Lovers/Losers

富士伸太

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8話

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 1学期の中間テストが無事に終わった。

 赤点は無い。むしろ勉強時間が増えたのでそれなりに順位は上がった。御法川先輩も無事、全科目赤点回避したらしい。多くの部活は勉強時間に食われて目減りした練習を取り戻すかのように再開した。野外で練習しているトランペットの音も普段より心なしか大きいように感じた。私はそれを聞きながらスーパーで晩飯のおかずは何しようかなどと所帯じみたことを考えつつ靴を履き替え、校門へと出た、そのときだった。

「あ」

 外を走ろうとしていた陸上部員達と目が合った。気まずい。

 そそくさと逃げようとしたが、その中の一人、角刈りのがっしりした体格の男が元気よく私に手を振った。

「おう、井上! 元気そうだな!」

 陸上部の部長、平川先輩だった。

 明るい人で、私にも気さくに声をかけてくれる。

「おかげさまで」
「そうか、まあたまには遊びに来い」
「はい、そうします」

 この人は天然で言っているので悪気とか一切ない。そのうちお言葉に甘えて顔を出して、他の部員に嫌味の一つでも言ってやろう。もっとも天然であるがゆえに、他人の感情や悪意に無関心だ。私と高田の件についても私が高田を怪我させるまで気付かず、気付いたときも「そうか、それは大変だったな」で流した。

 まあ鈍感な方が世の中生きていきやすいのかもしれないし、この人の悪意のなさはそこまで嫌いではなかった。後輩が言うことを聞かずお飾りの部長になっていても、気にせずサボリもせず自分なりのスタイルを崩さないのはちょっと凄いと思う。

「あの、平川先輩、そろそろ練習に行かないと……」
「ん? ああ、そうだな」

 と、私と同じ学年の部員が部長を促す。ええと、誰だっけこいつ。

 思い出そうと頭を捻っていたあたりで、別の部員が三々五々やってくる。恐らく着替えて校門に集まり、学校周辺を走るという流れなのだろう。

「邪魔しないでよ」

 誰かからすれ違いざまに嫌味を言われた。
 あっ、これは軽くムカついたな。

「じゃあ平川先輩! また部室に顔出して遊びに行きますから!」
「おお、いつでも来い!」

 手を振って平川先輩に挨拶をすると他の連中が嫌そうな顔をする。
 さーて、それじゃ帰るか。

「こら、勝手に帰るな」
「ぐえっ」

 後ろから手を回されて首が極められる。
 ちょっと待って、いいところに決まって苦しい。

「挨拶くらいしろ」
「お、おっす」

 突然現れて私の首を締めたのは御法川先輩だった。陸上部用のジャージを着ている姿は久しぶりに見る。

「じゃあ、頑張って練習してください。先輩のこと応援してます」
「そうか、ありがとうな」

 こればかりは偽りのない本心だ。
 それを聞いた先輩が、私の背中を肘で小突いた。

 そのときに周囲から受ける、他の部員たちからの冷ややかな目線。先輩と私は、それを受けることを重々承知した上でイチャついていた。まるで共に陰謀を図る共犯者のような親しみを先輩に感じた。復讐心や嗜虐心が満たされていく。平川先輩だけは空気を読まず「仲良きことは素晴らしきかな」などと言っている。大物だなこの人。

 だが、疑問もあった。私はなんだかんだで部に恨みがあるが、御法川先輩は私の恨みに付き合うほどの何かはあるのだろうか。付き合いを始める時は確かに「私の味方になる」と言ってくれた。しかし味方になるということは、私のようなはぐれ者になるということに等しい。その疑問の正体を掴むことを恐れつつも、御法川先輩に惹かれていく自分自身を感じていた。仮初めの彼氏彼女の関係がずっと続くならば楽しいだろうなと思った。



***



 私と御法川先輩が付き合いを初めて既に一か月ほどが経ち、二人一緒にお昼を食べる光景も新鮮味が薄れてきた。陸上部の部員も表立ってあれこれ言ってこない。しかし御法川先輩が一人のときなどは沖のようなおせっかいが来て「流石にあれはない」とか「変な女に構うと自分の人生を損なう」とか言ってくるらしい。それはそれは慧眼で恐れ入る。御法川先輩は間違いなく悪い女に引っ掛かる資質を持っていると思う。

「まあ沖達の言うこともわかります。悪い女に引っ掛かっちゃあダメですよ」
「お前が言うんじゃない」

 いつものようにバイト先の喫茶店に現れた御法川先輩と雑談してたところ、いきなり怒られた。

「まったく……俺じゃなくてお前がバカにされてるんだぞ」
「私をバカにしてるというより、私をダシにして先輩を褒めてるんですよ。言うなれば尊敬の裏返しであって悪意から湧き出るものじゃないと思います。私達の尊敬する人は私達が認めるくらい良い女性があてがわれるべきだ……みたいな。だから学校のマドンナ的存在とか、わかりやすい属性を持ってないと誰が相手でも何かしら言われてると思いますよ」
「……お前の話を聞いてると人間不信になりそうだな」

 先輩は頭を抱えながら盛大なため息をついた。

「そこはまあ、話半分に聞いといてください」

 とはいえ、陸上部の部員が御法川先輩を尊敬しているのは本当だと思う。そして御法川先輩はそれを重荷に感じて、距離を置こうとしている。

「……ところで、高田が陸上部に復帰したいらしい」
「はぁ」
「気のない返事だな」
「ていうか高田って部を休んでたんですか」
「武田先生から謹慎を受けた。知らなかったのか」
「そのへんの処理やら処分やらは先生に丸投げしてたんで……。あ、じゃあ怪我も治ったわけですね」
「みたいだな。……お前は良いのか」
「構いません、というか退部や除籍じゃなくて謹慎ってことは、いずれ復帰する前提の話なんじゃないですか? 先生が異存無いなら私の方から言うことは無いですよ」
「あのなぁ、その先生からお前の意志を確かめろと言われてるんだ」
「大変ですね、そんな仕事まで」

 と言うと、御法川先輩は頬杖をついて私の方を馬鹿にしくさったジト目で見つめてくる。

「あのな、高田が元気に復帰してお前が退部したままということは、高田が正しかったと周囲は捉えるぞ」
「別に構いませんよ」
「私が構うんだ。お前をかばってやると言っただろう」

 ……やだこの人かっこいい。

「いや、それは嬉しいんですけどね。でも他の部員はどうなんです?」
「まだ知らせていない。が、復帰したいという話が部内に出回るのも時間の問題じゃないか?」

 まあ高田が黙ってる筋合いもないだろうしな。

「ここで私が嫌だって言ったら、私が悪者になる流れじゃありません? あの子けっこう脚も速かったし、今の二年女子は他に速い人は居ないし」
「……そうかもしれん」
「どっち引いても貧乏くじならどっちでも良いですよ。先生の判断に任せます」
「……そうか、わかった」

 先輩は頷き、そしてぶはあっと先程よりも更に盛大なため息を吐いた。

「……本当に、練習以外のことってストレス溜めてるんですね」
「なんだ、前にも言っただろう。私は走りたいんであって部の運営だの雑務だのは本当はやりたくはないんだよ。他にできる人が居れば任せてる」
「できなくても任せるしかなくないですか。夏の大会が終われば引退するんだし」
「そうしたいのは山々なんだがな……」

 御法川先輩は背もたれに体重を預けて脱力している。

 我が陸上部の人間関係は確かにあまり良くない。部内で反目してる奴はいるわ、いじめ紛いのことをして部を抜けた高田のような奴はいるわ、私のようにいじめられて退部した奴はいるわ、厄介事だらけだ。今は平穏に運営できているとのことだが、それはちょっと凄いことだと思う。部が瓦解してインターハイに出場できませんでした、という事態も考えようによってはありえるだろう。それを避けるために皆、練習に必死になって部内の厄介事に目を背けているのかもしれない。

 となると、派閥として担がれている御法川先輩が雑務を引き受けたり後輩の面倒を見たりと、人間同士を繋ぎ止める役割を果たしているのはやむを得ないことなのだろう。まさしく人間関係の潤滑油だ。だが潤滑油そのものはやがて劣化する運命にある。

「先輩はなんで陸上やってるんですか」
「藪から棒になんだい」
「いや、なんとなく」

 御法川先輩はうろんげな目で私を見たまま口を閉ざしていた。

「まあ言いにくいなら良いですよ。あ、店長。チーズケーキ二つ良いですか」

 カウンターであくびをしている店長に声をかける。
 まったく一応客が居るというのに。私と先輩の二人だけだが。

「バイト代から引いとくぞ」

 店長の言葉を聞いて先輩が慌てふためいた。

「あ、いや、払うよ、悪いじゃないか」
「別に良いっすよこのくらい」
「あ、蓮美、コーヒーは自分で淹れろよ」
「私シフト上がったんじゃないんすか」
「彼氏に淹れるくらい横着するな」
「うっす」

 店長であり叔父貴殿にそう言われてはかなわん。
 二人分だけだからまた手回しのミルで挽こうと思い、カウンターの中に入る。
 御法川先輩は頬杖を付きながら私がコーヒーを挽く姿を見ている。

「面白いですか、コーヒー淹れるの」
「ああ、面白い」

 これで三、四回は見てるはずだと思うんだが、まだ飽きてはいないらしい。

 コーヒー豆の粒が砕かれ、鮮烈な香りが鼻孔をくすぐる。やはりこの瞬間の香りを味わってこそのコーヒーだと思う。自分の手応えと香りが噛み合ったときの快感は電動では味わえない。もっともコーヒーそのものの味そのものはそんなに変わらないのだが。

「不思議なもんだな。年下の人間がこうして立派に働いてるのを見ると」
「私が覚えた程度のことは先輩なら一週間あればできますよ」
「そうか?」
「それに、部活が性に合ってるなら部活に一生懸命取り組んだ方が良いと思いますよ。バイトはいつでもできますし」
「お前は辞めておいてそんなことを言うのか」
「辞めたから言うんですよ。インターハイなんか高校在学中にしか出れないわけですし。私は大会とか興味ないですけど」

 砕いた豆を淹れたドリッパーに湯を注ぎ、コーヒーサーバにコーヒーを淹れていく。店長に仕込まれてなんとか形にはなってきたが、まだまだ店長ほど美味い味は出せない。だがそれでも近づけることはできる。現実現状はともかく、そう思うことが大事だ。人に出すものなのだから。

 カップにコーヒーを注ぎ、ケーキと共に先輩の元へと出した。先輩は神妙な顔をして頂きますと呟いた。

「そんなかしこまらなくても」
「気を使ってくれたんだろう」
「私も小腹が空いてたんで」

 御法川先輩は健啖家であり、ケーキもちまちまとは食べない。美味そうに大きく食べる。

 見てて心地が良いのだが、じろじろ見るなと怒られた。確かにこれは失敬だった。

「……小学生くらいの頃は体が弱くてな。脚も遅かった」

 先輩はケーキを食べ終えた後、突然そんな話を始めた。

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