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きみのために、したかったこと【後編】
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なんだろう、体が重い。
ゆるりと目蓋を持ち上げると、見慣れた木目の天井が視界いっぱいに広がっていた。相当遅い時刻なのか、室内も窓の外も暗い。ただ、ベッドサイドのテーブルに置かれたランタンの仄暗い灯火と、窓から差し込む薄い月光だけが光源となり、ここがシャールの間借りしている自室であると知らせていた。
全てが夢の中の出来事であったかのように、記憶は曖昧だった。
しかし、一番思い出したくないことだけは、はっきりと憶えていて、その事実だけが胸をえぐりきりきりと痛む。
一番無くしたくないものを奪われた痛み。
(スティールがずっと僕を呼んでいた。
もう、僕なんて要らないくせに。どうしてそんなに必死な顔で呼ぶの?
捨てるなら、どうしてそんな哀しそうな辛そうな顔をするの?
皆、あの後どうしたのかな、流石にもう帰ったかな。どうやら丸一日過ぎてしまったらしいし……)
体を起こそうとしてようやく、左手に温もりがあることに気付いた。視線を送ると、床に座り込んだ紅茶色の髪の少女がシャールの手を握ったまま浅い寝息を立てていた。
「どうして……」
掠れた声が漏れた。
「ん……シャール? 目が覚めたの?」
眠りが浅かったのか、すぐに少女が応じた。顔を上げて、自分の手をシャールの額に当てて、熱がないことを確認する。
「良かった~。身動き一つしないでずっと気を失っているから、どうしようかと思っちゃった。運んでくれたのはジルファさんだよ。後でシャールからもお礼を言ってね?」
心から嬉しそうに笑うから、つられて少し唇の端が持ち上がってしまう。
「ジルファさんに会ったらびっくりするよ~! 今ね元の姿に戻っているから。あ、言わないでびっくりさせたら良かった! 失敗失敗」
えへへ、と照れ笑いして。
(あの時、僕のことを怖いと思ったでしょ?
どうしてそんな、何もなかったみたいに笑うの?)
「……どうして帰らなかったの」
月の位置からして、深夜より少し手前くらいだろう。
こんなに遅くまで家に帰らずにここにいたのは勿論あの時以来で。所謂無断外泊になってしまうのではないだろうか。
心配してしまう自分も自分で。
もう他の男性のものになってしまった少女のことなど、心配したくないと思うのに。
「あんな状態のシャールを放っていけるわけがないでしょ」
半ば憤然とスティールは答えた。
ねぇ、今ならちゃんと聴いてくれる? あたしの話。
曇りのないまっすぐな瞳で見つめられて、シャールは目で頷いてから体を起こした。重くてけだるいので、クッションを背に当ててベッドの頭に凭れ掛かり話を聴く体勢を整えた。
それを確認して、スティールはベッドに腰掛けてシャールと目の高さを合わせた。
「あのね、あたしは確かにローレンスとお付き合いすることにしたけど、だからってどうしてシャールをないがしろにしたりすると思うの? 前にシャールが言ってくれたね、一緒に暮らそうって。あたしは、即答できなかったし、今でもそれに対しては出来るとも出来ないとも返事が出来ないよ。
逆に……もしも、もしもだけど、そんなこと言わないだろうけど、、ローレンスに今そう言われてもあたしには返事が出来ないよ。
だから、誰か一人だけ選んで大事にして他の人のことはもう捨ててしまうとか、そういうことじゃないんだよ。
犬の姿のときもそうだったじゃない。学校ではスティングや他の友達と遊んで、キャンプで何日も家を空けるときもあったし、そんなときもシャールはずっと家で待っていてくれたよね。
あたしには、お父さんもお母さんもそしてシャールも……皆大切な家族なの。他の誰とも比べられないの。だから、そのことだけは、絶対に忘れないで。
シャールのお母さんが命がけでシャールを護ったみたいに、あたしもシャールを護るよ。だって……こんなに愛しているから」
シャールの胸の奥がじわりと熱を帯びていく。
目の前の少女は目を潤ませながら、切々と語っていてその内容はこの上もなく暖かくて。
(それでもまだ、どうして胸が苦しくて痛いの?)
「あは、なんか他に上手い言葉が見つからないや。何度でも言うよ、あたしはシャールが好き。誰とも比べられないし、比べたくなんかない」
今度こそ本当に伝わっていて欲しいと願いながら、指先で眦を押さえてスティールはシャールの表情を窺った。
「ありがとう」
今はそれしか言えない。
今はそうやって自分を納得させるしかないのかもしれない。
もやもやはずっと胸の奥でわだかまっていて、ふとした拍子にまた表面に出て来てしまうだろう。けれどもそれは解消されることのない不満なのだ、きっと。
スティールの方もシャールにきちんと伝わったとは思えていないようで、不安げに柳眉を寄せた。でももういくら探しても、自分の中にはこれ以上の言葉が見つからない。
うん、と気持ちを切り替えるようにスティールは両手でぱしんと膝を叩いて立ち上がった。
「お腹、空いたよね? 晩御飯のスープ温めなおしてくるね」
木の扉を開けると、スティールは足音を忍ばせて出て行ってしまった。
しばらく閉じたままの扉を見つめていると、またゆっくりと内側に開いた。
「失礼するよ」
冴え冴えとした冷たい月光を、きらきらと暖かい光に変えて、長身の青年が入ってきた。ゆとりのあるシャーリングの入った純白の上下の衣に、金と赤の刺繍が入った腰布を巻いた男性は、一目でジルファであると判明して、シャールはのろのろと頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました」
言葉ほどには謝罪の心がない声だったが、ジルファはまるで気にしていない様子で笑みを浮かべて近寄ってきた。
「調子はどうだい?」
「だるいけど……他は別に」
普段よりも言葉少なに、そして口調も固くなっている。自分でも判っていたけれど、愛想笑いも出来なかったし、したいと思わなかった。
あれほどまでに笑みを絶やさずここまでがんばり続けてきた少年の変わりように、ジルファも胸を突かれた。〈銀の界〉を崩壊から救った時、あの虹の下でスティールと抱き合って泣いて、それ以降はまた涙も苦しい顔も見せなかったシャールが、今日のあの言葉だけでどうしてこうも変貌してしまったのか。
いや、勿論ここまでくるにはいろいろと段階があったはずで、それは少女との会話の端々に出てきた二人だけの邂逅の場で積み重ねられてきたのだろう。
ここまで頑なな態度を取られると、本当は少しショックで。それでも今のスティールの内心を思い遣ると己の出来る事はしなければと、ベッド脇に立ったままジルファは毅然とシャールを見下ろした。
「きみはスティールが好きなんじゃなかったのかい?」
どういう意図か図りかねて、唇を引き結んだままシャールは青年を見上げた。まっすぐな金糸の髪が闇の中に輝く。それ自体が光源であるかのように。
「少なくとも〈狭間〉からこちらに移って来た時のきみは、あの娘の幸せを願って、自分の危険を顧みずに生きていた。そしてあの娘も、自分のあれこれなど全て放り出して、きみに会う為だけにここにやってきた。けれど」
眼光が鋭く少年を射抜いた。
「今のきみは、あの娘の気持ちなどまるでお構いなしだ。自分だけを見て欲しい、傍にいて欲しい、そうでないならば壊れてしまってもいい」
意識を手放すのがあとわずかでも遅かったならば、シャールがスティールに手を掛けようとしていたことを〈金の界〉の青年は気付いていたのだ。
「そうしたらきみは、間違いなく父王の後を追っていただろう」
きみは再びあの娘の命を奪うつもりだったのかい? と。それは言葉にはせずに、瞳で告げる。
第二王子の手に落ち意識を操られて少女に剣を突き刺した、その時のことを思い出すが良い、と。
本当ならば、少女はもうここには存在していないのだ。最大の禁じ手になるのを承知で、「ここにいる筈のない者だから、本来の場所で生きていても良いだろう」と小理屈を捏ねて無理矢理再生させた。ここがまた異界であっても、二度と同じことは出来ない。
「あの娘は、本当にきみのことを心から案じている。きみの母親のように。それは無償の愛情だ。ねぇシャール、同じだと思わないかい? お母さんは、〈銀の君〉を愛していたけれど、その愛するものを切り捨てて自分の命を捨てても、きみの安全を優先した。そして最後には二人で旅立って行った。きみはあの時に、お母さんを恨んだりはしなかったはずだ」
「あの時と……今は違います。母とスティールも全然違います」
シャールは、ぎゅうっと掛け布を握り締め、強引に視線を外してその手を見つめた。
「僕は……それでもやはり、僕の傍に居ないことがこんなにも辛いなんて、思っていなくて。もう以前の僕には戻れない」
「そうかい」
ジルファは、ふーっと大きく息を吐いた。ゆっくりと瞬きしてシャールから視線を外してここではない何処かを見つめる眼差しになる。
「私事だけれどね、私は、そりゃあリルフィに好かれたいと思っているよ? けれど、私が彼女を好きだという事さえ伝わっていれば後は運を天に任せる気持ちだね。
彼女が私を好きになれば最高だ。だけど他の誰かと結婚したりしても、それで私が彼女を思う気持ちに変わりはない。幸せになってくれたら、それでいいと思う。それが私の手ではなくて、他の誰かの手で与えられるものでも、彼女自身が掴み取ったものでも」
一拍置いて、やや軽い口調に変わる。
「まぁね、仮に結婚したとしてもだよ、離婚するかもしれないしその時にようやく私の良さに気が付くかもしれない。ましてや学生同士のお付き合いなんてねぇ。早い人は数日で別れたりくっついたりするものじゃないか。そんなに悲観的になるような出来事でもないよ?」
ははは、と空を吹きぬける風のようにジルファは軽やかに笑った。
「なんにしろ、私はしばらくここに残って、今日出来なかった訓練のおさらいをしたいと思っているから、明日の仕事が済んだらよろしくね」
シャールは、頑なになっていた心がほんのちょっぴり軽くなったような気がした。
確かに自分はひどく重大なことのように受け止めていたけれど、周囲の大人たちから見たらそれほど大したことではないのかもしれない。
一服の清涼剤のように、ジルファの言葉と声が黒いもやもやを薄めてくれた。
「わかりました。あの、ほんとにごめんなさい。僕、皆に迷惑を掛けていますね」
見上げた瞳に、先程までの陰りはなくて。全てが解消されたわけではないけれど、これからまた己の中でよく考えて折り合いを付けられるだけの光明は見出せそうだった。
「遠慮しないで、落ち込みそうなときはきみからも私を呼んでごらん。何しろ暇人だからね、いつでも駆けつけるよ」
ひらひらと手を振って、身幅だけ開いた戸口をすり抜けるように青年は出て行った。
ふう、と溜め息をついて、それから何かを考えるゆとりもなく今度はスティールが手盆で木の椀と水の入った焼き物のカップを持って、器用に足で扉を開けて入ってきた。
「えへへー、はしたなくて失礼」
照れ笑いをしながら、でも両手が塞がってるから仕方ないよね、と自己弁護している。
はい、どうぞと差し出された椀を受け取る。両の手の平がほんわりと温かい。
スティールはテーブルにカップを置くと、またベッドの縁に腰掛けて窓の外に目を遣った。
月は中天に差し掛かっている。
明日の授業は辛いだろうなと思った。更に、与えられた課題には手もつけていない。ズル休みしたい衝動に駆られるが、そんなことは母が許してくれないだろう。現実は厳しいのだ。
勿論こうしている今も現実に違いないのだけれど、少女の暮らしは〈狭間〉が基盤であり、どうしても〈銀〉にいる間は物語の中の登場人物になっているような気がしてならないのだ。
具の少ないスープを啜りながら、シャールは唇を尖らせている少女を眺めていた。不思議なもので、胃が満たされていくと気持ちも和いで行く。
隣接している界は、太陽と月も共有している。時間軸は異なることもあるが、今は少なくとも〈銀〉と〈狭間〉は同じ時を刻んでいた。
「明日……ていうか、今日になるけど、学校大丈夫なの?」
飲み終えて空になった椀をテーブルに置いて、シャールは尋ねた。
平静の口調に戻ったのを感じて、スティールは嬉しくなる。
「居眠りしないようにがんばるよー。シャールが寝ている間にね、一応大急ぎで界渡りして、河原から家に電話だけはしてきたの。シャールが急病で倒れたから、意識が戻るまではついているからって。だから、もう少ししたら帰るね」
「うん。こんな時間まで残ってくれてありがとう」
うっすらと微笑を浮かべるシャールを見て、うずうずと抱きつきたい衝動に駆られ……スティールは必死に耐えた。
代わりに、ううん、と首を振り、布団の上のシャールの両手を握った。
「忘れないで、シャール。あたしはいつでもあなたの事心配してる。界を隔てていても、何かあったらすぐに駆けつけるし、傍にいるから。生活は一緒に出来なくても、いつでも会えるよ。そうでしょ?」
もっともあたし一人だと界渡り出来ないんだけどね~と困ったように笑いながら。緊急時ゆえ、先程は特別にリルフィに繋いでもらったのだ。
「ねえシャール。あたしにはまだ本当の恋愛が解らない。だから、シャールがあたしに求めているものがどんな感情なのかも理解できないけど……そしてこれから先に同じ気持ちを抱けるかも判らないよ。それでも、十年間一緒に暮らした事実とその間に育まれた愛情は確かに今ここに……あたしの中にもシャールの中にもあるよね……」
少女らしい言葉にシャールは苦笑する。
(求めていたものは、永遠に得られないとしても。
僕が幸せだった頃の確かな記憶と変わらない愛がここにあるのだと、こうしてずっとずっと伝えていてくれたのに。
僕がきみにあげたかったものは、もうずっと前からきみの中にあったというのに)
「僕はただきみに幸せになって欲しいだけなのに」
「あたしはシャールが居てくれて、ずっと幸せだったよ? そして今も」
「僕が傍で幸せにしたかったのに」
「誰の力でもなく、あたし自身があたしを幸せにする。だからシャールも、自分をまず幸せにして」
(僕の幸せは……きみの傍でなくても見つかるんだろうか)
『幸せになってくれたら、それでいいと思う』
(ジルファさんのように、そう言い切れるときが、いつか来るんだろうか)
皆一緒に幸せになれるなら、世界はどんなにか優しいものになるだろう。
誰かの願いが叶えば、誰かの願いは叶えられない。
(そんな理を知っていて、嫌になるくらい思い知って、それでも僕はまだ諦められなくて、あがき続けるかもしれない。これからも)
それでもそんな自分を丸ごと包み込んでくれる相手がいることは、それだけで幸せなことなんじゃないかと思う。
「シャール、泣いているの?」
瞬きした瞬間に、生温かいものがシャールの頬を伝った。
「ごめんね、シャール」
スティールの方こそ大きな琥珀の瞳から涙を溢れさせて。
「謝るのは僕の方なのに……」
流れる涙が、心の中のもやもやとわだかまりを融かしていく。
そろそろ帰りましょうとリルフィが呼びにくるまで、二人は手を取り合ったまま静かに涙を流していた。見詰め合ったまま。
ゆるりと目蓋を持ち上げると、見慣れた木目の天井が視界いっぱいに広がっていた。相当遅い時刻なのか、室内も窓の外も暗い。ただ、ベッドサイドのテーブルに置かれたランタンの仄暗い灯火と、窓から差し込む薄い月光だけが光源となり、ここがシャールの間借りしている自室であると知らせていた。
全てが夢の中の出来事であったかのように、記憶は曖昧だった。
しかし、一番思い出したくないことだけは、はっきりと憶えていて、その事実だけが胸をえぐりきりきりと痛む。
一番無くしたくないものを奪われた痛み。
(スティールがずっと僕を呼んでいた。
もう、僕なんて要らないくせに。どうしてそんなに必死な顔で呼ぶの?
捨てるなら、どうしてそんな哀しそうな辛そうな顔をするの?
皆、あの後どうしたのかな、流石にもう帰ったかな。どうやら丸一日過ぎてしまったらしいし……)
体を起こそうとしてようやく、左手に温もりがあることに気付いた。視線を送ると、床に座り込んだ紅茶色の髪の少女がシャールの手を握ったまま浅い寝息を立てていた。
「どうして……」
掠れた声が漏れた。
「ん……シャール? 目が覚めたの?」
眠りが浅かったのか、すぐに少女が応じた。顔を上げて、自分の手をシャールの額に当てて、熱がないことを確認する。
「良かった~。身動き一つしないでずっと気を失っているから、どうしようかと思っちゃった。運んでくれたのはジルファさんだよ。後でシャールからもお礼を言ってね?」
心から嬉しそうに笑うから、つられて少し唇の端が持ち上がってしまう。
「ジルファさんに会ったらびっくりするよ~! 今ね元の姿に戻っているから。あ、言わないでびっくりさせたら良かった! 失敗失敗」
えへへ、と照れ笑いして。
(あの時、僕のことを怖いと思ったでしょ?
どうしてそんな、何もなかったみたいに笑うの?)
「……どうして帰らなかったの」
月の位置からして、深夜より少し手前くらいだろう。
こんなに遅くまで家に帰らずにここにいたのは勿論あの時以来で。所謂無断外泊になってしまうのではないだろうか。
心配してしまう自分も自分で。
もう他の男性のものになってしまった少女のことなど、心配したくないと思うのに。
「あんな状態のシャールを放っていけるわけがないでしょ」
半ば憤然とスティールは答えた。
ねぇ、今ならちゃんと聴いてくれる? あたしの話。
曇りのないまっすぐな瞳で見つめられて、シャールは目で頷いてから体を起こした。重くてけだるいので、クッションを背に当ててベッドの頭に凭れ掛かり話を聴く体勢を整えた。
それを確認して、スティールはベッドに腰掛けてシャールと目の高さを合わせた。
「あのね、あたしは確かにローレンスとお付き合いすることにしたけど、だからってどうしてシャールをないがしろにしたりすると思うの? 前にシャールが言ってくれたね、一緒に暮らそうって。あたしは、即答できなかったし、今でもそれに対しては出来るとも出来ないとも返事が出来ないよ。
逆に……もしも、もしもだけど、そんなこと言わないだろうけど、、ローレンスに今そう言われてもあたしには返事が出来ないよ。
だから、誰か一人だけ選んで大事にして他の人のことはもう捨ててしまうとか、そういうことじゃないんだよ。
犬の姿のときもそうだったじゃない。学校ではスティングや他の友達と遊んで、キャンプで何日も家を空けるときもあったし、そんなときもシャールはずっと家で待っていてくれたよね。
あたしには、お父さんもお母さんもそしてシャールも……皆大切な家族なの。他の誰とも比べられないの。だから、そのことだけは、絶対に忘れないで。
シャールのお母さんが命がけでシャールを護ったみたいに、あたしもシャールを護るよ。だって……こんなに愛しているから」
シャールの胸の奥がじわりと熱を帯びていく。
目の前の少女は目を潤ませながら、切々と語っていてその内容はこの上もなく暖かくて。
(それでもまだ、どうして胸が苦しくて痛いの?)
「あは、なんか他に上手い言葉が見つからないや。何度でも言うよ、あたしはシャールが好き。誰とも比べられないし、比べたくなんかない」
今度こそ本当に伝わっていて欲しいと願いながら、指先で眦を押さえてスティールはシャールの表情を窺った。
「ありがとう」
今はそれしか言えない。
今はそうやって自分を納得させるしかないのかもしれない。
もやもやはずっと胸の奥でわだかまっていて、ふとした拍子にまた表面に出て来てしまうだろう。けれどもそれは解消されることのない不満なのだ、きっと。
スティールの方もシャールにきちんと伝わったとは思えていないようで、不安げに柳眉を寄せた。でももういくら探しても、自分の中にはこれ以上の言葉が見つからない。
うん、と気持ちを切り替えるようにスティールは両手でぱしんと膝を叩いて立ち上がった。
「お腹、空いたよね? 晩御飯のスープ温めなおしてくるね」
木の扉を開けると、スティールは足音を忍ばせて出て行ってしまった。
しばらく閉じたままの扉を見つめていると、またゆっくりと内側に開いた。
「失礼するよ」
冴え冴えとした冷たい月光を、きらきらと暖かい光に変えて、長身の青年が入ってきた。ゆとりのあるシャーリングの入った純白の上下の衣に、金と赤の刺繍が入った腰布を巻いた男性は、一目でジルファであると判明して、シャールはのろのろと頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました」
言葉ほどには謝罪の心がない声だったが、ジルファはまるで気にしていない様子で笑みを浮かべて近寄ってきた。
「調子はどうだい?」
「だるいけど……他は別に」
普段よりも言葉少なに、そして口調も固くなっている。自分でも判っていたけれど、愛想笑いも出来なかったし、したいと思わなかった。
あれほどまでに笑みを絶やさずここまでがんばり続けてきた少年の変わりように、ジルファも胸を突かれた。〈銀の界〉を崩壊から救った時、あの虹の下でスティールと抱き合って泣いて、それ以降はまた涙も苦しい顔も見せなかったシャールが、今日のあの言葉だけでどうしてこうも変貌してしまったのか。
いや、勿論ここまでくるにはいろいろと段階があったはずで、それは少女との会話の端々に出てきた二人だけの邂逅の場で積み重ねられてきたのだろう。
ここまで頑なな態度を取られると、本当は少しショックで。それでも今のスティールの内心を思い遣ると己の出来る事はしなければと、ベッド脇に立ったままジルファは毅然とシャールを見下ろした。
「きみはスティールが好きなんじゃなかったのかい?」
どういう意図か図りかねて、唇を引き結んだままシャールは青年を見上げた。まっすぐな金糸の髪が闇の中に輝く。それ自体が光源であるかのように。
「少なくとも〈狭間〉からこちらに移って来た時のきみは、あの娘の幸せを願って、自分の危険を顧みずに生きていた。そしてあの娘も、自分のあれこれなど全て放り出して、きみに会う為だけにここにやってきた。けれど」
眼光が鋭く少年を射抜いた。
「今のきみは、あの娘の気持ちなどまるでお構いなしだ。自分だけを見て欲しい、傍にいて欲しい、そうでないならば壊れてしまってもいい」
意識を手放すのがあとわずかでも遅かったならば、シャールがスティールに手を掛けようとしていたことを〈金の界〉の青年は気付いていたのだ。
「そうしたらきみは、間違いなく父王の後を追っていただろう」
きみは再びあの娘の命を奪うつもりだったのかい? と。それは言葉にはせずに、瞳で告げる。
第二王子の手に落ち意識を操られて少女に剣を突き刺した、その時のことを思い出すが良い、と。
本当ならば、少女はもうここには存在していないのだ。最大の禁じ手になるのを承知で、「ここにいる筈のない者だから、本来の場所で生きていても良いだろう」と小理屈を捏ねて無理矢理再生させた。ここがまた異界であっても、二度と同じことは出来ない。
「あの娘は、本当にきみのことを心から案じている。きみの母親のように。それは無償の愛情だ。ねぇシャール、同じだと思わないかい? お母さんは、〈銀の君〉を愛していたけれど、その愛するものを切り捨てて自分の命を捨てても、きみの安全を優先した。そして最後には二人で旅立って行った。きみはあの時に、お母さんを恨んだりはしなかったはずだ」
「あの時と……今は違います。母とスティールも全然違います」
シャールは、ぎゅうっと掛け布を握り締め、強引に視線を外してその手を見つめた。
「僕は……それでもやはり、僕の傍に居ないことがこんなにも辛いなんて、思っていなくて。もう以前の僕には戻れない」
「そうかい」
ジルファは、ふーっと大きく息を吐いた。ゆっくりと瞬きしてシャールから視線を外してここではない何処かを見つめる眼差しになる。
「私事だけれどね、私は、そりゃあリルフィに好かれたいと思っているよ? けれど、私が彼女を好きだという事さえ伝わっていれば後は運を天に任せる気持ちだね。
彼女が私を好きになれば最高だ。だけど他の誰かと結婚したりしても、それで私が彼女を思う気持ちに変わりはない。幸せになってくれたら、それでいいと思う。それが私の手ではなくて、他の誰かの手で与えられるものでも、彼女自身が掴み取ったものでも」
一拍置いて、やや軽い口調に変わる。
「まぁね、仮に結婚したとしてもだよ、離婚するかもしれないしその時にようやく私の良さに気が付くかもしれない。ましてや学生同士のお付き合いなんてねぇ。早い人は数日で別れたりくっついたりするものじゃないか。そんなに悲観的になるような出来事でもないよ?」
ははは、と空を吹きぬける風のようにジルファは軽やかに笑った。
「なんにしろ、私はしばらくここに残って、今日出来なかった訓練のおさらいをしたいと思っているから、明日の仕事が済んだらよろしくね」
シャールは、頑なになっていた心がほんのちょっぴり軽くなったような気がした。
確かに自分はひどく重大なことのように受け止めていたけれど、周囲の大人たちから見たらそれほど大したことではないのかもしれない。
一服の清涼剤のように、ジルファの言葉と声が黒いもやもやを薄めてくれた。
「わかりました。あの、ほんとにごめんなさい。僕、皆に迷惑を掛けていますね」
見上げた瞳に、先程までの陰りはなくて。全てが解消されたわけではないけれど、これからまた己の中でよく考えて折り合いを付けられるだけの光明は見出せそうだった。
「遠慮しないで、落ち込みそうなときはきみからも私を呼んでごらん。何しろ暇人だからね、いつでも駆けつけるよ」
ひらひらと手を振って、身幅だけ開いた戸口をすり抜けるように青年は出て行った。
ふう、と溜め息をついて、それから何かを考えるゆとりもなく今度はスティールが手盆で木の椀と水の入った焼き物のカップを持って、器用に足で扉を開けて入ってきた。
「えへへー、はしたなくて失礼」
照れ笑いをしながら、でも両手が塞がってるから仕方ないよね、と自己弁護している。
はい、どうぞと差し出された椀を受け取る。両の手の平がほんわりと温かい。
スティールはテーブルにカップを置くと、またベッドの縁に腰掛けて窓の外に目を遣った。
月は中天に差し掛かっている。
明日の授業は辛いだろうなと思った。更に、与えられた課題には手もつけていない。ズル休みしたい衝動に駆られるが、そんなことは母が許してくれないだろう。現実は厳しいのだ。
勿論こうしている今も現実に違いないのだけれど、少女の暮らしは〈狭間〉が基盤であり、どうしても〈銀〉にいる間は物語の中の登場人物になっているような気がしてならないのだ。
具の少ないスープを啜りながら、シャールは唇を尖らせている少女を眺めていた。不思議なもので、胃が満たされていくと気持ちも和いで行く。
隣接している界は、太陽と月も共有している。時間軸は異なることもあるが、今は少なくとも〈銀〉と〈狭間〉は同じ時を刻んでいた。
「明日……ていうか、今日になるけど、学校大丈夫なの?」
飲み終えて空になった椀をテーブルに置いて、シャールは尋ねた。
平静の口調に戻ったのを感じて、スティールは嬉しくなる。
「居眠りしないようにがんばるよー。シャールが寝ている間にね、一応大急ぎで界渡りして、河原から家に電話だけはしてきたの。シャールが急病で倒れたから、意識が戻るまではついているからって。だから、もう少ししたら帰るね」
「うん。こんな時間まで残ってくれてありがとう」
うっすらと微笑を浮かべるシャールを見て、うずうずと抱きつきたい衝動に駆られ……スティールは必死に耐えた。
代わりに、ううん、と首を振り、布団の上のシャールの両手を握った。
「忘れないで、シャール。あたしはいつでもあなたの事心配してる。界を隔てていても、何かあったらすぐに駆けつけるし、傍にいるから。生活は一緒に出来なくても、いつでも会えるよ。そうでしょ?」
もっともあたし一人だと界渡り出来ないんだけどね~と困ったように笑いながら。緊急時ゆえ、先程は特別にリルフィに繋いでもらったのだ。
「ねえシャール。あたしにはまだ本当の恋愛が解らない。だから、シャールがあたしに求めているものがどんな感情なのかも理解できないけど……そしてこれから先に同じ気持ちを抱けるかも判らないよ。それでも、十年間一緒に暮らした事実とその間に育まれた愛情は確かに今ここに……あたしの中にもシャールの中にもあるよね……」
少女らしい言葉にシャールは苦笑する。
(求めていたものは、永遠に得られないとしても。
僕が幸せだった頃の確かな記憶と変わらない愛がここにあるのだと、こうしてずっとずっと伝えていてくれたのに。
僕がきみにあげたかったものは、もうずっと前からきみの中にあったというのに)
「僕はただきみに幸せになって欲しいだけなのに」
「あたしはシャールが居てくれて、ずっと幸せだったよ? そして今も」
「僕が傍で幸せにしたかったのに」
「誰の力でもなく、あたし自身があたしを幸せにする。だからシャールも、自分をまず幸せにして」
(僕の幸せは……きみの傍でなくても見つかるんだろうか)
『幸せになってくれたら、それでいいと思う』
(ジルファさんのように、そう言い切れるときが、いつか来るんだろうか)
皆一緒に幸せになれるなら、世界はどんなにか優しいものになるだろう。
誰かの願いが叶えば、誰かの願いは叶えられない。
(そんな理を知っていて、嫌になるくらい思い知って、それでも僕はまだ諦められなくて、あがき続けるかもしれない。これからも)
それでもそんな自分を丸ごと包み込んでくれる相手がいることは、それだけで幸せなことなんじゃないかと思う。
「シャール、泣いているの?」
瞬きした瞬間に、生温かいものがシャールの頬を伝った。
「ごめんね、シャール」
スティールの方こそ大きな琥珀の瞳から涙を溢れさせて。
「謝るのは僕の方なのに……」
流れる涙が、心の中のもやもやとわだかまりを融かしていく。
そろそろ帰りましょうとリルフィが呼びにくるまで、二人は手を取り合ったまま静かに涙を流していた。見詰め合ったまま。
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