9 / 33
第3話
しおりを挟む
私は夢を見ている。
昔のことだ。背丈も今の半分ほどしかない私が、暗い街並にひとり立ち尽くしている。周りを歩く大人たちはみんな巨人のようで、青いシルエットだけになり顔も見えない。なのに、彼らが笑いながら道を進んでいるのだけは、よくわかった。彼らは私のことなど見えていないようで、恐ろしくなり道の端の壁へと縋りついた。
赤と黒で彩られたラインが道路に引かれていて、目まぐるしく赤と黒のランプが点滅している。恐らく、歩行者用の歩道と信号なのだろうけれど。そこを歩いた巨人たちはずぶずぶと地中に沈んでいく。真っ赤に染まりながら。
暗く、青く、黒く、赤い世界の中で私の体ばかりが人のような姿をしている。恐ろしくて私は壁に顔を向け、しくしく泣いていた。
ここはいったいどこだろう。母は、父はどこへ行ってしまったのだろう。どうして誰も助けてくれないの。私の疑問は晴れないまま、周りの笑い声ばかりが反響し、大きくなっていく。いったい何がそんなに楽しいのか、私にはわからない。もしかして、私が面白いのだろうか。
恐る恐る振り返ると、人々が私に視線を向けながら過ぎていく。ぎょろりとした目が私を見つめる。その目に食べられてしまいそうだ。また怖くなってすぐ壁に顔を戻した。
帰りたい。
早く、帰りたい。家に、私を脅かすものの無い部屋に。そうだ、描きかけの絵を完成させなければ。■■さんのために、またカレーも作らなければいけないし。
あれ、■■さんとは、誰のことだろう。名前が思い出せない。それどころか、知っているはずの顔が、黒く塗りつぶされているようだ。私はもしや、忘れてしまったのだろうか? あの人のことを。
それがこの状況の中でなにより恐ろしい。私は何か、大切なことを忘れているのだ。どうしよう、早く家に帰らなければ。なのに、振り返る勇気が出ない。黒く塗りつぶされた街から、あの部屋に帰る方法がわからないのだ――。
「ねえ、君」
突然後ろから声をかけられて、心臓が止まるかと思った。誰かが、すぐ後ろにいる。声をかけられるまで、気配に気付かなかったけれど。すぐそばに、誰かが。
「どうしました、こんなところで。おとなの人は一緒にいますか?」
声をかけたその人が、手を伸ばしてきた。ちらり、と視線を動かした私の眼に、腕時計が映る。銀色に光りを放つ、細身の腕時計が。
ああ、もしや。私を探してきてくれたのだろうか。
安心して振り返る。しかしその人はあまりにも眩しく、逆光で顔が見えなかった。目をつぶっている間に、光に慣れてきたらしい。薄く瞼を開くと、なんということはない。何処にでも有るような街並みが見える。いつもどおりのアスファルト、コンクリートのビル。色とりどりの看板、人の姿をした生き物、白い歩道の線、穏やかな日常の世界。
そして、私の目の前にいたのは。私に声をかけてくれた、腕時計の主は――。
目を覚ますと、私は眩しさに顔を顰め、寝返りをうった。ややして顔を上げると、カーテンの隙間から日光がベッドに注ぎ込んでいる。閉め方が甘かったようだ。日光を浴びると生活リズムがどうこう言う人間はいるけれど、こんな風に叩き起こされて、なにが健康的なものか。私は深く溜息を吐いて、カーテンを引っ張り隙間を埋める。二度寝するためにベッドへ沈み込み目を閉じた。
そして、私は先程思い出せなかった人の名を考える。
「……シノさん……」
ああ、なんだ言えるじゃないか。その事実に私は深く安心して目を閉じた。
近頃どうも、うまく絵が描けない。
技法的な意味ではなく、インスピレーションが得られないだとか、形になってこないだとか。そういったことに近い。
溜息混じりにスケッチブックやキャンバスに向かってみるが、筆が重い。色彩が躍らない。そこに描くべきものがわからないまま色を落とすのも一興ではあるけれど、それはあてのない旅をするようなものだ。たまにするぶんにはいいが、そのままでいるわけにはいかない類のこと。少なくとも、私はそう思っている。
私の絵のジャンルは抽象画だ。それは精神世界を極限まで見つめた先にある、概念や要素のようなものを私なりに再構成しアウトプットしたもの。何の説明もなしに他人が何の絵であるかを理解するのは難しいだろう。しかし、今の私にはその作業ができない。
戯れに鉛筆を握り、手を動かしてみる。すると私ときたら、そう得意でもない人物画を描こうとするのだ。それが誰なのかなんて考えなくてもわかるものだが、しかしその拙い顔が彼であるとはとても思えなかった。絵を描かない人間には褒められるが、この人物の顔には何も宿っていない。
彼に感じている「思い」まで描かなければ、私の作品とは言えない。しかし私は自分の「思い」を測りかねていて、それを言葉どころか色や形にまでするなど、到底無理だった。
では彼への「思い」と向き合えばいいのだけれど、すると私は己の罪深さに身が凍えるのだ。私がシノさんをどう思っているのか、また彼からどう思われていてほしいのか。考えることさえ許されないような心地がして震える。あるいは、とっくに答えなど知っているのかもしれないけれど、それを受け入れる覚悟が無かった。
私は、人を殺してしまったのだ。
その罪深い業を負っていかなければならない。私が生きるべきなのは、あの暗く、赤く、青く、黒い世界。色彩鮮やかな生の世界にいる権利など、とうに無くしてしまったのだから。
なのに、なのに。
どうしても、シノさんのことを考えると、胸が苦しく、温かくなる。世界が色で縁取られていく。
私にとってシノさんは恐らく、パステルカラーだ。淡く優しい色で、私を見つめてくれる。彼は特別な色をしていた。
わかっていて。わかっていて私は、筆を進められない。
そんな存在を得てはいけないのだ。死んだあの人のためにも――。
そう思うのに、それでもなお、私はシノさんのことを考えてしまうのだ。
人と関わらないようにしてきた。それは相手を不幸にするからでもあるし、私が満たされてしまうからでもある。真っ当な暮らしなど許されるはずがない。私は償い続けなければならないのだから。そして私は恐ろしい。親しくした人が失われること、あるいは私のしてしまったことを知り、私から離れていくことが。
それならばいっそ、最初から交わらないほうがいい。別れは劇的で激痛を伴う。私にとって人との関わりとは、私がただ生かされるためのものだった。
なのに、どうしてシノさんとこんな暮らしを続けてしまっているのだろう。いけないとわかっていて。辛いだけだと知っていて。
わからない。いや、本当はわかっているのかもしれない。
わかりたくないのだ。認めてしまえば、私の世界は全て、変わってしまうから。
昔のことだ。背丈も今の半分ほどしかない私が、暗い街並にひとり立ち尽くしている。周りを歩く大人たちはみんな巨人のようで、青いシルエットだけになり顔も見えない。なのに、彼らが笑いながら道を進んでいるのだけは、よくわかった。彼らは私のことなど見えていないようで、恐ろしくなり道の端の壁へと縋りついた。
赤と黒で彩られたラインが道路に引かれていて、目まぐるしく赤と黒のランプが点滅している。恐らく、歩行者用の歩道と信号なのだろうけれど。そこを歩いた巨人たちはずぶずぶと地中に沈んでいく。真っ赤に染まりながら。
暗く、青く、黒く、赤い世界の中で私の体ばかりが人のような姿をしている。恐ろしくて私は壁に顔を向け、しくしく泣いていた。
ここはいったいどこだろう。母は、父はどこへ行ってしまったのだろう。どうして誰も助けてくれないの。私の疑問は晴れないまま、周りの笑い声ばかりが反響し、大きくなっていく。いったい何がそんなに楽しいのか、私にはわからない。もしかして、私が面白いのだろうか。
恐る恐る振り返ると、人々が私に視線を向けながら過ぎていく。ぎょろりとした目が私を見つめる。その目に食べられてしまいそうだ。また怖くなってすぐ壁に顔を戻した。
帰りたい。
早く、帰りたい。家に、私を脅かすものの無い部屋に。そうだ、描きかけの絵を完成させなければ。■■さんのために、またカレーも作らなければいけないし。
あれ、■■さんとは、誰のことだろう。名前が思い出せない。それどころか、知っているはずの顔が、黒く塗りつぶされているようだ。私はもしや、忘れてしまったのだろうか? あの人のことを。
それがこの状況の中でなにより恐ろしい。私は何か、大切なことを忘れているのだ。どうしよう、早く家に帰らなければ。なのに、振り返る勇気が出ない。黒く塗りつぶされた街から、あの部屋に帰る方法がわからないのだ――。
「ねえ、君」
突然後ろから声をかけられて、心臓が止まるかと思った。誰かが、すぐ後ろにいる。声をかけられるまで、気配に気付かなかったけれど。すぐそばに、誰かが。
「どうしました、こんなところで。おとなの人は一緒にいますか?」
声をかけたその人が、手を伸ばしてきた。ちらり、と視線を動かした私の眼に、腕時計が映る。銀色に光りを放つ、細身の腕時計が。
ああ、もしや。私を探してきてくれたのだろうか。
安心して振り返る。しかしその人はあまりにも眩しく、逆光で顔が見えなかった。目をつぶっている間に、光に慣れてきたらしい。薄く瞼を開くと、なんということはない。何処にでも有るような街並みが見える。いつもどおりのアスファルト、コンクリートのビル。色とりどりの看板、人の姿をした生き物、白い歩道の線、穏やかな日常の世界。
そして、私の目の前にいたのは。私に声をかけてくれた、腕時計の主は――。
目を覚ますと、私は眩しさに顔を顰め、寝返りをうった。ややして顔を上げると、カーテンの隙間から日光がベッドに注ぎ込んでいる。閉め方が甘かったようだ。日光を浴びると生活リズムがどうこう言う人間はいるけれど、こんな風に叩き起こされて、なにが健康的なものか。私は深く溜息を吐いて、カーテンを引っ張り隙間を埋める。二度寝するためにベッドへ沈み込み目を閉じた。
そして、私は先程思い出せなかった人の名を考える。
「……シノさん……」
ああ、なんだ言えるじゃないか。その事実に私は深く安心して目を閉じた。
近頃どうも、うまく絵が描けない。
技法的な意味ではなく、インスピレーションが得られないだとか、形になってこないだとか。そういったことに近い。
溜息混じりにスケッチブックやキャンバスに向かってみるが、筆が重い。色彩が躍らない。そこに描くべきものがわからないまま色を落とすのも一興ではあるけれど、それはあてのない旅をするようなものだ。たまにするぶんにはいいが、そのままでいるわけにはいかない類のこと。少なくとも、私はそう思っている。
私の絵のジャンルは抽象画だ。それは精神世界を極限まで見つめた先にある、概念や要素のようなものを私なりに再構成しアウトプットしたもの。何の説明もなしに他人が何の絵であるかを理解するのは難しいだろう。しかし、今の私にはその作業ができない。
戯れに鉛筆を握り、手を動かしてみる。すると私ときたら、そう得意でもない人物画を描こうとするのだ。それが誰なのかなんて考えなくてもわかるものだが、しかしその拙い顔が彼であるとはとても思えなかった。絵を描かない人間には褒められるが、この人物の顔には何も宿っていない。
彼に感じている「思い」まで描かなければ、私の作品とは言えない。しかし私は自分の「思い」を測りかねていて、それを言葉どころか色や形にまでするなど、到底無理だった。
では彼への「思い」と向き合えばいいのだけれど、すると私は己の罪深さに身が凍えるのだ。私がシノさんをどう思っているのか、また彼からどう思われていてほしいのか。考えることさえ許されないような心地がして震える。あるいは、とっくに答えなど知っているのかもしれないけれど、それを受け入れる覚悟が無かった。
私は、人を殺してしまったのだ。
その罪深い業を負っていかなければならない。私が生きるべきなのは、あの暗く、赤く、青く、黒い世界。色彩鮮やかな生の世界にいる権利など、とうに無くしてしまったのだから。
なのに、なのに。
どうしても、シノさんのことを考えると、胸が苦しく、温かくなる。世界が色で縁取られていく。
私にとってシノさんは恐らく、パステルカラーだ。淡く優しい色で、私を見つめてくれる。彼は特別な色をしていた。
わかっていて。わかっていて私は、筆を進められない。
そんな存在を得てはいけないのだ。死んだあの人のためにも――。
そう思うのに、それでもなお、私はシノさんのことを考えてしまうのだ。
人と関わらないようにしてきた。それは相手を不幸にするからでもあるし、私が満たされてしまうからでもある。真っ当な暮らしなど許されるはずがない。私は償い続けなければならないのだから。そして私は恐ろしい。親しくした人が失われること、あるいは私のしてしまったことを知り、私から離れていくことが。
それならばいっそ、最初から交わらないほうがいい。別れは劇的で激痛を伴う。私にとって人との関わりとは、私がただ生かされるためのものだった。
なのに、どうしてシノさんとこんな暮らしを続けてしまっているのだろう。いけないとわかっていて。辛いだけだと知っていて。
わからない。いや、本当はわかっているのかもしれない。
わかりたくないのだ。認めてしまえば、私の世界は全て、変わってしまうから。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
想いの名残は淡雪に溶けて
叶けい
BL
大阪から東京本社の営業部に異動になって三年目になる佐伯怜二。付き合っていたはずの"カレシ"は音信不通、なのに職場に溢れるのは幸せなカップルの話ばかり。
そんな時、入社時から面倒を見ている新人の三浦匠海に、ふとしたきっかけでご飯を作ってあげるように。発言も行動も何もかも直球な匠海に振り回されるうち、望みなんて無いのに芽生えた恋心。…もう、傷つきたくなんかないのに。
《完結》僕が天使になるまで
MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。
それは翔太の未来を守るため――。
料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。
遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。
涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
【完結】恋した君は別の誰かが好きだから
花村 ネズリ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。
青春BLカップ31位。
BETありがとうございました。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
二つの視点から見た、片思い恋愛模様。
じれきゅん
ギャップ攻め
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる