生きにくい私たちの純愛

なずとず

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後日談

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 それはまた、母とふたりでレストランを訪れた時のことだ。

「えっ、……えっ⁉ 今なんて言いました⁉」

 私は驚いて声を上げた。今、母は何の話をしたのだろう。

 雑誌をめくりながら料理が来るのを待っていた母を前に、私も軽いスケッチをしていたのだ。ぼんやりしていたのは事実で、何かとんでもないことを言われた気するけれど、詳しい内容がわからない。

 しかし母は、私が話を半分しか聞いていないことには慣れているようで、彼女もまた雑誌をめくりながら言い直す。

「タヅマさんの個展にいらっしゃってた方がね、どうしてもおうちに飾りたくなったと連絡してきたんですよ。ほら、商社の社長さん。あなたにも挨拶していたでしょう。外国人のハーフだっていう……金髪のかた」

「え……えと、……ご挨拶、しましたっけ……」

 言われて記憶の引き出しを開けてはみたけれど、あの日のことなんて、やたら人が来て気疲れしたことと、初めてシノさんに出会ったことしか覚えていない。外国人のハーフがいたなら、少しぐらい印象に残っていそうなものだけれど。まったくも思い出せなかった。

 そんな私に、母は溜息をひとつ吐いて、雑誌を閉じる。

「タヅマさんったら、本当に他人への興味が無いんですから。働きに出るにしろ、絵を仕事にするにしろ、その辺りはきちんとしないといけませんよ。人と人との関係は、信頼が一番大切なのですから。人のお顔と名前はちゃんと覚えておかなければ」

「は、はい、それは重々、……今後は気を付けます……」

「でしたら私の話もちゃんと聞いておくこと」

「は、はい……おっしゃる通りで……」

 ぐうの音も出ないとはこのことだろう。いくら大きな理想を掲げても、現実を変えなければ、何もしないのと同じだ。今後と言わず今からでも気を付けようと思い、スケッチを鞄にしまうと、姿勢を正す。

「ええと……そ、それで。その方に私の絵を差し上げればいいんですか?」

 私はそれで構わないけれど。そう考えたが、母は「いいえ」と首を振る。

「先方は、クリエイターには相応の報酬が必要とおっしゃっているわ。これがその金額です」

 差し出された花柄のメモ用紙に、数字が書かれている。受け取って、私は仰天した。このような金額、もったいない言葉を通り越して申し訳なさすぎる。

「母さん、こんなに頂けませんよ! 私はその……好きで描いているだけなんですから!」

「あら、じゃああなた、これまで私に甘えて遊び惚けていた、ということ?」

「え、あ、いえ、そ、そういうわけでは……」

「あなたの読み漁っていた美術書や、たくさん積み上げてあるスケッチブックも、ただ遊びでやっていたことなのかしら」

「そ、それは……」

 難しいところだ。人によっては、ただ遊んでいただけだと言うだろう。あの、中傷メッセージを送っていた知人のように。彼は、金持ちの道楽をしていると思い、私を許せなかった。実際、そうでないと百%言いきることはできない。私は母に、環境に甘えているのだから。

 とはいえ。

「……私なりに努力はしてきたつもりです。より表現したいものを、自分の理想へ近づけるために……」

「そのためにどれほどの勉強と、どれほどの時間を費やしたんです?」

「それは……」

「ええ、ええ。それはそれは膨大なものをかけて、あなたは一枚の絵を描いたんです。それをもっと、誇りに思っていいんですよ。たとえあなたが、自分の描きたいものを描いたのだとしても。心を動かされる人はいて、お金を払ってでも欲しいという人はいるのですから」

 その言葉に、私はシノさんのことを思い出した。

 深く接するつもりは無かったはずのシノさんが。私の絵を見つめて。そしてもっと私の作品を見たいと、私を知りたいと思ってしまったことを。

 シノさんは心を動かされたのだろう。そして、どうしても離れられなくなってしまった。

 そのような風に。精神世界や思考を描き出した絵が、誰かの心に届き、響いたというのなら。それ自体が、私には関係の無いことでだとしても。

 喜ばしくないと、言ってしまえば嘘になる。

「……ですが……」

「それにねえ、タヅマさん。あなたの絵を好きになってくれた人が、これだけの価値が有ると考えたんですよ? それを否定するのは、その人の思いに対して少々失礼に当たるかもしれません」

「……それは……そう、かもしれませんが……」

 私は小さくなってしまいながら、あれこれひとりで考えて。テーブルに温かな料理が並べられた頃、おずおずと切り出した。

「すいません、母さん。あの……その人と、直接お話することはできますかね……?」


 



「それで、会うことに決めたんですか?」

 家に戻って。夕飯の卓を囲みながら話をすると、シノさんは随分驚いたようだった。

「タマさんはあまり人と会うのが得意ではないと言っていたのに……大丈夫なんです?」

「いやそれが。言ってしまってから後悔しているところではあります……」

「ああ……」

 シノさんは私のスパイスカレーをナンに乗せながら、小さく頷いた。タマさんらしいです、と一言コメントし、カレーを頬張る。その時の表情は本当に子どものように幸せそうで、私も少し気持ちが落ち着いた。

「……でも、どうしても。私はあちらを知らないのに、お金を頂くというのがどうにも納得できなくて。直接、どんな方で、どうして私の絵を気に入って下さったのか聞きたいんです」

「それはまた……聞かれたほうもなかなか困りそうな気もしますが……」

「う。そ、そうですか?」

「あれこれ理屈を並べたって、「好きなものは好き」としか言いようの無いことも、たくさんありますからね……」

「うう、やっぱり相手のかたのご迷惑になるだけですかね……」

 母の前にいた時より小さくなっていると、シノさんは「うーん」と顎に手を当てて考え、それからポツリポツリと呟く。

「でもあちらはあなたの絵を欲しいと思っているのだし、あなたと会うこと自体は構わないんじゃないですか? 人として仲良くなれる可能性も有りますし、そうなるとお互いに良い関係を作れるかもしれません。……もちろん、そうでないことも大いにあり得ますけど」

「ううっ、シノさん、社長さんってどんな態度で会えばいいんですか⁉ 失礼の無いようにしないと……それに話したいと言っておいて、なにを話したらいいか考えていなくて……」

「タマさん」

 おどおどしている私の名を優しく呼んで、シノさんは微笑んだ。

「もちろん、失礼の無いように振舞うのは大切です。でも、お話をする時に一番大切なのは、あなたも楽しんで、相手も楽しむことですよ」

「た、楽しむ……ですか……」

「はい。ありのまま、リラックスしたあなたでお話しすればいいんです。そうすればきっと話が弾みますから。気負わないで、ご縁を楽しみましょう」

「ううん……努力してみます……」

 アドバイスを受け止めながら、私もカレーを口に運んでいると、シノさんが問いかけてくる。

「……ところで、お相手の方は外国の人だと聞きましたけど……タマさん、英語は話せるんですか?」

「あっ……」

 大変なことを忘れていた。私は目を丸くしてシノさんを見つめる。その反応で全てを察したらしいシノさんは、「では何か対策を立てませんと」とまた顎に手をやった。

「そ、そうでした。忘れていました……。私、英語は全然わからなくて……」

「ううん、ボディランゲージという手も有りますけど……言葉がわからないのに会話をするのは困難ですよね……」

「……し、シノさん、シノさんは英会話とかできませんか?」

「それは、できますけど……」

「えっ、できるんですか!」

 ダメ元で聞いてみたものの、あっさりと肯定され私は焦った。

 よくよく考えれば、いびつな家庭に育ちながら働いて大学へ行った彼は、そのかたわら私のことを、探偵を雇うでもなく追い続けていたのだ。おまけに保険会社の営業に就職しているわけだし、まるでカウンセリングの心得があるかのように接してもくれた。もしかして私が知らないだけでこの人は、ものすごい人なのではないだろうか。

 私が何を考えたのかわかったのか、シノさんは「いえ、別に」と前置きしてから言う。

「ビジネス英会話を少し習ったぐらいで、何でも喋れるというわけではないですよ」

「そ、それでもすごいことですっ。私、英語というか、言葉はからっきしダメで……」

「……ふふ」

 シノさんはそこで何故だか微笑んだ。理由がわからずにきょとんとしていると、シノさんがゆっくりと私の手を握る。

「それなら、尚のこと。あなたは作品で語るのと同じように、お相手のかたと接した方が多くを伝えられるかもしれませんよ。あなたの情熱、思いは、その表情や全身から滲み出る気配でこそ伝わるものですから」

「そ、そうですかね……」

「ええ、そうです。それを言葉にするのを急ぐことはありませんよ。タマさんにとっては、自分を表現するのが絵なのですから」

「……シノさん……」

 優しい言葉。まるで母が増えたような心地だ。私は僅かに涙ぐみながらも、わかりましたと頷いた。

「……でも、よかったら立ち会ってくれませんか……?」

「仕事が休みの日なら、構いませんよ」

 おずおず切り出すと、即答されて。シノさんに感謝しながら、覚悟を決める。

 私は、私のやりかたで伝えるしかないのだ。それを恐れてはいけない。精一杯、私なりに伝えよう。そしてそれをお互いに楽しめるよう、私こそが相手のかたとお話できることを喜ぼう。


 



 結論から言えば。

「あの方、とっても日本語がお上手でしたねえ」

「……は、はい……」

 直接お会いした、ハーフの社長さんはカタコトで日本語が話せた。伝わらない単語はどうしてもあったけれど、社長さんには秘書のような男の人がついていて、通訳もしてくれた。結局、シノさんが英会話を披露する必要は無かったのだ。

「……それに、タマさんもお話しがお上手でしたよ」

「い、いえ、そんな。シノさんがフォローして下さったからうまくいったんです……」

 私は肩を縮めた。

 今日も今日とて小雨の中、私たちは待ち合わせた喫茶店から出て街を歩いている。傘をさす人はまばらで、頭を押さえて走る人の姿も見られた。

 私たちは互いに傘をさし、反響するかすかな雨音へ耳を傾けながら、今日のことを振り返っていた。

 社長さんは思っていたよりずっと若く、美人だった。こんな人がどうして私の絵を、とまず疑問に思ったので、私は率直に尋ねた。まずは感謝を、そしてなぜ私の絵なのかと。

 すると彼は、つたない日本語で答えてくれた。あなたの絵に心を動かされたからだと。それ以上の説明はほとんどなくて、私も深く求めるわけにいかなかった。

 見て、感じたことだけが真実なのだ。彼には彼の真実が、私の絵の中に見えたのだろう。

 深く感謝をして、しかしこのような金額はもらえないと伝えた。私はまだ無名の絵描きであり、画家でさえないのだから。

 あるいは、この時の私はまだ疑っていたのかもしれない。彼は、母と繋がりがある。母の息子である私に、単なる絵への評価ではなく良好な交友関係の為の金額を乗せたのではないかと。

 しかし、彼は微笑んで言った。

 私にとって、あなたの絵はそれだけの価値がある。少なくとも私は本気でそう思っている。是非自室に飾って、眺めていたい。あなたの絵を見ていると、どうしようもなく優しい気持ちになり、また頑張れる気がするのだ。

 カタコトの日本語でそのように言ってくれて、私はなんと返していいかわからなくなった。そうまで言われては、断りようがない。私の絵があなたの力になれるなら、と頷くしかなかった。

 是非、新しい作品ができたら見たいと、彼が握手を求めて。私がおずおずと握り返す。社交辞令かと思ったのに、連絡先が書かれたカードを渡されて、面食らってしまった。

 つまり、私たちはおそらく、交友関係を築いたのだ。母の息子としてではなく、彼と私という、ただそれだけの関係を。

「どうしたんです、タマさん。そんな顔をして」

 気付くと、シノさんが私を見て笑っている。どんな表情をしていたのだろう。私は顔を指で揉んだりしながら「いえ」と首を振った。

「夢のようだな、と思いまして」

「……ふふ、そうですね。もうずっと、夢のようなことばかりです」

 シノさんの言葉には含みがあって。彼を見ると、また優しく微笑んでいる。

「夢でなければいいと祈っているんですよ、これでも」

「……はい。夢ではありません。全て、現実です……」

 シノさんとのことも、今日のことも。夢のような現実で。私はそれを噛み締めて、前を向く。

 きっといいことばかりではない。悪いことも起こるだろう。でも、私が進むのをやめない限り、この夢は終わらないのだ。

「……そういえば、タマさん。ずっと聞き損ねていたんですが……」

「はい、なんでしょう?」

 改まってなんだろう。私が立ち止まると、シノさんも真っ直ぐに私を見て問う。

「……あなたのこと、タヅマさん、とお呼びしたほうがいいですか?」

 私は目を丸め、しばらくその言葉の意味するところを考えていた。

 やがて、言葉の裏の意味にまで気付くと、頬が熱くなる。

「あっ、えっ、あ、……っ、いや、いえ、いいです」

「いいとは?」

「いえっ、今まで通り、タマと呼んでください!」

 名を呼ばれるのはどうにも恥ずかしくて、むず痒くて、体が熱くなってしまう。まだその覚悟がつかなくて、そう返事をすると、シノさんはやはり優しく頷いた。

「はい、タマさん」

 これからもよろしくお願いしますね。

 そう言われて、私も大きく頷く。

 これから私たちは何か変わるだろうし、変わらないこともあるのだろうし。今はこれでいい。

 ただ頰の熱さは治らず、前を向いて歩き始めようとしたシノさんの、手をそっと握った。 



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