世に万葉の花が咲くなり

赤城ロカ

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第8章

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 キッド・スターダストは、スタンバイのときからほかのバンドと雰囲気が違っていた。曲も洗練されていてなによりステージでの振る舞いかたが慣れていた。一曲目、いや最初の音を鳴らせた瞬間に、俺は夢中になった。
 ただただ茫然と見ていた。先に出演していたバンドの連中も夢中になっていた。ステージの前では手を挙げて演奏を煽る人たちがいた。いつの間にか客が増えていた。
 曲を聴いているうちに俺の頭がはたらきだして次々と曲の構想が浮かんできた。ギターを見ながらそうかここでそれをやるのかと無意識的にテクニックを盗もうとしていた。
 キッド・スターダストは特に激しいパフォーマンスをしているわけでも曲が難しいわけでもないのに最後まで魅了し続けた。フロントマンは凛としてステージで歌ってほかのメンバーも自分の役割をはっきりと理解していて迷いなくそれに徹していた。ライブが終わると俺は物販のブースに行ってアルバムを買った。
 帰り道、興奮はまだ冷めやらず肌寒さも気にならなかった。駅前に着くとピアノの音色が聞こえてきた。近づいていくとピエロの格好をした華奢な身体つきの人が(メイクのために男か女かわからなかった)キーボードを弾いていた。誰も立ち止まる人はおらず、ただ通り過ぎていった。それでもめげることはなく黙々とピアノを弾いていた。
 どこかで聴いたことのあるような曲だなと思った。俺はそのまま、その場に立ち止まって演奏を観ていた。ピアノのことは全然わからないがピエロはかなり上手いなと思った。旋律に合わせて身体を動かして、コミカルな印象を与えているがその実、腕は確かだった。
 一瞬で引き込まれた。俺はぼうっとそれを聴いていた。ピアノのタッチが優しく心に染み入ってくる。
「『ラプソディ・イン・ブルー』。ガーシュウィンっていうの」
 アキの声がした。はっと俺は周りを見渡した。誰もが通り過ぎるばかりで俺に話しかけるような人はいなかった。そうだこれはラプソディ・イン・ブルーだった。あの日、二人きりの教室でアキとキスをした、あのときに吹奏楽部が練習していたんだ。ピエロの演奏は次々と俺の記憶を呼び覚ました。アキとの思い出がひとつひとつ、きらめきを帯びて目の前に現れる。それらは旋律の息吹に触れて花開いた。そして俺とピエロを囲うようにして咲き乱れた。
 俺はスイートピーの花畑にいた。花に囲まれながらピエロがピアノを弾いていた。月の光が静かに世界を照らしていた。俺はゆっくりと歩き出した。どこまでも続くスイートピーの花畑。俺の横にはアキがいた。
「かわいいよね、スイートピーって」
 アキはしゃがんで花を撫でた。俺がその手を取ると彼女はこちらを向いて笑った。
 アキが立ち上がると、俺はその手を引き寄せて抱きしめた。
「ねえ」アキは静かに言った。「スイートピーの花言葉、知ってる?」
「なんて言うの?」
 アキは身体を離して前髪をそっと耳にかけた。その仕草に憂いを感じて俺は手を伸ばした。アキは俺に背を向けて歩き出した。アキの手には届かず夜風が俺の手から温もりを奪った。
「『私を忘れないで』」
 背を向けるその刹那、アキはそう言った。それがスイートピーの花言葉だという。そして目の前から消えていった。
 後ろから手を叩く音がした。振り返るとスーツを着たおっさんが拍手をしていた。周りにちらほらと立ち止まっている人たちがいる。ピエロはなにも言わず微笑みながら会釈をした。演奏は終わっていた。
 再び鍵盤に手をかけた。みんなピエロの手に集中していた。演奏が始まる。『ディス・イズ・ザ・タイム』だった。ピエロは歌うことなくソナタにアレンジをしていた。俺は泣いていた。
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