、互いに見つめ合った。すぐにロベリアが照れたように笑う。僕はロベリアの細い腰を抱きすくめた。ロベリアも僕の背中に腕を回した。
仕事を探そう。そう思った。ロベリアと二人で暮らしていけるように。いつまでもあんな車の中で生活させてはおけない。
「ロベリア」
なに? とくぐもった声で返事をする。
「一緒に暮らそう」
「いいの?」
「うん」
ロベリアは僕を強く抱きしめた。僕はロベリアの髪を指で梳きながら、もう一度言った。「一緒に暮らそう」
どれくらいの時間、そうしていたかはわからない。気がつくと僕はベッドで眠っていた。掛け布団をかけていてくれていた。
「ロベリア?」
返事はない。帰ったのか?
起き上がると、テーブルにはコーヒーカップが二つと、僕の財布があった。財布?
なんの気なしに中身を見てみると、金がすっかり無くなっていた。CDを買いに行こうと、夜勤の前にいくらかおろしておいたのだった。ふとまたテーブルに目をやると、ゴッホの画集があった。画集の横に便箋があり、ごめんね、とだけ書いてあった。僕はため息をついた。
彼女はもう、戻ってはこない。
別にかまわないさ、と呟いた。日常に戻っただけだ。僕の、僕だけの生活に。
ゴッホの画集をパラパラとめくる。絵に魂を吹き込んだ画家。いつだったか、ロベリアはゴッホと僕が似ていると言っていたことがある。その真意はわからずじまいだ。僕には情熱的になれるものなんてない。
煙草に火をつけたがやけに酸っぱく感じてすぐに消した。そのままベッドに倒れこむ。別にかまわないさ、ともう一度言った。
着信音で目が覚めた。友人からだった。飲みの誘いだった。また余計な小言を言われるのかと思うとおっくうだったが、このままひとりでいるのも嫌だったので、行くことにした。
場所はいつもの、新宿西口を降りてしばらく歩いたところにある居酒屋だ。すでに友人は来ていて、ビールを飲んでいた。僕のビールが来ると乾杯をした。
「なんか、変わったな、お前」
唐突なその言葉に僕は戸惑った。
「どこが?」
「いや、どこがってわけじゃねえんだけど……なんか、うん、変わったよ」
「どんな風に?」
「わからねえけど、少なくとも悪くはないよ」
ふうんと言って俺はビールをすする。
「逃げられたよ」
友人がこちらを見た。
「ほら、ロベリアだよ。財布の金、全部取って、どっか行っちまった」
「マジかよ。警察には?」
「いいんだよ。別にかまわない。『信じるということは、裏切られる覚悟を持つということ』」
友人はお通しをつつきながら言った。
「誰の言葉?」
俺はふっと笑って、言った。
「いま思いついた」
友人は笑いだした。「ひねくれた言葉だな」
僕もつられて笑う。
「でも」友人は言った。「俺は好きだよ」
(了)
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