世に万葉の花が咲くなり

赤城ロカ

文字の大きさ
65 / 68
第14章

しおりを挟む
 いつの間にか俺は見失っていた。ハルにそれを気づかされた。少しずつでも進んでいたんだ。それでいいじゃないか。
 そう思えるようになるといままで色彩を欠いていたような光景が、色鮮やかに映った。スタジオでの練習やライブ、ほかのバンドの演奏、そういったものが本来の魅力を取り戻して俺を興奮させた。
 物事には風のようなものがあるようで、そのころからそれがバック・ドア・マンに向いているように思えてきた。キッド・スターダストが毎年やっていた企画ライブの後継に俺たちが選ばれて、その次の週には同じハコでレコ発のワンマンライブが決まったときは肌で感じられるくらいそう思った。
 キッド・スターダストはその企画ライブを毎年やって、いつしかそのハコの名物となりやがてメジャーデビューが決まった。俺たちもそのレールに乗ることができたのかなどと思ったがそれはさすがに皮算用だろう。
 企画ライブとワンマンライブの情報解禁は当日の一ヶ月前で、その日はそのハコでライブをやっていた。俺はMCでそのことを発表した。チケットは前売りの時点で百人を超えた。休日ということもあるのだろうがそれは初めてのことだった。ハコのスタッフも驚いていた。
 ライブに向けて俺たちは毎日のようにスタジオに入った。練習の合間、煙草でも吸おうと俺たちはロビーへ出た。やっとここまで来たかと俺たちは笑っていた。いい感じだ、これならいけると言い合っていた。
「そういえばさ」
 ドラムが煙草を灰皿に捨てると言った。
「ワンマンの日って、キッド・スターダストのデビューする日だよな」
 言われて気がついた。なんだか運命的というか神様の暇つぶしのような、そんな作為的なものを感じた。
「キッド・スターダストの次は俺たちなのかな」
 ドラムの言葉に俺は胸を貫かれる思いがした。そんなうまくいかねえよ、俺はそう言ったもののあるいはそうなのかもしれない、と心では思っていた。
 もし本当にそうなったら……俺の歌が、もしかしたらアキにも届くかもしれない。昔、二人きりの教室で歌っていたように――彼女は本を読みながら聴くのだろうか――
 俺はため息をついた。メンバーがどうしたと言ったが、俺はなんでもないとだけ言った。
 スタジオのあとは真っ直ぐ帰った。俺は荷物を置くとアコギを手に取ってなんとなく弾いてみた。
『レット・イット・グロウ』『ランニング・オン・フェイス』といった、クラプトンの曲、ビリー・ジョエルの『ディス・イズ・ザ・タイム』『ストレンジャー』、それから『ラプソディ・イン・ブルー』。
 一通り弾くと俺はため息をついた。またため息か、俺は自分で自分が嫌になってきた。煙草を吸って煙を吐く。そしてまたため息だ。
 俺はギターをスタンドに置いて、パソコンで動画サイトを開くと、バーンスタイン指揮の『ラプソディ・イン・ブルー』を検索した。
 ぼうっと流れてくる音楽を聴いていると、だんだん惨めな気持ちになった。昔のことを思い出してあのときの曲を狭い部屋で一人で聴いている自分がなにをどうしたところで結局なにも勝ち得ることはないんじゃないかと思った。
 自分がなにをしたいのか、それが俺にはよくわからなかった。別に、仮にいま死んだところで悔しいことはないだろう。バンドだってここで雲散霧消したところで、それはここまでやってきたのだからという思いはあるがそれでも死にもの狂いでやるようなことじゃない気がした。
 そう考えると手のひらに残るものはなにもなかった。目の前に掴むべきものもなにもなかった。そんなことはないだろうと思ってみてもそれはどうやら現実らしかった。
 じゃあ俺はなんのために生きてるのだろう。なんのため? 人はなんのために生きているのだろう。仕事のため? 家族のため? 恋人のため? ……馬鹿らしい。
 いつの間にか動画が終わっていた。馬鹿らしいと俺は口に出して言った。なにが馬鹿らしい? 全部が、だ。
 そう思うと酒が飲みたくなった。とても素面ではいられなかった。家を出ると足は自然にジェイへと向かっていた。
 ハルはいつものように本を読んでいた。店に入るなり俺はスピリタスはあるかと訊いた。ハルは驚いていたようだった。俺はそれでブラッディ・メアリーを作ってくれと言った。
「はあ? 馬鹿じゃねえの?」
 ハルはほとんど叫ぶように言った。
「うるせえ黙って作れ」
 俺も怒鳴っていた。
「お前まだ懲りてねえのか、またぶっ潰れても知らねえぞ」
「うるせえつってんだろ、モグリのバーテンがガタガタほざくんじゃねえよ」
「てめえ――」
 俺はそこで言ったことを後悔した。
「いや……ごめん、お前の言うとおりだ。ごめん……」
 ハルがため息をついた。「もうメシ食った?」
 俺はまだだと言った。
「そっか。ちょっと待ってな」
 ハルはそう言うと、俺に背を向けてハンバーガーを作り始めた。俺は肉の焼ける音に紛れてその背中を見ながら泣いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

処理中です...