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第十一話

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梨本樹里の父親はクズである。彼こそ、樹里ちゃんが家出をした原因であると俺は考えている。

では、樹里ちゃんの母親はどうか。幼い頃の記憶では、彼女の母親は彼女をそのまま大人にしたような容姿をしており、遊びに来た俺にも親切に接してくれた、理想の母親であった。

樹里ちゃんにはいつまでも居候していてもらって構わないとは言ったが、この状況が最適とは言い難い。やっぱり、樹里ちゃんは親と仲直りをして帰るべきなのだと思う。

しかし俺が梨本家の問題に干渉するわけにはいかない。梨本家の問題は梨本家の問題だ。だが、彼女の母親を通じて話し合いの場を設けることはできるはずだ。

そのために俺は、樹里ちゃんの母親とコンタクトをはかる必要がある。そこまで話が進展しなかったとしても、せめて樹里ちゃんが今どこにいるのか、元気にやっているのかを知る権利くらいはあるはずだ。樹里ちゃんのことは心配しているはずなのだから。

そんな思惑の元、樹里ちゃんに直接聞くわけにもいかないので、俺は母さんに梨本家の連絡先を聞いた。少し何か考えるような間があった後、母さんは不思議そうにこう答えた。

『なんで?』

…まぁそうなるわな。最近はほとんど話題にしたことのなかった人物の連絡先を突然聞いてくるのはおかしい話だ。だからといって馬鹿正直に樹里ちゃんと生活していることを言うわけにもいかない。迷惑をかけたくないし、あぁみえて変なところで真面目な母さんだ、余計なとこまで首を突っ込んでくるに違いない。

「いや実はさ、部屋の整理してたら小さい頃の樹里ちゃんと撮った写真が出てきて。そういえば今なにしてるのかな~って気になって久々にお話ししたくてさ」

だから俺は、事前に用意していた理由をつらつらと述べる。多少強引な気もするが筋は通っているはず。

『可愛かったわねぇ、樹里ちゃん。あんたも毎日のように樹里ちゃんが~樹里ちゃんが~って話してきてたもんね。梨本さんと私でこの子達このまま結婚するんじゃ…?なんて心配してたのが懐かしいわ~』

「なっ…もう昔の話だろ!!」

過去の恥ずかしい話を掘り出され、思わず声が大きくなってしまう。慌てて樹里ちゃんを見るが、う~ん…と可愛らしく呻きながら寝返りをうっていた。良かった、起きてはいないようだ。

『ま、そういうことなら教えてあげてもいいわよ。家の電話番号でいいわよね?これを機にもう一回樹里ちゃんにアタックしてもいいのよ?あんた今彼女いないんでしょ?』

「余計なこと言うなっての。いいから教えて」

恥ずかしがる俺をけらけらと笑いながら樹里ちゃん宅の連絡先を教えてくれる母さん。紙にメモをとり、これで準備は整った。

「ふふ…貴様はもう用済みよ。さらばだ。」

『仲間を捨てる非情な敵キャラか。あ、ちょいまち陽斗』

通話を終えようとしたところで、母さんから待ったの声がかかる。

『本当に困ってるならちゃんと言うのよ?こっちは息子のために片手片足くらいなら斬り落とす覚悟は出来てるんだから』

「表現が生々しいな!…けど、…うん。ありがと、母さん」

通話を終える。最後の母さんの慈愛に満ちた意味深な発言。おそらく、こちらが嘘をついていることはバレていたのだろう。それも、大きな大きな嘘を。にも関わらず、それを指摘せず協力してくれた。本当に、母さんには頭が上がらない。

「…今度また家に顔出そうかな」

最後に実家に帰ったのは去年の夏頃。自然とそんなセリフが声となって発せられた。

そして、今の母さんとの会話でようやく踏ん切りがつく。子にとって親とは最も身近な人生の先輩。樹里ちゃんもまた、そうであるはずなのだ。

「さて…」

変に躊躇ってもいられない。すでに夜遅くなってしまっているが、メモを参考にダイヤルをプッシュする。家の電話番号なら、あの父親が対応することはまず無いだろう。1コール、2コール、3コール、4コール。

『…はい、梨本です』

疲弊しきった女性の声。あの頃の声とは程遠い。

「もしもし、夜分遅くにすみません。幼少時代に樹里ちゃんと仲良くさせていただいた佐井寺陽斗です。」

『あぁ、晴斗くん?久しぶりね…』

少し声のトーンが上がる。しかし、疲弊しているという印象は拭いきれなかった。

『あぁ、多分娘のことよね。…ごめんなさい、今あの子は–––』

「家を出てるんですよね?」

『……』

ひゅっ、と空気の抜ける音がした。なぜそのことを知っているのだと言いたげだった。困惑からか無言を貫く母親に、今の樹里ちゃんの状況を説明する。

「3日前に樹里ちゃんが家に来て、しばらくの間居候させてほしいとお願いされました。詳しくは教えてくれませんでしたが、家庭の事情で家を出たことは分かりました」

『…続けて』

「かなり切羽詰まっていた様子だったのでひとまず僕の家で預からせてもらっています。生活も落ち着いてきたので報告しようとお電話させていただきました。」

『そう。…無事、だったんだ。ありがとう…』

電話口からすすり泣くような声が聞こえてくる。3ヶ月近く所在不明であった娘の生存報告。安堵感から出たものであることは明白だった。樹里ちゃんの母親は樹里ちゃんの事を心配していたという事実に俺は少し安心していた。この人はあの父親とは違い、しっかりとしただ。

これなら、樹里ちゃんが家に戻るチャンスはあるはず。この人なら––––

『…?』

そんな俺の考えは、母親の発言によって崩れ去った。この人は何を、言っているのだろう。家を飛び出した娘が人の家で生活していることが分かった。なら、家に連れ戻したいと考えるのが普通じゃないのか。俺の考えが、楽観的すぎたのだろうか。

『…陽斗くんに迷惑をかけているのは分かってるわ。大変よね』

俺の無言を察してか、そんなことを補足する母親。違う、俺が言いたいのはそういうことじゃない。俺は樹里ちゃんを家に帰してあげたいんだ。母親のあなたも、そう考えていてほしいんだ。

『でもね、あの子は家にいない方がいいのよ。樹里自身にとっても、あの人にとっても』

あの人、とは父親のことだろう。理解できない。この人の言ってることはただの一つとして理解できない。だけど一つだけ言えることがある。血の繋がった家族に、いなくてもいいなんてメンバーはいるはずがないんだ。

樹里ちゃんが苦しんでいるのなら、家族でその苦しみを取り除いてあげるべきなんだ。

樹里ちゃんが悩んでいるのなら、家族で一緒になって悩んであげるべきなんだ。

樹里ちゃんが計画もなく家を出ると言ったら、家族が馬鹿なことをするのはやめろと叱るべきなんだ。

それが、家族というものなんじゃないのか。娘が誤った道に進もうとしているのなら、声を荒げて止めるのが親なんじゃないのか。少なくとも俺の家庭はそうだった。それが、電話口の相手はどうだ?

「…樹里ちゃんは口では帰りたくないの一点張りかもしれませんが、心のどこかではお母さん方のことを想っているはずなんです!家に帰りたいと、思ってるはずなんです!だから…」

『…ねぇ陽斗くん。あの子が来てからの3日間、笑顔を見たことはある?』

俺の訴えを遮るように母親が言った。樹里ちゃんの笑顔なら山ほど見た。

泣き出しそうな笑顔、顔をくしゃっとさせた、何年経っても変わらない笑顔、小悪魔のような笑顔、照れ隠しなのか、少し頬を膨らませた不満げな笑顔、百点満点の、ひまわりのような笑顔。今まで見てきた樹里ちゃんの笑顔が次々と頭に思い浮かぶ。彼女の笑顔を見ると何故か元気になれた。 

「…あります。何度も何度も」

『そう。私はね、陽斗くん。ここ2年くらいかしら、あの子の笑顔を見ていないの』

「そんな…」

『一緒に暮らしてたのになぜかしらね。分かったでしょう?あの子は家にいない方が幸せなのよ。…今のこの状況がベストなの』

話は終わり、と言いたげな様子の母親。諦められない。諦めきれない。笑顔なら、これから見せていけばいい。樹里ちゃんを家に連れ戻さなければ、その笑顔を見れるはずもない。

「…樹里ちゃんが父親と険悪なのは分かっています。それが原因で家を出ていることも。けど、それなら、だからこそ、お母さん自身が仲介役となって2人の関係を修復するべきなんじゃないですか?それが正しい、家族の在り方じゃないんですか?」

偉そうな事を言っているのは百も承知だ。けれど、それで母親が考え直してくれるなら。

『…ふふ、家族、家族ねぇ。そんな理想の家族でいられたらどれほど良かったかしら。けどね、陽斗くん。あなたは勘違いしているわ』

母親が言う。いつのまにか声色はあの頃の樹里ちゃんのお母さんの、優しいものに戻っていた。

『確かにあの人は樹里にきつく当たってるわ。それがあの子を傷つけていることも。それは事実。けどね、なのよ。』

「…え?」

『私があの子に戻ってこいなんて言う資格はないの。…娘の口座にお金を入れてる。少ないけど困ったら使って。これくらいの援助しか、できないけど』

「ま、待ってくださいお母さん!」

『陽斗くん。あなたは優しい子よ。けれど、あの子側の視点でしか物事を考えていない。あの子はもう、3回のチャンスを棒に振ってるの』

3回のチャンス。大学受験のことだろう。なら、4回目のチャンスを与えてあげればいいんだ。樹里ちゃんが望む限り、諦めない限り。

『他の同年代の子とはすでに3年間の差がある。その差が、社会に出ると大きな障壁になる。私とあの人はそこまで考えて娘と接していた。あの子は今しか見てないの。あの子は大学を合格することにしか重きを置いてない』

俺が大学を卒業する頃、樹里ちゃんは大学1年生にすらなれていないのかもしれない。俺が社会に出ても、樹里ちゃんはまだ大学生かもしれない。…それでも、すれ違いが起きているのなら双方が納得するまで話し合いをすればいい。

「…そのことについて、樹里ちゃんと話し合わなかったんですか?」

『したわ。したに決まってるでしょ。二浪した時点で、今回がラストチャンスだと言い聞かせてきたわ。結果、チャンスをモノに出来なかった。それであの子はどうしたと思う?…逃げたのよ、私たちから。今年も受験はすると言い残してね』

言葉が出なかった。樹里ちゃんが正義で、親が悪だと信じて疑わなかった。ほんの少しだけ、その考えが揺らいだ。この3日で樹里ちゃんの事を知った気になっていた。

『…今の発言は少し意地悪だったわね。娘のこと、頼んだわよ。陽斗くんなら安心して預けられる』

一方的に電話が切られる。かけ直す気力は、今の俺にはない。

「…くそ!」

怒りのあまり壁を思い切り殴る。何が安心して樹里を預けられる、だ。こんな状況で母親が吐くセリフとは到底思えない。結局話は全くとして進まなかった。母さんと通話をし、母親としての息子に対する思いを聞いていたから、余計に樹里ちゃんの母親への怒りが募っていった。

「…んん?はるとぉ?」

音で目が覚めたのか樹里ちゃんがくりくりと目を擦りながら身体を起こす。今の俺の表情を樹里ちゃんに見られるわけにはいかない。

「あぁ、ごめん樹里ちゃん、起こしちゃった?」

努めて平静に、なんでもないように振る舞う。今の会話を樹里ちゃんに聞かせたくない。  

「んんん大丈夫ぅ…。…すぅ…すぅ…」

上半身を起こしたままの体勢で樹里ちゃんが穏やかな寝息を立てていた。そんな彼女を見て少し和み、心が楽になった。

樹里ちゃんは、家庭の環境が嫌で家を飛び出したと言っていた。親は、チャンスを生かせず逃げたと言っていた。どちらが正しいのか、どちらも正しいのか。

「俺…知りたいよ。樹里ちゃんのこと。君が何を経験して、何を感じて、何を思って俺の家に来たのかを、もっともっと…」

けれど、俺の考えは徹頭徹尾変わらない。どちらが正しいなんて関係ない。俺は樹里ちゃんの味方で、樹里ちゃんを信じる。

「…っぶな」

樹里ちゃんがこてん、と後ろに倒れそうになるのを慌てて首に腕を差し込んで食い止める。ゆっくりと彼女を布団に下ろし、腕を引き抜こうとしたところで、樹里ちゃんにその腕をぎゅっと掴まれた。

「…ふふっ、あったかぁい」

そのまま俺の腕を枕代わりにしてしまう樹里ちゃん。

「…樹里ちゃん。今、幸せ?」

起きているか寝ているか分からない。けれどどうしても聞きたかった。聞かずにはいられなかった。数秒静寂が続いた。

「…うん。けどほんのちょっとだけ寂しい…」

寝言半分のようだったが、そんな声が返ってくる。キュッと胸が締め付けられた。

心を許してくれている樹里ちゃんだが、俺は彼女の親代わりにはなれない。彼女の親は世界中で2人しかいないのだから。その寂しさを埋められるのは、世界どこを探しても、2人しかいないのだから。絶対に諦めたくない。なんとかして、彼女が家に帰れるよう手筈を整えてあげたい。今は難しいかもしれないが、いつかは。

そして今、新たな問題が俺に降りかかってきていた。

「…俺、どうやって寝よう」

樹里ちゃんに腕をロックされているため身動きが取れずベッドに行くことができない。無理やり引き抜こうにも幸せそうな寝顔の樹里ちゃんを起こしたくない。…仕方ない。このまま寝るか。
  
…そういえば、さっきの樹里ちゃんのスマホにかかってきた電話は誰からだったんだろう。母親からかと思っていたが、あの様子だとそうとは思えない。……いけない、眠くなってきた。
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