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7・海の底で見る雪は_2
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月野深色は、いつも笑みを絶やさずに患者に優しく接する、看護師の鑑のような人だった。入退院を繰り返し、塞ぎ込みがちだった天花に対しても優しく接してくれていた。夜中に苦しくなって泣いているときは、落ち着くまで傍にいてくれた。そしてそれは天花に対してだけではなかった。深色はいつも誰かを助けるために行動していたのだ。
けれどその「助ける」の意味は、酷く歪んでいた。
熱でぼんやりとした天花の頭に、もう聞こえないはずの深色の声が響いていた。辛いのなら、苦しいのなら、それから逃げてしまえばいいのだと。何もかもを忘れるのか、何も感じない体になるのか、麻痺か死か。深色が与えようとする救済はその二つのどちらかだったのだ。
(どうして、私は――)
深色は勤めていた病院で患者を殺した。おそらく彼女はその患者のことも救うつもりでいたのだろう。苦しみに満ちた生を引き伸ばすくらいなら、死という永遠の安寧を。深色ならそうするだろう。
入院していた時、夜中に苦しみ出した天花に深色は言った。
「楽になれる方法を教えてあげる」
熱を持った体には、ひんやりと冷たいその手が心地よかった。その手に触れられていれば、悪い熱が吸い取られて、穏やかに眠れるのではないかと思うほどだった。
「ねぇ、天花ちゃんを本当に苦しめてるのは何だと思う?」
「病気なんじゃないの?」
思い浮かべていたのは、手洗いを促すポスターで見た、矢印のような角を持つ全身真っ黒の生き物だった。それを追払うことができたら病気は治る。天花は単純にそう考えていた。
「そう、天花ちゃんの中には悪いものがいる。今先生はそれをやっつけようと頑張ってるんだけど、やっつけてもやっつけても新しいのが来てしまうんだって」
「じゃあどうすればいいの?」
「本当にやっつけなきゃいけないのは、その悪いものを天花ちゃんにけしかけてる、一番悪いやつなのよ」
深色が何を言っているか、最初は理解できなかった。飲み込みが悪い天花に、深色は丁寧に説明してくれた。天花が最初に想像していた悪いものは一番悪いものの手下で、手下をいくら倒しても、親玉が生きているから同じことを繰り返している。数分かけてそんな単純な話を理解した天花は、深色に尋ねた。
「一番悪いやつも、先生がやっつけてくれる?」
「うん。でも先生の力だけじゃ足りないから、天花ちゃんにも頑張ってほしいんだ。大丈夫、そんな難しいことじゃないの」
深色は天花を抱き寄せながら言った。悪いやつをやっつけるための作戦。それに必要なものを、深色は天花の手にそっと握らせた。深色の手よりも更にひやりと冷たいガラス製の瓶。それに悪い熱を奪われて、天花はいつの間にか眠りに就いていた。
深色が教えてくれた作戦は二つあった。そのうち一つを天花は自分の意思で選んだのだった。それは一つの賭けで、その結果が今まで繋がっている。
(もう一つを選んでいれば、私は――)
確かに天花の苦痛はそれによって取り除かれた。でも同時に新しい苦しみが始まった。その痛みに耐えられなくなって、天花は深色が与えてくれた魔法に縋った。
つらいことは忘れてしまえば、それで心を痛めることはない。
しかし完全に忘れることはできなかったのだ。記憶の輪郭がぼやけてしまっていても、時が様々なものを押し流しても、真実は幽霊のように天花にその白く透けた手を伸ばす。
水底に引きずり込まれていく。人間は水の中では息が出来ない。声は泡になって虚しく昇っていくだけだ。けれどいつまで経っても底に辿り着くことが出来ない。苦しみは終わらずに、酸素がなくなりつつあっても意識を失うこともできずに、ただ下へ下へと落ちていく。
(深色なら終わらせてくれるとわかっていたのに、どうして――)
どうして自分自身でその手を振り払ってしまったのだろう。苦しみから解放されたいと思っていたはずなのに。もう終わりにしたいと願っていたはずなのに。
夢と現を漂う天花の周りに白い粒が舞う。雪のように見えるそれは、海の中だけで見ることができるものだ。幻想的で美しい光景だと言われるけれど、実際にはプランクトンの死骸などで構成されているという。このまま砕けて粉々になってしまえば、同じように白い雪になれるだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた天花は、必死で自分の名前を呼ぶ誰かの声を聞いた。
月野深色は、いつも笑みを絶やさずに患者に優しく接する、看護師の鑑のような人だった。入退院を繰り返し、塞ぎ込みがちだった天花に対しても優しく接してくれていた。夜中に苦しくなって泣いているときは、落ち着くまで傍にいてくれた。そしてそれは天花に対してだけではなかった。深色はいつも誰かを助けるために行動していたのだ。
けれどその「助ける」の意味は、酷く歪んでいた。
熱でぼんやりとした天花の頭に、もう聞こえないはずの深色の声が響いていた。辛いのなら、苦しいのなら、それから逃げてしまえばいいのだと。何もかもを忘れるのか、何も感じない体になるのか、麻痺か死か。深色が与えようとする救済はその二つのどちらかだったのだ。
(どうして、私は――)
深色は勤めていた病院で患者を殺した。おそらく彼女はその患者のことも救うつもりでいたのだろう。苦しみに満ちた生を引き伸ばすくらいなら、死という永遠の安寧を。深色ならそうするだろう。
入院していた時、夜中に苦しみ出した天花に深色は言った。
「楽になれる方法を教えてあげる」
熱を持った体には、ひんやりと冷たいその手が心地よかった。その手に触れられていれば、悪い熱が吸い取られて、穏やかに眠れるのではないかと思うほどだった。
「ねぇ、天花ちゃんを本当に苦しめてるのは何だと思う?」
「病気なんじゃないの?」
思い浮かべていたのは、手洗いを促すポスターで見た、矢印のような角を持つ全身真っ黒の生き物だった。それを追払うことができたら病気は治る。天花は単純にそう考えていた。
「そう、天花ちゃんの中には悪いものがいる。今先生はそれをやっつけようと頑張ってるんだけど、やっつけてもやっつけても新しいのが来てしまうんだって」
「じゃあどうすればいいの?」
「本当にやっつけなきゃいけないのは、その悪いものを天花ちゃんにけしかけてる、一番悪いやつなのよ」
深色が何を言っているか、最初は理解できなかった。飲み込みが悪い天花に、深色は丁寧に説明してくれた。天花が最初に想像していた悪いものは一番悪いものの手下で、手下をいくら倒しても、親玉が生きているから同じことを繰り返している。数分かけてそんな単純な話を理解した天花は、深色に尋ねた。
「一番悪いやつも、先生がやっつけてくれる?」
「うん。でも先生の力だけじゃ足りないから、天花ちゃんにも頑張ってほしいんだ。大丈夫、そんな難しいことじゃないの」
深色は天花を抱き寄せながら言った。悪いやつをやっつけるための作戦。それに必要なものを、深色は天花の手にそっと握らせた。深色の手よりも更にひやりと冷たいガラス製の瓶。それに悪い熱を奪われて、天花はいつの間にか眠りに就いていた。
深色が教えてくれた作戦は二つあった。そのうち一つを天花は自分の意思で選んだのだった。それは一つの賭けで、その結果が今まで繋がっている。
(もう一つを選んでいれば、私は――)
確かに天花の苦痛はそれによって取り除かれた。でも同時に新しい苦しみが始まった。その痛みに耐えられなくなって、天花は深色が与えてくれた魔法に縋った。
つらいことは忘れてしまえば、それで心を痛めることはない。
しかし完全に忘れることはできなかったのだ。記憶の輪郭がぼやけてしまっていても、時が様々なものを押し流しても、真実は幽霊のように天花にその白く透けた手を伸ばす。
水底に引きずり込まれていく。人間は水の中では息が出来ない。声は泡になって虚しく昇っていくだけだ。けれどいつまで経っても底に辿り着くことが出来ない。苦しみは終わらずに、酸素がなくなりつつあっても意識を失うこともできずに、ただ下へ下へと落ちていく。
(深色なら終わらせてくれるとわかっていたのに、どうして――)
どうして自分自身でその手を振り払ってしまったのだろう。苦しみから解放されたいと思っていたはずなのに。もう終わりにしたいと願っていたはずなのに。
夢と現を漂う天花の周りに白い粒が舞う。雪のように見えるそれは、海の中だけで見ることができるものだ。幻想的で美しい光景だと言われるけれど、実際にはプランクトンの死骸などで構成されているという。このまま砕けて粉々になってしまえば、同じように白い雪になれるだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた天花は、必死で自分の名前を呼ぶ誰かの声を聞いた。
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