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約束の土曜日はあいにくの曇天で、今にも泣き出しそうな黒い雲が、どこまでも空を覆っている。空気はずいぶんと湿っぽい。そこでようやく、自分が雨男であることを思い出した。
小さな頃から、何か特別に出かけるといったらこうだ。時には雷が鳴るほどの大雨になって、ロクに遊べた記憶が無い。それも私の出不精に拍車をかけていたのかもしれなかった。
シノさんは私の家まで迎えに来てくれたけれど、私の恰好を見て「初めて見るお洋服ですね」とそれだけ言った。褒められれば普段がひどいことになるし、貶されれば素直に落ち込んだだろう。事実だけを言ってくれるシノさんの言葉は、とてもありがたかった。
「ええ、折角だから大人しい服にしようかと思いまして」
「そうなんですね。僕は普段のタマさんの服装も好きですが、その恰好もとてもいいと思います」
サラリと言われ、私は頬が熱くなった。シノさんは誰にでもこのような殺し文句を言うのだろうか。そうなのかもしれない。少なくとも私にとってシノさんは、私のような者とも距離感を選び、話を繋げられるコミュニケーションの達人に思えた。
「あ、ありがとうございます。えと、天気が悪いですが、予定通り行きますか?」
「とりあえず行ってみましょうよ。電車で移動するのも何かの刺激になるかもしれませんしね」
ひさしぶりに乗る電車の中は、土曜日とあってか、椅子へ座れないほどには混雑していた。私たちは目的地が終点に近いのも有って、長く座席前の吊り革に掴まって過ごした。
シノさんはこういう時も、ずっと話し続けたりはしない。時折、窓の外に映る景色について話題を振ったり、先に降りる人たちへ道を作った時に少々話をするものの、大半の時間を静かに過ごしていた。それも、私にとってはありがたい。
そうしてゆっくりと電車の旅を楽しんでいると、様々な発見がある。中吊り広告の鮮やかさや、そのコピー文の鋭さ。思い思いに到着までの時間を潰す人たちの、服装の色彩バランスや彼らの過ごし方。聞き取れぬほどの囁き、時折車内を貫くように届く笑い声。モーターや車両が軋む音、レールを走る車内の揺れ、目まぐるしく変わる景色。
ともすれば、私はその光景が怖くなりそうだった。あの恐ろしくギョロりとした目で皆が見つめてくるのではないか、私を嘲笑っているのではないかという疑念。時折見る悪夢のことを思い出して、私はぎゅっと吊り革を握りしめ、隣を見る。
シノさんは、何が楽しいのか僅かに口角を上げて、外の景色を眺めているばかりだ。しかしそれが、何よりも雄弁に語る。シノさんは、きっとこの時間を楽しんでいる。そしてそんな彼の隣にいると私も安心できた。
遊園地の最寄り駅へ到着した頃になっても、空はひどく暗い。駅前には親子連れやカップルがたくさんいて、これからどうするかを話しながら遊園地へと向かっていた。私はその光景を見て、今更ながら尻込みをしてしまう。一言で表現すれば、生きる世界が違うと思った。私など、場違いにもほどがあるような気がしたのだ。
「ここから徒歩で15分くらいですね。あっちです、人の流れに着いて行けばよさそうだ」
シノさんはルートを確認してから、私を見た。そして一瞬その笑みを消し「タマさん、大丈夫ですか?」と尋ねてくる。そう聞かれてしまえば、正直に言って大丈夫ではないのだけれど。
ここまで来て、やっぱりやめましょうと言うのもシノさんに失礼かもしれないし。私は大丈夫ですと頷いて、人の流れに従うよう歩き始めた。シノさんもそれに着いてきてくれる。
遊園地は郊外にあるから、その周辺は大きな道路や公園が有るばかりで、大きな店や住宅の姿も無い。呆れるような数の車が並んだ駐車場が目に入るだけだ。そんな広々とした道を、親子連れやカップルに紛れて私たちも進む。
よくよく見れば、友人同士で来ているだろう人々もチラホラとは見えた。私の負い目や心配など、全て杞憂なのかもしれない。遊園地までの道のりを中ほどまで進む頃には、私はそう考え始めていた。
その時、ポツリと額で雫が弾ける。小さなそれは冷たく、思わず空を見上げた。
朝から濃い灰色の雲が覆っていたそこは、ついに泣き始めたようだ。堰を切るようにボタボタと大粒の雨が降り注ぎ始め、辺りは一気に激しい雨音と水煙、そして人々の悲鳴に包まれた。
それは、雨宿りを急ぐための声だった。遊園地に走る者も、近くの木の下に逃げ込む者もいる。ただそれだけだったのに、しかし私を追い詰めるにはじゅうぶんだった。
幼い頃の記憶が蘇る。悲鳴を上げる人々、冷たい雨、赤く染まったアスファルトと私の手。あの日の情景が目の奥に浮かび、私は咄嗟にシノさんの腕を掴むと、その場から逃げ出していた。
「タマさん……⁉」
駅に向かって駆ける。日頃、ろくに運動もしないから、それほど早くはなかったのだろう。シノさんもよろめいたりはせず着いてきてくれた。徒歩で数分歩いた道のりを、シャワーでも浴びるような豪雨を受けて走る。私は必死だった。あの場にいてはいけないと思ったのだ。
駅の屋根の下ではたくさんの人が雨宿りをして、空の様子をうかがっていた。私はシノさんを連れてそのはずれにとびこみ、人の少ない空間まで駆け抜け、そこでようやく足を止めた。ハァハァと犬のように激しい呼吸を繰り返しながら、シノさんを見る。彼は私ほど息を乱していなかったけれど、ずぶ濡れなのは同じだ。そこでようやく、何も言わずにここまで引っ張ってしまったことを認識した。
私は、シノさんの腕を、ぎゅっと握っていたのだ。離さなければ、と頭では思うのだけれど、今はどうしてもそれができない。あるいは、私の呼吸が乱れ、心拍が跳ねて体が震えているのは、雨に濡れたせいでも走ったからでもないのかもしれない。
「大丈夫ですか、タマさん。顔色が悪いですよ……?」
勝手なことをしたのに、シノさんは責めもせず心配そうに私の顔を覗き込んだ。周囲には人がおり、ガヤガヤと騒がしいのにシノさんの声ばかりが私の耳に通る。あるいは他の音など、人など存在しないかのようだ。振り向いたら世界がドロリと溶けているのではないかと不安にかられて、私はシノさんの腕を離せないまま、俯いて謝罪した。
「し、シノさん、すいません……」
「いいんですよ。酷い雨ですから。タマさんの具合も悪そうですし、今日は行くのを止めておきましょうね」
振り回してしまったのに、シノさんは気にした様子もなかった。それがありがたくもあり、余計申し訳無くもなり。私はもう一度、すいませんと呟いた。
「私が、雨男なばっかりに」
「謝らないでください、タマさんはなにも悪くありませんよ。ただ、この世界には人間の力でどうにもならないことがたくさんあるだけですから」
「急に引っ張ってしまって」
「おかげで、少し濡れるのが少なかったぐらいです。僕のことは気にしないでください」
シノさんは、あくまで私を責めはしない。どうしてこんなに優しいのだろう。そして、こんな私のそばにいてくれるのだろう。私はその存在に救われる心地になった。
――ああ、違う。忘れてはいけない。シノさんは、私の絵が、画家としての私が好きなのだ。絵を描ける私が。だから、絵を描けるようになるため、今日もこうして私を導き、気遣ってくれているのだ。
そうでなくてはいけない。私には、こんなにもシノさんに優しくされる理由が無いのだから。
「……このままじゃ電車にも乗れませんし、風邪を引いちゃうかもしれませんね」
シノさんが自分の服を見ながら言う。すっかり水を吸い込んで色の変わったソレは、絞れば水が溢れそうなほどだ。
「ホテル、行きましょうか。近くに有るんですよ」
そう笑顔で提案されたとき、私は初めて少々疑問に思った。どうして、近くにホテルが有ると知っているのだろう、と。しかし、きっとシノさんのことだ。遊園地までの道を調べる時に、地図で見たかなにかしたのだろうと思っていた。
シノさんに案内されたホテルが、派手な外装の……いわゆる、ラブホテルと呼ばれるものだと気付くまでは。
小さな頃から、何か特別に出かけるといったらこうだ。時には雷が鳴るほどの大雨になって、ロクに遊べた記憶が無い。それも私の出不精に拍車をかけていたのかもしれなかった。
シノさんは私の家まで迎えに来てくれたけれど、私の恰好を見て「初めて見るお洋服ですね」とそれだけ言った。褒められれば普段がひどいことになるし、貶されれば素直に落ち込んだだろう。事実だけを言ってくれるシノさんの言葉は、とてもありがたかった。
「ええ、折角だから大人しい服にしようかと思いまして」
「そうなんですね。僕は普段のタマさんの服装も好きですが、その恰好もとてもいいと思います」
サラリと言われ、私は頬が熱くなった。シノさんは誰にでもこのような殺し文句を言うのだろうか。そうなのかもしれない。少なくとも私にとってシノさんは、私のような者とも距離感を選び、話を繋げられるコミュニケーションの達人に思えた。
「あ、ありがとうございます。えと、天気が悪いですが、予定通り行きますか?」
「とりあえず行ってみましょうよ。電車で移動するのも何かの刺激になるかもしれませんしね」
ひさしぶりに乗る電車の中は、土曜日とあってか、椅子へ座れないほどには混雑していた。私たちは目的地が終点に近いのも有って、長く座席前の吊り革に掴まって過ごした。
シノさんはこういう時も、ずっと話し続けたりはしない。時折、窓の外に映る景色について話題を振ったり、先に降りる人たちへ道を作った時に少々話をするものの、大半の時間を静かに過ごしていた。それも、私にとってはありがたい。
そうしてゆっくりと電車の旅を楽しんでいると、様々な発見がある。中吊り広告の鮮やかさや、そのコピー文の鋭さ。思い思いに到着までの時間を潰す人たちの、服装の色彩バランスや彼らの過ごし方。聞き取れぬほどの囁き、時折車内を貫くように届く笑い声。モーターや車両が軋む音、レールを走る車内の揺れ、目まぐるしく変わる景色。
ともすれば、私はその光景が怖くなりそうだった。あの恐ろしくギョロりとした目で皆が見つめてくるのではないか、私を嘲笑っているのではないかという疑念。時折見る悪夢のことを思い出して、私はぎゅっと吊り革を握りしめ、隣を見る。
シノさんは、何が楽しいのか僅かに口角を上げて、外の景色を眺めているばかりだ。しかしそれが、何よりも雄弁に語る。シノさんは、きっとこの時間を楽しんでいる。そしてそんな彼の隣にいると私も安心できた。
遊園地の最寄り駅へ到着した頃になっても、空はひどく暗い。駅前には親子連れやカップルがたくさんいて、これからどうするかを話しながら遊園地へと向かっていた。私はその光景を見て、今更ながら尻込みをしてしまう。一言で表現すれば、生きる世界が違うと思った。私など、場違いにもほどがあるような気がしたのだ。
「ここから徒歩で15分くらいですね。あっちです、人の流れに着いて行けばよさそうだ」
シノさんはルートを確認してから、私を見た。そして一瞬その笑みを消し「タマさん、大丈夫ですか?」と尋ねてくる。そう聞かれてしまえば、正直に言って大丈夫ではないのだけれど。
ここまで来て、やっぱりやめましょうと言うのもシノさんに失礼かもしれないし。私は大丈夫ですと頷いて、人の流れに従うよう歩き始めた。シノさんもそれに着いてきてくれる。
遊園地は郊外にあるから、その周辺は大きな道路や公園が有るばかりで、大きな店や住宅の姿も無い。呆れるような数の車が並んだ駐車場が目に入るだけだ。そんな広々とした道を、親子連れやカップルに紛れて私たちも進む。
よくよく見れば、友人同士で来ているだろう人々もチラホラとは見えた。私の負い目や心配など、全て杞憂なのかもしれない。遊園地までの道のりを中ほどまで進む頃には、私はそう考え始めていた。
その時、ポツリと額で雫が弾ける。小さなそれは冷たく、思わず空を見上げた。
朝から濃い灰色の雲が覆っていたそこは、ついに泣き始めたようだ。堰を切るようにボタボタと大粒の雨が降り注ぎ始め、辺りは一気に激しい雨音と水煙、そして人々の悲鳴に包まれた。
それは、雨宿りを急ぐための声だった。遊園地に走る者も、近くの木の下に逃げ込む者もいる。ただそれだけだったのに、しかし私を追い詰めるにはじゅうぶんだった。
幼い頃の記憶が蘇る。悲鳴を上げる人々、冷たい雨、赤く染まったアスファルトと私の手。あの日の情景が目の奥に浮かび、私は咄嗟にシノさんの腕を掴むと、その場から逃げ出していた。
「タマさん……⁉」
駅に向かって駆ける。日頃、ろくに運動もしないから、それほど早くはなかったのだろう。シノさんもよろめいたりはせず着いてきてくれた。徒歩で数分歩いた道のりを、シャワーでも浴びるような豪雨を受けて走る。私は必死だった。あの場にいてはいけないと思ったのだ。
駅の屋根の下ではたくさんの人が雨宿りをして、空の様子をうかがっていた。私はシノさんを連れてそのはずれにとびこみ、人の少ない空間まで駆け抜け、そこでようやく足を止めた。ハァハァと犬のように激しい呼吸を繰り返しながら、シノさんを見る。彼は私ほど息を乱していなかったけれど、ずぶ濡れなのは同じだ。そこでようやく、何も言わずにここまで引っ張ってしまったことを認識した。
私は、シノさんの腕を、ぎゅっと握っていたのだ。離さなければ、と頭では思うのだけれど、今はどうしてもそれができない。あるいは、私の呼吸が乱れ、心拍が跳ねて体が震えているのは、雨に濡れたせいでも走ったからでもないのかもしれない。
「大丈夫ですか、タマさん。顔色が悪いですよ……?」
勝手なことをしたのに、シノさんは責めもせず心配そうに私の顔を覗き込んだ。周囲には人がおり、ガヤガヤと騒がしいのにシノさんの声ばかりが私の耳に通る。あるいは他の音など、人など存在しないかのようだ。振り向いたら世界がドロリと溶けているのではないかと不安にかられて、私はシノさんの腕を離せないまま、俯いて謝罪した。
「し、シノさん、すいません……」
「いいんですよ。酷い雨ですから。タマさんの具合も悪そうですし、今日は行くのを止めておきましょうね」
振り回してしまったのに、シノさんは気にした様子もなかった。それがありがたくもあり、余計申し訳無くもなり。私はもう一度、すいませんと呟いた。
「私が、雨男なばっかりに」
「謝らないでください、タマさんはなにも悪くありませんよ。ただ、この世界には人間の力でどうにもならないことがたくさんあるだけですから」
「急に引っ張ってしまって」
「おかげで、少し濡れるのが少なかったぐらいです。僕のことは気にしないでください」
シノさんは、あくまで私を責めはしない。どうしてこんなに優しいのだろう。そして、こんな私のそばにいてくれるのだろう。私はその存在に救われる心地になった。
――ああ、違う。忘れてはいけない。シノさんは、私の絵が、画家としての私が好きなのだ。絵を描ける私が。だから、絵を描けるようになるため、今日もこうして私を導き、気遣ってくれているのだ。
そうでなくてはいけない。私には、こんなにもシノさんに優しくされる理由が無いのだから。
「……このままじゃ電車にも乗れませんし、風邪を引いちゃうかもしれませんね」
シノさんが自分の服を見ながら言う。すっかり水を吸い込んで色の変わったソレは、絞れば水が溢れそうなほどだ。
「ホテル、行きましょうか。近くに有るんですよ」
そう笑顔で提案されたとき、私は初めて少々疑問に思った。どうして、近くにホテルが有ると知っているのだろう、と。しかし、きっとシノさんのことだ。遊園地までの道を調べる時に、地図で見たかなにかしたのだろうと思っていた。
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