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しおりを挟む駅の敷地に隣接するこの部屋は、電車が通るたびに小さく揺れ、それなりの騒音に晒される。遮光カーテンをくぐり抜ける店の灯りが床にさし込む。外からは、人の声や車の走行音もひっきりなしに響いた。
タマさんはそんな僕の生活環境に狼狽している様子だった。しばらく、この何も無い部屋を見回していたけれど、僕が辛うじてあったコップに麦茶を注いで持って行く頃には、神妙な面持ちでじっとしていた。
自分で言うのもなんだけれど、この部屋は本当に何も無い。
来客だって無いのだから、フローリングに敷くべき座布団やクッションも無いのだ。タマさんを固い床に座らせるのもかわいそうで、結局僕は普段敷いている布団を差し出した。
タマさんも変わっているけれど、僕は僕で少し変なのかもしれない。タマさんはぎょっとして「床で大丈夫です」と正座をしてしまった。きっと足が痛くて仕方ないだろうに、大丈夫なのだろうか。僕だけ布団の上というわけにもいかないし、タマさんの向かいに座るしかない。
「それで、お話というのは?」
タマさんの顔を見ないまま、問いかける。
「あ、……その。まずは、ごめんなさい。色々調べて、急に押しかけて」
「いえ、別に……」
「それと、あなたを疑ってしまったこと。本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げられて、僕は困ってしまった。過去形……ということは、タマさんに心境の変化があったのだろうか?
「いえ、あの状況では僕を疑うのも当然でしょう。事実、僕もあなたに黙っていたことが有りましたし……」
「だとしても、です。私はあの時……あなたを信じられなかったことを、深く後悔しています。あれほどよくしてくれたシノさんを疑う前に、私にはすべきことが山ほどあった。それから逃げていたのだから、私が悪かったんです。本当にごめんなさい。……だから、その結果も報告しに来ました」
「結果、ですか……?」
タマさんはひとつ頷いて、スマホの画面を見せてきた。そこには数々の中傷メッセージが羅列されている。見るに堪えない。もしかして、これがタマさんに届いていたというものなのだろうか。そうだとしたら、タマさんの繊細な心は傷付いただろうし、第一送り主はよほどの暇人だろう――。
そんなことを考えていると、タマさんはそっと画面を消し、スマホを懐へとしまう。
「このメッセージの送り主も、調べました。発信者情報開示請求を行ったんです。犯人は小学校の頃、私と同じ絵画教室に通っていた同級生でしたよ」
「……それは……」
「当時から、周りにチヤホヤされている私が気に入らなかったそうです。まあ、それは抽象画ばかり描いていたのと、あの事故があったからでしょうが……。その後、私が教室を辞めても、私の存在が気にかかってしかたなかったらしい。彼は美大に進むも才能が評価されず一般の会社員になり、私はご存じのとおり、悠々自適に絵を描き、親のコネとはいえ個展を開いた。順風満帆に見える私のことが、よほど気に障ったのでしょうね。仕事に疲れた身で中傷メッセージを送り続けるほどには」
「……タマさんには、タマさんの苦しみもあることも、わからなくなっていた、と?」
「はい。ですが……それは仕方ないことだと思います。彼には彼の苦しみが有るのでしょうから。……特に慰謝料は求めないつもりです。私が彼を傷付けたことは事実なのですし」
「タマさん、そんなことは、」
「いえ、彼の感じたことが、彼の真実ですから。それに、一度直接お話もしましたが、泣いていたんです。彼もそれほど苦しんでいた。そして私は、彼に傷つけられたわけではない。強いて言えば、私自身の行いに苦しんでいました。挙句、あなたを裏切ってしまった」
「裏切るだなんて。僕はそんな風に思ったことはありませんよ」
タマさんは僕の言葉に息を呑み、それからまた「ごめんなさい」と謝罪を口にする。
「……だとしても、私の中の真実はそうです。いつも私を受け入れ、よくしてくれていたシノさんに、いわれのない罪を疑った。私にとっては許しがたい裏切り行為です。だから、けじめをつけてきました。……シノさんは、中傷の犯人ではない。それを確かめてきました。けれど……では、何故? あの事故から十年以上が経過した今になって、あなたは私の前に現れたのか。……それだけは、私にはわかりません。理由は、あなたの中にしか……」
「そう、ですね……」
「……ですが。私には私の答えが、うっすらと有ります。あなたは、真実を伝えていると言っていた。そして私はあなたと過ごす時間を、……た、大切に思っていました。――ああもう、率直に言います。私は、あなたのことを、好ましく思っています」
タマさんの言葉に、今度は僕が息を呑む番だった。彼は言ってから顔を赤く染め、「いや、全然率直じゃないかな……」と呟いている。そんな彼をよそに、僕の鼓動はドクンと重たい音で鳴った。
好ましく思っている、というのは。つまり、そういうことなのだろうか。
この、何でもない僕を想ってくれるのだろうか。父の特別でさえなかった僕のことを、あなたの特別のように。
そうした思考を、すぐにかき消す。
「それは……そう言ってもらえるのは、嬉しいですが……、…………」
続きの言葉が、出ない。そんな僕を見て、タマさんは続ける。
「私はあなたと話す時間が好きでした。あなたに絵を見てもらえるのが嬉しくて。時々驚くようなことを言い出したりしますけど、でも、それも私にとっては大切な思い出になっています。私は……私は、あなたのことが好きです」
「タマさん……」
「一緒にいると、心が安らぎます。あなたになら、自分の全てを見せられる。だから……もう一度会うために、正直あまり褒められないことをしてまで、ここに来ました」
「…………はい……」
「その上で。あなたはあの時、私の告白を聞いて「許す」と言いました。あれがあなたの真実なのだとしても、やはりわからないのです。何故、このタイミングで私の前にあなたが現れたのか。そして私と……交友関係を築いたのか」
「そう、ですか……」
「シノさん」
俯いた僕に、タマさんがずいと身を寄せる。
「もう一度だけ、聞くことを許してください。どうか、教えてくれませんか。あなたはどうして私に会いに来たんですか。そして……あなたはどんな人なんですか。個人情報を調べた結果でも、私の推測でもない、あなたの言葉で、それを知りたいのです」
「僕の言葉で、ですか」
「はい。シノさんの言葉で」
そう言われてしまえば、僕のほうに断る理由が無い。タマさんの答えは出ているのだから。
僕が何を言ったところで、タマさんの感じたことが変わるわけでもない。しかし、僕が答えることが無意味とも思えない様子で、タマさんは僕を見つめている。
ああ、困ったな……。
僕はひとつため息を吐き出して、天井を見上げた。
「……全てをお話しするなら、少し長くなってしまいますよ?」
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