殖罪

本谷紺

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ノア

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 昔々のこと。
 当時はまだ農民がまばらに住むばかりの田舎であったこの土地の、山の中腹に、不思議な池があった。
 日照りの夏にも凍える冬にも、年中豊かな水を湛えるその池には、神が棲むと言われていた。
 さて、ある年のこと。
 その年は雨がとんと降らなかった。田畑は渇いて作物が育たず、ふもとの村では農民たちが飢えと渇きに苦しんでいた。
 どうにか雨を呼べないだろうか。
 話し合いの末、村人たちは、池の神に生贄を捧げることに決めた。
 生贄となったのは幼い少女だった。
 少女が池に沈んだ後。願い叶って、久方ぶりとなる雨が降った。
 雨は数日の間続き、乾ききった大地を存分に潤した。

 村人たちは救われた、かに思われた。

 それ以降、近隣の村々で、奇妙な出来事が起きるようになった。
 夜、眠っている間に夢を見るようになった。
 恐ろしい夢だ。暗い水中に沈んでいる。そうして目の前には幼い少女の亡骸が、恨めし気に己を見つめているのだ。
 誰も彼もが悪夢に魘された。
 皆、思った。生贄にされた少女の怨霊が、人々を祟っているのだと。
 困り果てた村人は、怨霊を鎮める術を授かるべく、高名な僧侶のもとを訪ねた。

 僧侶曰く。少女の霊は、池の底に繋ぎ止められている。
 少女が怨霊となり果てたのは、それが何の罪もない魂であったからだ。
 少女の代わりとなる新たな贄として、罪人の魂を捧げることで、憐れな少女は解放されるだろう。

 付近の村に、火付けをした大罪人が捕らえられていた。
 その罪人が新たな贄として池に捧げられ、それきりぱったりと、人々が悪夢に悩まされることはなくなったという。

 以来、池は代ヶ池と呼ばれるようになった。



 ――「K市風土記」に記された言い伝えを、ノアはかいつまんで読み上げた。

「あの夢を見た時、僕はこの記録を思い出しました。
 僕たちが置かれたこの不可解な状況や、二階から繋がるあの池……全てに、強い霊力がはたらいています」
「でもそれ、おかしくない?」

 照永が口を挟む。

「その話だと、池のユーレイは成仏したんじゃないの?」
「そこは分かりません。しかし、僕が聞いたように、近隣で霊障も目撃されています。何らかの理由で池に悪霊が生じてしまったのかも」
「だったらよぉ」

 ソファカバーを纏ったまま、硯がぼそりと言う。

「これが、その昔話とおんなじ祟りだって言うなら……」

 言葉は途切れた。
 その後に、どんな言葉が続くべきなのか。ノアには分かっている。彼だけでなく、この場にいる全員が、同じことを思い浮かべているのは明らかだった。

 憐れな少女の魂は、罪人を捧げることで解放されたという。
 ならば、この異常な状況を打破するためには、同じことをすればいいのではないか。

 罪人の魂を捧げること。

 夢の中で聞いた声を思い出す。

 さむい。
 くらい。
 さみしい。
 ねぇ。おねがい。
 わたし、てんごくにいきたい。
 たすけて。

「――結論を急ぐのはやめましょう」

 硬直した空気を解くべく、ノアは努めて落ち着いた声を出した。

「まずは探索を続けるべきです。僕たちにはまだ情報が足りていませんし、僕自身、霊の望みをちゃんと聞き取れていないんです。
 みんなで無事に脱出できるよう、今は最善手を探しましょう」

 一同は互いの顔色を窺いながら、それでもそれぞれに頷く。
 誰かを犠牲にすれば解決するかもしれない。その可能性を意識しているのは間違いなかった。
 異常事態において、蹴落とし合うのは危険なことだ。
 だからこそノアは、決して感情に流されない落ち着いた人物としてリーダーシップをとる必要があった。
 万一の時、贄として選ばれないよう、疑われてはいけない。
 暴かれてはいけない。


 自分が霊能者などでないことは、決して知られてはいけないのだ。
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