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第2章 英雄の儀式
水の精霊フェリア
しおりを挟むポトリ、ポトリと、水が滴り落ちる音が聞こえる。
ゆっくり目蓋を開け、縮こまった体を伸ばして起き上がってみる。辺りは暗い。
「ここは……」
なぜか体が淡く光って見える。
――ここですよ。
暗闇から聞こえる優しく澄んだ女性の声。体が光っているのと何か関係があるのだろうか。振り返ると、その人は立っていた。
「あなたは?」
自分より遙かに背が高く、神話に出てくる女神が纏っていそうな丈の長い白い衣に身を包んでいる。口元はほんのり笑み、肩まで掛かる水色の髪からは、雨上がりの空気の匂いが漂っている。
――私は水の精霊フェリアです。
「もしかして、あのフェリア様ですかっ!」
少年は目の前に在られる女性の正体を知ると、咄嗟に跪いた。彼女は深海の如く落ち着いた青い瞳で少年を覗き込む。
――顔を上げなさい、クラン。あなたに渡したい物があります。
許しをもらって顔を上げると、フェリアは一振りの剣を持っていた。剣身は日の光を浴びて細やかに煌めく川の流れのようで、美しい。
「これは……ハシャトルガを封印していた」
――英雄の剣、先人はそう呼んでいました。真の名を『神の剣』といい、神に選ばれし者のみが扱えます。クラン、よく聞いてください。
少年は息を呑む。
――あなたは、生まれた時から神に選ばれし者です。リュークの言葉を借りれば『世界の均衡を保つ者』です。
「僕が!?」
――証拠は、あなたの燃えるような紅い瞳。ハシャトルガは、あなたを見て驚いていませんでしたか?
あの時、確かに僕の目を見ていた。瞳の中の細長い瞳孔が揺れるのが見えて、その後、主に伝えるとか何とか言っていた。
――思い当たる節があるのですね。そうです、彼女は帝王の下に向かったのです。まもなくこの島に、闇の帝国の者が上陸します。彼らはあなたの命を狙っています。
背中に寒気が走った。僕のせいで。
――帝王にとって、神に選ばれし者は脅威となります。やがて捕らえられ、抹殺されます。
一言一言が胸に突き刺さる。そんな馬鹿なと言いたかった。
――時間がありません。この剣を持って、一刻も早く島を去るのです。
フェリアは戸惑うクランに神の剣を託した。途端に、彼女の体が透け始める。
「そんな、急に! どうして僕が」
――今はまだ分かりません。答えはあなた自身で見つけるのです。大陸に向かいなさい。
水泡が慌ただしくクランを取り巻く。フェリア様にお尋ねしたいことがたくさんあるのに、拒まんばかりに引き離そうとする。
真っ暗だった辺りはいつの間にか薄明るくなり、頭上から日の光が射し込んでいる。次第に光のベールは広がり、少年を光源へと導いた。
「……お兄ちゃん、目覚ましてよ!」
円らな瞳から絶え間なく流れ落ちる涙。少女の三つ編みよろしく、体も甚だ揺れている。
そこにいるのはミールなのか? しばらく見ないうちに大きくなったなぁ。どうして泣いているんだろう。
「びっくりしたよ、突然湖から白い蛇が出てきたんだからな」
「神々しかった……あれは本当に言伝えのハシャトルガだったのだろうか? もしそうなら、俺達はとっくに獣に変えられていたぞ」
違う声が聞こえる。聞き覚えがある、もしかしたら村の人かな。その人達が言うには、湖面が渦巻いたかと思うと、中心から白い龍が現れて、天に向かって飛んでいったそうな。
次第に視界を覆う霧が晴れると、クランは湖畔に横たわっていた。大人が僕を取り囲み、心配そうに様子を窺っている。夕暮れ時の木漏れ日が眩しいくらいに目に入り、誰が誰だか分からない。
「大丈夫か、クラン!」
「その二振りの英雄の剣はどうした?」
ふたふり? クランの右手には黄金色に輝く剣が握られ、空いた左手の先には、柄がくすんだ同じ形の剣があった。
「神の」
震える左手を伸ばそうとしていると、
「……その剣は」
言葉をつなげるように、アスリーが呟いた。何かに怯えているのか。少年と同様に、老婆の両手も打震え、顔は青ざめていた。
「やはり先程の白龍はハシャトルガか――あんたさんは封印を」
先生、何を言っているの? 違う、あれは仕組まれたんだ。本物の英雄の剣を抜いたこの手が憎い。僕はやってはいけないことをやってしまった。
視線の先、湖の対岸にラザーが立っているのが見える。木にもたれかかり、何事もなかったかのように、涼しげな表情で村人を見据えていた。
「……ラザー」
君は本当に帝国民なのか? 本当に闇の王に仕える気なのか? ハシャトルガを解放するなんて、正気の沙汰じゃない。あれは何かの間違いだ。君はどうしてそんなに平然としていられるんだ。
「お兄ちゃん、ラザーお兄ちゃんがどうしたの!」
ミールは小さな手でクランの両肩を掴み、強く揺らす。兄の身を案ずるよりも、英雄の試練で何があったか知りたいと言わんばかりに。
白昼夢の如く試練での出来事が頭の中を過り、ミールの訴えもぼんやりとくぐもってしか聞こえない。僕のことを心配してくれているのか、でも体が怠い。疲れているのか。そうだよ、今日一日で余りにも多くの出来事があったのだから。頭が追っついていかない。もう昨日が遠い昔に感じる。
神に選ばれし者は、島を離れなければならない。悪い夢なら、どうかすぐに覚めてほしい。
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