ある平凡な姉の日常

本谷紺

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春、二の月

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 冬の終わりに起きた精霊落としの現場は、私の暮らす王都から少し離れている。
 まずは調査員揃って最寄りの村まで移動し、そこから森へ入ることになる。
 早朝、他の学生たちが登校してくる前に、学院に集合。荷物の確認をして、二台の馬車に別れて乗り込む。ティニリッジ研究室の学生五名の馬車と、先生二人と私の馬車と。
 ……そう。オズ先生の担当生徒は私だけだ。
 最近まで、私が顔を合わせていないだけかと思っていたのだけれど、実際には私以外誰もいないらしい。
 聞いたところでは、去年は一人も担当しなかったというのだから驚きだ。
 生徒から怖がられているから……というのもなくはないだろうけれど、それ以前に、空間魔法を扱える生徒が滅多に現れないというのは大きいだろう。数ある魔法の中でも特に使い手を選ぶ分野だから仕方がない。
 とはいえ、扱いの難しさで言えば、古代魔法はそれ以上のはずなのだけれど。
「いやぁ、悪いなぁ、おじさんたちと相乗りさせてしまって」
 ティニリッジ先生が快活に笑いながら言う。
「女性用の馬車も用意できればよかったんだが、今回は君一人だからねぇ。しばらく我慢してくれよ」
「そんな、とんでもない。お気遣いありがとうございます」
 荷運びのための幌馬車なので座席というものはない。荷物の間に紛れるように、薄いクッションを置いた上に座っている。
 ティニリッジ先生と直接会話するのは今回が初めてになる。さほど大柄ではないけれど、たくましさのある男性で、魔道士には珍しい活動的な空気を放っている。すぐ傍に座っているオズ先生と比べると違いが顕著だ。研究履歴を見るにオズ先生とさほど年齢は変わらないはずだけれど、顔立ちも相まってか、実際よりも若く見える。
「うちの学生も悪い子たちじゃないから、仲良くしてやってくれ」
「はい、こちらこそ」
 担当教員の贔屓目というわけでもなく、事実そうなのだろう。集合場所で一人異質な存在であった私に、好奇の視線は感じたけれど、覚悟していたような邪険にされる気配はなかった。
 しかし、と先生は続ける。
「本当に大丈夫なのか、この調査」
「何がです?」
「この移動もだし、泊まる宿だって、決して良い環境とは言えないから。
 正直に言えば、何年かに一人は最初の調査で音を上げて転室する子がいるんだよ」
 二泊三日、どういった日程になるのか、どんな場所で何をするのか、一通りの説明をオズ先生から事前に受けていた。
 ティニリッジ先生の懸念も分かる。貴族に生まれ育った人間には過酷な数日になる。
 しかし幸いながら、私には特に苦にならないことだ。
「こう見えて旅には慣れておりますの。屋外に天幕を張って一夜を明かしたこともありますわ」
「へぇ、意外だなぁ!」
「私のことはどうか心配なさらず、他の学生たちと同じように使ってください」
「はは、そうさせてもらうよ。
 まああれだな、明日の夜にはあの二人も来ることだし、俺が心配することはないか」
 先生はてらいのない明るさで言うけれど、私は恥ずかしさに俯いてしまう。
 そう。そうなのだ。
 授業があるからと諦めさせたはずだった二人が、結局参加することになった。
 今日と明日は授業があるので、明日の授業が終わってから家の馬車で合流するという。調査に参加、という名目ではあるけれど、近くまで来る頃には日も暮れているだろうから、できることはさほども残っていないだろう。私が心配で一夜だけでも付き添うために飛んで来ることは誰の目にも明らかだ。分かっていて許可をくれた先生たちは心が広い。
 せめて厄介事にはならないよう、私がちゃんと気を付けなければ。守られるのだか何だか分かりやしない。
 それからいくつか言葉を交わし、自然と会話は途切れた。オズ先生が何も言わないので、ティニリッジ先生が荷箱にもたれて休む姿勢に移れば、あとはもう沈黙があるだけ。
 もう一台の馬車はどうだろうか。男子五名の旅路で盛り上がっているかもしれない。
 いつもより朝が早かったので少し眠気がある。私も座ったまま目を瞑り、しばしの休息を取ることにした。


 ガタガタと振動。
 馬車に揺られている。
 お父様が見てごらんと外を指さす。
 遠く、山裾に、白い湯気がもうもうと立ち昇っている。
 私は驚いて、あれは何ですか、と尋ねた。
 お湯だよ。お父様が答える。
 泉のように、自然にお湯が沸いて出ている風呂があるんだ。温泉というんだよ。私も入ったことがないから楽しみだ。
 お父様と一緒に旅行に出かけるのは好きだった。
 色々なところへ行った。色々なものを見て、色々な体験をした。
 歴史ある神殿。途方もない大きさの大樹。高名な魔道士が終の棲家とした渓谷。魔力を含んだ温泉。
 お父様は、旅行だとしか言わないけれど、私は文献で知っていた。
 どれもこれも、魔導士に更なる魔力を与えると言われるものばかり。
 魔力を持たない私のために、お父様はあらゆる手を尽くしてくれる。
 旅は楽しい。
 悲しいのは、どこへ行ったって何をしたって、私の中に魔力が満ちることはないという事実。
 ごめんなさい、お父様。バーウィッチの長女たるに足りない私でごめんなさい。
 どうか私に気を揉まないで。
 私は大丈夫だから。魔法が使えなくても生きていけるよう、頑張るから。
 ガタガタ、体は揺られる――。


「バーウィッチ」
 ――目を開けた時、そこにいるのはお父様ではなかった。
 オズ先生。
 数度瞬きをしてから思い出す。そうだ、私は今から調査に行くところ。
 振動の中でうたた寝をしたことで、懐かしい記憶が思い出されたようだ。
 オズ先生は、彼が座っていた場所から私の方へ身を乗り出すようにして膝をついている。ティニリッジ先生がほとんど横になって眠っているのが見える。
「すみません、眠ってしまったようです」
「それは構わないが……うなされていたぞ」
「えっ」
 思わず自分の頬に手を当てる。眠っている間の自分のことなど分かり得ないけれど、変なところを見せてしまったようで恥ずかしい。
 適切な言葉も見つけられず、もう一度「すみません」を繰り返すと、自分の席へと座り直す。
「じきに着くはずだ」
「はい……」
「……」
 しばしの沈黙があった。ガタゴトともはや耳に馴染んだ音に満たされた後で、ぽつりと先生が言った。
「……君の座学の成績は知っている。力仕事はともかく、その知識を借りることもあるかもしれない。寝ぼけた頭で参加しないよう、今のうちに休んでおくように」
 今朝からの数時間の間で、一番オズ先生の声を聞いた気がする。
 言葉の内容をすぐには咀嚼できなくて、そんなことをまず思う。
 ……もしかして、もしかしなくても、気遣われているのだろうか。
 思わずまじまじと先生の顔を見ていると目が合った。ただでさえ常に不機嫌そうな顔が、さらにむっすりと顰められているように見える。
 この一か月、何度顔を合わせてもオズ先生と対面するのは緊張が伴った。それが少し解れたのを感じる。
 悪い人ではない、程度の理解しかなかった。私は自分で思っていた以上に先生のことを理解できていなかったのではないだろうか。
 体の感じる振動は夢の記憶と大差ないけれど、目覚めた時に心に残っていたあの頃の気持ちは、新鮮な驚きに霧散してしまった。私は自覚していたよりも単純な人間なのかもしれない。
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