生きにくい私たちの純愛

なずとず

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 目を覚ますと、部屋の中は酷く暗い。僕はひどくゆっくりとした瞬きを繰り返し、同じほどのろのろと枕元を手だけで探った。掴んだスマホを見ると、既に夕方のようだ。僕はひとつ溜息を吐いて、また目を閉じる。どうせなら、朝になっていたらよかったのに。

 タマさんと――飯田タヅマと最後に会ってから。僕の時間はまた随分、何も無いものに戻ってしまった。昼休みはひとりで黙々とコンビニ弁当を食べ、帰宅すれば積んでいる本を読むばかり。休みの日には洗濯と掃除をする、それだけの暮らし。

 はあ、と知らぬ間にため息が漏れた。

 あの日、タマさんに正体がバレてから。まだ1ヶ月ほどしか経っていないのに、僕にとっては何年も経過したように思えた。

 つまらない僕には、つまらない日常がお似合いなのだ。のろり、と上体を起こして薄暗い自室を眺める。フローリングが冷たく広がる僕の部屋には本棚と、そこに入りきらず積み上げられた本の山。部屋干しの仕事着。その程度しか語るべきこともない、家具の少ない居住空間だと思う。ベッドさえなく、僕は布団を敷いて寝ているから、畳むと余計広々と感じられた。

 部屋の隅の冷蔵庫へ向かう。そこにはほとんど何も入っていないけれど、冷凍室にはなにかしら食べ物がある。今日の夕飯をどうするか考えて、またため息を吐いた。

 土曜。僕は、タマさんの家へ遊びに行っていた。彼の手作りカレーは独特の風味の本格的なもので、気に入っていた。それももう、食べられることは無いだろう。

 とうに諦めたはずだ。もうタマさんと2度と会うこともない。そうわかっているのに、未練がましく毎日のようにあの日々を思い出す。

「……はぁ……」

 首を横に振って、思考を放り出す。全ては終わったこと。自分の力ではどうにもならないこと。そう言い聞かせて、僕の一日を終わらせようとする。

 ピンポン、とチャイムが鳴ったのはその時で、僕は冷蔵庫から顔を上げた。宅配かなにか頼んでいただろうか?

 のろのろと立ち上がって、チェーンがかかったままの玄関を開く。

 まず夕暮れの街並みが見えた。駅に隣接しひどく古びた僕のアパートは、騒音のせいで安く、僕の他に住む人も少ない。手入れもおろそかな廊下の壁が広がるばかりで、人の姿は見えなかった。不思議に思い角度を変えて、僕は息を呑む。

 あまりのことに、僕はそのままバタンと玄関の扉を閉めてしまった。

「シノさん」

 扉の向こうから、僕を呼ぶ声が聞こえる。僕は心臓が激しく鳴るのを抑えるので精いっぱいだ。

 どうして。どうして僕の家に、タマさんが。

 こんなことになるなんて、予想していなかった。僕は実家と縁を切って長く、今住んでいるこの部屋を実母でさえ知らないのだから。

 ましてや、「井土シノ」だとわかったのに、タマさんが僕の元に来る理由までわからなかった。

「シノさん、急に押しかけてきてごめんなさい。でも、どうか開けてください。話がしたいんです」

 そう語りかける声は落ち着いていて、まるでいつも通りだ。そのことに安心もするし、疑問にも思う。今更、何の話があると言うのだろう。

 あのとき、僕たちは話を終えた。タマさんがそう思うのなら、それが真実でいいと。実際、僕はタマさんの出した予想と結論に任せたのだから。

「シノさん、私と話をしてもらえませんか」

 タマさんが繰り返す。僕はしばらく考えていたけれど、わざわざここを突きとめてまで来ているのだ。このまま諦めて帰ってくれるようにも思えない。

 僕はしかし、タマさんと何を話せばいいのかわからなかった。一緒に過ごしていた頃は、あんなに言葉を交わしたものだけれど。今は喉が焼け付いてしまったように、声も出せない。

 どうしよう。どうしたら。

 それでも、このまま僕が黙っていたら。タマさんが、万が一にも帰ってしまったら。

 そうなったら、もう僕たちの関係は、このまま終わってしまうような気がして。

「…………」

 僕はチェーンをかけたままの扉を、そっと開く。目の前に、懐かしい姿が有った。いつものように、彼は芸術家らしい個性的な恰好をしている。僕には無いそのセンスと、そうして自分の好む姿を選べるタマさんの生きかたが、どこか羨ましいと感じたものだった。

「シノさん……」

「……あの、タマさん。お話の前に、ひとつだけ質問してもいいですか?」

「……! は、はい、もちろん」

「どうやって、僕の居場所を突き止めたんです……?」

 尋ねると、タマさんは真剣な顔で静かに答える。

「以前、シノさんは言いましたよね。使えるものは使えばいい。親の七光りを悪いこととは思わない、と」

「……え、ええ。言いましたけど……」

「だから、使わせてもらいました。親のちから……」

 そしてタマさんは僕に教えてくれた。母親に「井土シノ」が僕であるということを伝えた。すると彼女もいたく僕のことを気にかけたらしい。探偵を雇い、僕のことを調べさせたというのだ。

 出身地、通っていた学校、周りから見た僕の評判。僕の現在の家族構成から、勤務先。そして――この家の住所、まで。ほとんどすべてだ。

 目を丸くしている僕をよそに、タマさんは言った。

「シノさんなら、許してくれると思いました。プライバシーの侵害をしてしまって申し訳ありません。どうしても、私はあなたともう一度話がしたかったんです……」

「…………」

 あっけにとられて、僕はしばらくの間ぽかんとしていたけれど。タマさんのしたことへの理解が追い付いてくれば、僕の中に湧いてきた思いは、不思議と怒りの類ではなかった。

「……っふふ、あっはは、あはははは……」

 笑いがこみあげてきて、僕はお腹を抱えて笑ってしまった。扉の向こうで、タマさんが困惑しているのが見える。それは、そうだろう。きっとタマさんは笑われるようなことをしたつもりじゃないのだ。

「タマさんって、本当に。おもしろい人、ですね」

「そ、そうですか……?」

「誰がそこまでしろって言いましたか。もう、そんなことをして……、僕じゃなかったら、怒られるか気持ち悪がられますよ。僕が……同じ穴のムジナじゃなかったら」

 はあ。ひとしきり笑って、溜息を吐き出した。それでも表情筋ときたら、笑顔の形でとどまっているのだから困りものだ。僕は頬を手で押さえながら、そっと玄関を閉じる。

 チェーンを外し、それから再び扉を開く。

 タマさんは、自分でそう要求したくせに、扉を開けたことに驚いている様子だった。ふたりを隔てるものの無くなった玄関。僕は部屋の中へ目を向けて告げる。

「立ち話もなんですから。何も無い部屋ですけれど」

「シノさん……!」

 タマさんが僕の名を呼んだ。ちらりと彼の顔を見ると、目に涙まで浮かべている。その事実ごと目を逸らして、僕は「どうぞ」と中に促した。


 
 

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