生きにくい私たちの純愛

なずとず

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第3話

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 私は夢を見ている。

 昔のことだ。背丈も今の半分ほどしかない私が、暗い街並にひとり立ち尽くしている。周りを歩く大人たちはみんな巨人のようで、青いシルエットだけになり顔も見えない。なのに、彼らが笑いながら道を進んでいるのだけは、よくわかった。彼らは私のことなど見えていないようで、恐ろしくなり道の端の壁へと縋りついた。

 赤と黒で彩られたラインが道路に引かれていて、目まぐるしく赤と黒のランプが点滅している。恐らく、歩行者用の歩道と信号なのだろうけれど。そこを歩いた巨人たちはずぶずぶと地中に沈んでいく。真っ赤に染まりながら。

 暗く、青く、黒く、赤い世界の中で私の体ばかりが人のような姿をしている。恐ろしくて私は壁に顔を向け、しくしく泣いていた。

 ここはいったいどこだろう。母は、父はどこへ行ってしまったのだろう。どうして誰も助けてくれないの。私の疑問は晴れないまま、周りの笑い声ばかりが反響し、大きくなっていく。いったい何がそんなに楽しいのか、私にはわからない。もしかして、私が面白いのだろうか。

 恐る恐る振り返ると、人々が私に視線を向けながら過ぎていく。ぎょろりとした目が私を見つめる。その目に食べられてしまいそうだ。また怖くなってすぐ壁に顔を戻した。

 帰りたい。

 早く、帰りたい。家に、私を脅かすものの無い部屋に。そうだ、描きかけの絵を完成させなければ。■■さんのために、またカレーも作らなければいけないし。

 あれ、■■さんとは、誰のことだろう。名前が思い出せない。それどころか、知っているはずの顔が、黒く塗りつぶされているようだ。私はもしや、忘れてしまったのだろうか? あの人のことを。

 それがこの状況の中でなにより恐ろしい。私は何か、大切なことを忘れているのだ。どうしよう、早く家に帰らなければ。なのに、振り返る勇気が出ない。黒く塗りつぶされた街から、あの部屋に帰る方法がわからないのだ――。

「ねえ、君」

 突然後ろから声をかけられて、心臓が止まるかと思った。誰かが、すぐ後ろにいる。声をかけられるまで、気配に気付かなかったけれど。すぐそばに、誰かが。

「どうしました、こんなところで。おとなの人は一緒にいますか?」

 声をかけたその人が、手を伸ばしてきた。ちらり、と視線を動かした私の眼に、腕時計が映る。銀色に光りを放つ、細身の腕時計が。

 ああ、もしや。私を探してきてくれたのだろうか。

 安心して振り返る。しかしその人はあまりにも眩しく、逆光で顔が見えなかった。目をつぶっている間に、光に慣れてきたらしい。薄く瞼を開くと、なんということはない。何処にでも有るような街並みが見える。いつもどおりのアスファルト、コンクリートのビル。色とりどりの看板、人の姿をした生き物、白い歩道の線、穏やかな日常の世界。

 そして、私の目の前にいたのは。私に声をかけてくれた、腕時計の主は――。




 目を覚ますと、私は眩しさに顔を顰め、寝返りをうった。ややして顔を上げると、カーテンの隙間から日光がベッドに注ぎ込んでいる。閉め方が甘かったようだ。日光を浴びると生活リズムがどうこう言う人間はいるけれど、こんな風に叩き起こされて、なにが健康的なものか。私は深く溜息を吐いて、カーテンを引っ張り隙間を埋める。二度寝するためにベッドへ沈み込み目を閉じた。

 そして、私は先程思い出せなかった人の名を考える。

「……シノさん……」

 ああ、なんだ言えるじゃないか。その事実に私は深く安心して目を閉じた。








 近頃どうも、うまく絵が描けない。

 技法的な意味ではなく、インスピレーションが得られないだとか、形になってこないだとか。そういったことに近い。

 溜息混じりにスケッチブックやキャンバスに向かってみるが、筆が重い。色彩が躍らない。そこに描くべきものがわからないまま色を落とすのも一興ではあるけれど、それはあてのない旅をするようなものだ。たまにするぶんにはいいが、そのままでいるわけにはいかない類のこと。少なくとも、私はそう思っている。

 私の絵のジャンルは抽象画だ。それは精神世界を極限まで見つめた先にある、概念や要素のようなものを私なりに再構成しアウトプットしたもの。何の説明もなしに他人が何の絵であるかを理解するのは難しいだろう。しかし、今の私にはその作業ができない。

 戯れに鉛筆を握り、手を動かしてみる。すると私ときたら、そう得意でもない人物画を描こうとするのだ。それが誰なのかなんて考えなくてもわかるものだが、しかしその拙い顔が彼であるとはとても思えなかった。絵を描かない人間には褒められるが、この人物の顔には何も宿っていない。

 彼に感じている「思い」まで描かなければ、私の作品とは言えない。しかし私は自分の「思い」を測りかねていて、それを言葉どころか色や形にまでするなど、到底無理だった。

 では彼への「思い」と向き合えばいいのだけれど、すると私は己の罪深さに身が凍えるのだ。私がシノさんをどう思っているのか、また彼からどう思われていてほしいのか。考えることさえ許されないような心地がして震える。あるいは、とっくに答えなど知っているのかもしれないけれど、それを受け入れる覚悟が無かった。

 私は、人を殺してしまったのだ。

 その罪深い業を負っていかなければならない。私が生きるべきなのは、あの暗く、赤く、青く、黒い世界。色彩鮮やかな生の世界にいる権利など、とうに無くしてしまったのだから。

 なのに、なのに。

 どうしても、シノさんのことを考えると、胸が苦しく、温かくなる。世界が色で縁取られていく。

 私にとってシノさんは恐らく、パステルカラーだ。淡く優しい色で、私を見つめてくれる。彼は特別な色をしていた。

 わかっていて。わかっていて私は、筆を進められない。

 そんな存在を得てはいけないのだ。死んだあの人のためにも――。

 そう思うのに、それでもなお、私はシノさんのことを考えてしまうのだ。

 人と関わらないようにしてきた。それは相手を不幸にするからでもあるし、私が満たされてしまうからでもある。真っ当な暮らしなど許されるはずがない。私は償い続けなければならないのだから。そして私は恐ろしい。親しくした人が失われること、あるいは私のしてしまったことを知り、私から離れていくことが。

 それならばいっそ、最初から交わらないほうがいい。別れは劇的で激痛を伴う。私にとって人との関わりとは、私がただ生かされるためのものだった。

 なのに、どうしてシノさんとこんな暮らしを続けてしまっているのだろう。いけないとわかっていて。辛いだけだと知っていて。

 わからない。いや、本当はわかっているのかもしれない。

 わかりたくないのだ。認めてしまえば、私の世界は全て、変わってしまうから。

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